のりさん牧師のブログ

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◎講義ノート:聖霊論03(追加)律法の種類と三つの用法

著者:水草修治(日本同盟基督教団苫小牧福音教会牧師、北海道聖書学院教師・組織神学)

 

(1) 律法の種類について

律法はその内容から、司法的律法・祭儀的律法・道徳律法に一応区別される。「一応」というのは区別しにくいものもあるという意味である。司法的律法は出エジプト記21-23章や申命記に記されるさまざまな民法・刑法を意味しており、祭儀的律法とは出エジプト記の幕屋建設の規定やレビ記に記される贖罪儀礼の規定を意味している。道徳律法は出エジプト記20章の十戒や、それをさらに要約した、全身全霊をもって神を愛し隣人を自分自身を愛するように愛せよという主な内容としている。

司法的律法は神政政治が行われた古代イスラエル国家における法であるので、他の時代・他の地域の社会には直接適用されない。しかし、そこに現れた神の正義を読み取り参考にすることができる。祭儀律法は、本体であるキリストの贖罪のわざの予型であり影であったから、本体が出現した新約の時代には、廃止された(へブル10:1-18)。しかし、キリストの贖罪の意味の多様性・深みを理解するうえで祭儀律法の研究は有益である。

十戒に代表される道徳的律法は新約時代においても適用される。だが、第四の安息日の定めは祭儀的性格をもつ律法として新約時代に旧約時代のまま適用されるわけではない。まず、新約の時代の安息日は、主イエスの復活を記念して週の第七日目から第一目に移された。その祭儀的厳格さについて言えば、旧約時代には安息日を破って薪を集めて死刑にされたという事例もあるが、新約時代にはそこまで祭儀としての形式的厳密さは要求されない。

「14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。 14:6 日を守る人は、主のために守っています。食べる人は、主のために食べています。なぜなら、神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。 14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:5-8)

むしろ、新約聖書が重んじるのは、十戒のスピリットとしての、神への全身全霊をもってささげる愛と、主が私たちを愛してくださった愛をもって隣人を愛することである。このスピリットに基づいて十戒の道徳律法は、主イエスの山上の説教や使徒たちの書簡(たとえばエペソ4:25-29などで再解釈されている。新約の時代は聖霊が注がれた時代なので、その道徳的要求水準は旧約時代よりも高く積極的になっている。一例を挙げておこう。

十戒では「盗んではならない」とされていた律法は、新約では「4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)とされている。

こうした十戒の新約的な積極的解釈の好例は『ハイデルベルク信仰問答書』の十戒解釈にあるので参照されたい。

 

(2)律法の三つの用法

①政治的・市民的用法

出エジプト記21~23章に記されるさまざまな律法や申命記の諸法規。また、パウロが次の箇所でいうところ。

「1:8 しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。 1:9 すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、 1:10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」(1テモテ1:8-10)

 

②教育的・認罪的用法

人に罪を自覚させキリストへと導く用法。信仰義認を非常に強調するルター派が重んじる用法。

「3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:19,20)

 

「3:10 というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』 3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』のだからです。

 3:12 しかし律法は、『信仰による』のではありません。『律法を行う者はこの律法によって生きる』のです。 3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。 3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:10-14)

 

③規範的用法

 キリストにあってすでに義と認められ子とされた者が、キリストに従って生きる上での規範・ガイドラインとして用いる用法。つまり、聖化の過程で用いられる律法の用法であり、義認とともに聖化を強調する改革派はこれを重んじる。「律法の第三用法」と呼ばれる。

 

追記> なお何を第一用法とし、何を第二用法と呼ぶかについては、神学者によって混乱があって、一定していない。

◎「幸いなるかな」 詩篇1篇       

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序論
 人は皆、幸せを求めて生きています。人は皆、幸せを感じたくて生きています。それはまだ得ていないからこそ求めていると言えるし、既に得ているがそれを継続させるか、若しくは更に高いレベルの幸せを得ようとする欲求です。
 私も永らく仕事をしてきました。それは金銭を得て、家庭に持ち帰り、妻や子どもたちに美味しいものを食べさせ、新しい服を着せ、清潔な住まいに共に暮らすところに幸せを見出していたからだと言えます。また、そのようにして家族の一人ひとりから、父親として、夫としての称賛の言葉を得るという満足感や達成感にも幸せを求めていたのかも知れません。
 あなたはどうでしょうか。あなたにとっての幸せを感じているでしょうか。その幸せを得ようとして生きているでしょうか。
 聖書は、幸せについて何と言っているでしょう。今日取り上げた詩篇1篇は「幸いなことよ」という言葉で語り始めています。この詩篇の記者である詩人は、恐らく、この詩が聖書の詩篇の最初に採用されるとは思っていなかったでしょう。図らずも、この詩篇1篇に選ばれた詩は、聖書の中のオアシスと言われる詩篇の序章とされました 。いにしえの聖徒から現代の聖徒に至るまで、神への祈りを導き、支え、育んできたのです。その詩篇が、まず「幸いなことよ」で始まることに注目し、この第一篇を通して語られている神の恵みについて教えられたいと思います。
 聖書が言う幸いとは何でしょうか。私たちにとって本当に幸せとは何でしょうか。

 

1. 正しい者の道
 繰り返しになりますが、この詩篇1篇の特徴は、他に149ある詩篇のプロローグだという事が言えます。つまり詩篇と言う歌を通して神様が何を私たちに教えようとしているのか。そして、詩篇という歌をどのように読んでいくのかということが書かれていると言えると思います。
 それはつまり神への向い方。神とのつながり方。神への礼拝。神への祈りとして表される私たち信仰者の態度であり姿勢であるとも言えます。また、そこから始まる信仰者の生き方そのものかもしれません。そこで、この詩篇記者は二通りの道として、一つは正しい者の道。もう一つは悪しき者の道を示しているのです。どっちが幸せだと言っているでしょうか。幸せは1~3節に見ることができます。
「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。」
 詩人は力強く叫びます。「幸いなことよ」と。何がそんなに幸いなのか。何が叫ぶほどに幸せなことなのか。それはまず何を喜ぶかということです。ここに、嘲る者と主の教えを喜びとする者が対比されているのがわかるでしょう。嘲る者とは何でしょう。ここで詩人が言っている嘲る者というのは、神を信じないばかりか、信じて歩んでいる人のことを馬鹿にする者、神を愛し神に信頼して生きることを蔑んで喜んでいる人のことです。
 私たちはいつも喜んで暮らしたいと思っていると思います。しかし、その喜びには大きく二つの種類があり、どちらかを喜ぶ生き方かで人生がまったく変わるということなのです。
 主の教えを喜ぶ人の歩みはどうでしょう。この喜ぶと訳されている言葉は「愛する」とも訳せる言葉です 。つまり愛するから喜ぶ。愛する人の手紙を何度も繰り返し読むように、主からの手紙である聖書を読み、愛する主の言葉として聴きたい。愛するお方の言葉を、そのお話をいつも聴きたいと願うのです。神の言葉を愛し喜び、それを口ずさみ、何度も何度もその言葉を繰り返す中で、益々愛する人の言葉で心が満たされるように、真実な神の愛の御心を悟らされて、更に喜ぶものとなっていくのです。そういう人の歩みを詩人は「その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」と確信を持って宣言しました。
 それは、主の教えを喜ぶという生き方が神との密接なつながりをもたらすからです。神と繋がった関係はいつも神からの愛と恵みに満たされます。栄えに満ちた神と繋がっているので、その人の歩みには神の栄光が溢れ、それが感謝と賛美として礼拝に現れるのです。
 
2.悪しき者の道
 しかし、一方悪しき者はそうではないと4節に書いてあります。つまり、神を愛し信じる人に対して嘲る人。神のおしえを喜ばず、神の教えを蔑み、神の教えから自由になることに喜びを求めている人。その人はどのようなものか。さきほどの主の教えを喜ぶ人が、流れのほとりに植えられた木であることと対比して、それは「まさしく、風が吹き飛ばす籾殻だ」と断言しています。
 それは地に根を下ろす木ではなく、芽も出なければ根も生えず、風が吹けばすぐに散らされてなくなる籾殻だと言います。流れのそばに落ちても種ではないので、何の意味も持ちません。いずれ腐って土に戻るだけの存在です。なぜなら、籾殻にはいのちがないからです。悪者の道はいのちがないから、育ちもしなければ、成長もしません。そしていずれ滅びるのです。6節を読みましょう。 
「まことに、正しい者の道は主が知って おられ、悪しき者の道は滅び去る。」
 これが、この詩篇1篇の結論だと言えるでしょう。悪しき者の道は滅びるとはっきり書いてあります。この真実も聖書は割引しません。神に逆らう者は滅びるのです。悪い者の道は滅びる。大変、重い言葉です。しかし、この言葉は私たちに大変重い言葉であるからこそ、読者である私たちに大切な問いを与えます。それは、あなたにとっての幸せはどっちなのかということです。「幸いなことよ」と本当にあなたは叫ぶことができるか。
 それは、この地上では悪い者の方が儲かって、得をして、栄えているように見えるからです。このことについてルターはこのように言っています。
「ことに、悪しき者が彼らの意のままに繁栄し、彼らの富と名誉と力が遥かに優るからである。これに反し正しい者は悪魔と世から、肉体も魂も名誉も富みも毀損され、迫害され、彼らの中には暴徒や異端者のように、また悪魔の子のように惨殺される者も多い。だれがこのようなことを我慢して待つだろうか」
 このテーマは、実は詩篇の中に多く見られるテーマでもあります。その理不尽な出来事に信仰者はどのように向き合うのか。神がおられながら、どうしてこのようなことが起こるのか。その叫び、嘆きが詩篇のいたる所に見ることができます。まさに、この詩篇1篇が全詩篇の序章として、その役目を果たしていると言えるでしょう。

 

3.時が来ると実を結ぶ
ルターは続けてこう言います。
「だから沈黙してあなたの道を主にゆだね、主を待ち望みなさい。主がこれをしてくださるであろう。」
だから待ち望むことの必要をルターは語ります。しかし、いつまで、どのように待つのか。それがこの詩篇1篇で言う、正しい道を選ぶか、悪しき道を選ぶかという、私たちの幸せを決める大切な選択に導くのです。ルターが言う「待ち望みなさい」という言葉は、ただ黙って何もしないでという意味ではありません。それは、主の教えを口ずさみつつ待つという積極的な忍耐です。しかも、多くの詩篇がそうであるように、私たちの嘆きが喜びに変えられ、呪いさえも賛美に変えられるという恵みにあずかるのです。それは、状況に左右されていた者が、状況が変わっていないにも関わらず、祈りの中で不思議と整えられて、主のいのちに溢れるようにされるということです。
 特に「時が来ると実を結び」という言葉に、主の深い憐れみを覚えます。今、もし、主の者とされていながら全く不甲斐ない歩みをして、成長のない自分にがっかりしていたとしても「時が来ると」いつか、神のときにきちんと実を結ぶ。それは主と繋がっている限り、主が必ず実らせてくださるという約束です。それは流れのほとりに「植えられた」と書いてあるように、植えてくださったのが主だからです。そのとき、私たちは心からこう叫ぶことができるのです。「幸いなことよ!」それは、主が私たちのことをよく知っていてくださるからです(6節)。
 主の教えを愛し喜ぶ者として、これからも昼も夜も詩篇を通して味わってまいりましょう。

 

 

聖霊論04 パウロの義認をめぐるNPPの議論

聖霊論04 パウロの義認をめぐるNPPの議論  

著者:水草修治(北海道聖書学院教師・日本同盟基督教団苫小牧福音教会牧師)

 

序 ルター派・改革派の義認理解

  ルター派アウグスブルク信仰告白は、第4条「義とせられることについて」で次のように告白する。

 「また、われらの諸教会はかく教える。人は自分の力、功績、或は、業によって神の前に義とせられることはできず、キリストのゆえに、信仰によって、代償なく、神の恩恵により義とせられる。その時、人々は恩恵の中に受け入れられ、その死によってわれらの罪のために贖いとなられたキリストのゆえに、その罪が赦されることを信ずる。この信仰を神はみ前に義と認められるのである(ローマ3章、4章)。」

 改革派のウェストミンスター小教理問答の問答33には次のようにある。

「問33 義認とは、何ですか。
答 義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受けいれてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受けとるキリストの義のゆえです。」

  両信仰告白の表現は違うが、内容は同じである。すなわち、

義認は①人間の功績によらず神の恵みによって、 

②キリストの義を根拠として(キリストの義を転嫁されて)、 

③神の御前に罪をゆるされ正しいと受け入れられる・・・ことを意味する。

 

 *両告白においては、キリストの懲罰代理(代償的贖罪 penal substitution)と義認とが緊密に結びついている。

 

1. E. P.サンダース『パウロ』における、「義認」の理解

 ところが、E.P.サンダースとN.T.ライトは、義認に関する新しい解釈を提案している。

① サンダースの「義認」解釈

 第一に、サンダースはブルトマンが1世紀のユダヤ教が「悔い改めも、贖いも、罪の赦しもない宗教だ」としたのに対して、実際のユダヤ教は契約規範主義(神の契約の選びが先行し、選ばれた者として律法を規範として守るという考え方)であったとする。 そして、福音書に見える形式主義的で偽善的な律法学者・パリサイ派の姿は、福音書記者による戯画化であって、当時のユダヤ教徒の現実とかけ離れているとする。

 第二に、サンダースは、パウロの「義認」は「『正しい者と正しいものとみなす』こと、つまり、罪責のない者を潔白であると考える、あるいはそう宣言すること」という普通のの意味でなく、「変えられ」「移され」て「キリストと一つにされ」「新しく造られたもの」の一部となったという意味だと主張する。その根拠は、パウロはローマ6:7でdikaiow をこの通常の枠を超えて「解放する」という意味で用いていることである。パウロ自身、類似の文脈のローマ6:18では「解放するeleuqerow」ということばを用いている。このローマ6:7のdikaiow の唯一の例外的用法から敷衍して、パウロにおいてはすべて「義とされる」ということばは、「移されてキリストと一つにされた」(ガラテヤ3:8)という意味で用いているとしている。サンダースは、イエスの死を義認の根拠とする刑罰代理の記述が、パウロ書簡の1コリント15:3;ローマ3:21-25;ローマ5:9,18;ガラテヤ3:13;2コリント5:21にある事実を渋々認めざるをえないが、「イエスの死を犠牲ととる解釈はパウロの思考の中心にはない。」と述べて、「彼の思想の核心は別の観念群、つまり、キリストへの参与と、<罪>への隷属から<霊>にある生の状態への変化にある。」と主張する。

 第三に、サンダースは、パウロが「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」(ガラテヤ2:15)「律法による義についてならば非難されるところの無い者」(ピリピ3:6)だったと言っているように、彼はキリストを信じる以前も自分は罪人であると考えてはいなかったから、パウロにおいて「義とされる」というのは、神の御前で「罪を赦され正しいと受け入れられる」という意味であるはずがなく、彼は「最後の審判で自分を告発するような否定的要素を考えることはできなかった。」とする。

 第四に、サンダースは、ガラテヤ書の「論争の主題は、『個人はいかにして神の目の前に義たりうるか』ではなく、むしろ『異邦人は何を根拠にして終わりのときに神の民に加わることができるか』というものであった。」「『信仰によって義とされる』ことは『滅びるはずのグループから救われるはずのグループへと移される』ことを意味する。」「パウロは、異邦人に対する神の要求は、イスラエルの神を受け入れることとイエスを救い主として受け入れることのみであると論じた。彼の立場の積極的な表現は『信仰によって義とされる』、より正確には『キリストへの信仰によって義とされる』であり、消極的な言い方は『律法の行いによるのではない』、あるいは単純に『律法によるのではない』であった。彼はキリストへの信仰という要件を、異邦人にもユダヤ人にも同じように求めた。」つまり、サンダースによれば、ガラテヤ書では義と認めることは、罪の赦しと関係なく、キリストを信じ神の民に加えられる条件についてだという。

 

<コメント>

 第一に、サンダースがブルトマンに反論して、福音書に見える偽善的な律法学者・パリサイ派の姿は、福音書記者による戯画化であって、1世紀のユダヤ教徒の現実とかけ離れているとする件について、どのように考えるべきだろうか。旧約の宗教は神の恵みの契約の選びが先行し、選ばれた者として律法を規範として守るという「恵みの宗教」であるというのは改革派神学の標準的な理解である。だが、福音書は1世紀のユダヤ教の中の一部はこの本来性から逸脱した人々も多く、当時のユダヤ教徒の中には多様性があったことを示している。選びの民として律法に誠実に生きようとした人々としては、シメオン、アンナ、ザカリヤ、洗礼者ヨハネらがいた。パリサイ派であっても、律法の根本精神が神への愛と隣人愛であることを正しく読み取っていて、主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と評された人もいた。パリサイ人であったニコデモ、アリマタヤのヨセフは、神の国を求めてそれをイエスのうちに見ていた。主のもとに来た富める青年は、永遠のいのちを得るために何かすでに与えられた律法に勝る行いが必要であると考えていた。また、パリサイ人・律法学者たちのうちイエスに敵対する人々は、その教えは立派で異邦人伝道にも熱心だったが、偽善に陥っていた。さらに、祭司階級を占める合理主義的なサドカイ派、そして世俗的なヘロデ党と呼ばれる人々も存在していた。

 

 第二に、サンダースがローマ6:7のパウロのdikaiowの唯一の例外的用法を土台にして、ほかの全ての箇所のdikaiowまでも、「移される」と解釈すべきだとする論法には無理がある。ローマ書3:19-26、同4:6-8、25、同5:8,9など、5章までは、「義とする」は「法廷的に罪を赦され正しいと受け入れる」という普通の意味で解釈できる。彼は、一つの例外的用法をもって、大多数の普通の用法として読める箇所までも読み替えるという過ちを犯している。

 

 第三に、「自分たちユダヤ人は罪人ではなかった」(ガラテヤ2:15)と言っているから、パウロは義認に関して罪を課題とは考えていないという主張は間違いである。この箇所は、文脈上、「罪人」とはユダヤ人に対して神を知らぬ「異邦人」の同義語として用いられているのであって、彼は自分たちユダヤ人は本質的に罪がないと主張しているわけではない。また、パウロがかつて自分は「律法による義についてならば非難されるところの無い者」(ピリピ3:6)であったというのは、彼が完全に律法を守っていたという意味ではなく、彼がユダヤ教にいたころ、そのサークル内の人々の基準からすれば非難されるところのない者であったという意味に過ぎない。実際、パウロはエペソ書では「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)と述べているし、後年には、自分のキリスト教徒迫害時代を振り返りつつ、「私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)とまで告白している。もっとも、サンダースはエペソ書とテモテ前書をパウロの筆と認めないが、彼がパウロ真筆だと認めるローマ書も、パウロは5章8節で「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と述べている。つまり、パウロは自分が本質的な意味で罪がなかったなどとは言っていない。したがって、罪人であったパウロは「神の御前で罪を赦され正しいと受け入れられる」必要があった。

 

 第四に、ガラテヤ書の主題の件である。確かにガラテヤ書の主題は、「個人はいかにして神の目の前に義たりうるか」ではなく、むしろ「異邦人は何を根拠にして神の民に加わることができるか」である。しかし、だからといって、義認という用語が罪に関係していないという理由にはならない。ローマ書でも義認が1章から4章で論じられるが、ローマ書の背景にはガラテヤ書のような異邦人が神の民に加えられることに関する論争はなかった。ローマ書は、1章後半で異邦人を、2章でユダヤ人の罪を取り上げ、両者ともに罪人であると断定し、その罪の赦しとしてのキリストの贖罪死とそれを根拠とする義認を3章で論じている。罪の問題は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、神の民に加わるため、あるいは神の民であり続けるために、解決しなければならない課題であった。

 以上のように、義認を、われわれの罪のためのキリストの犠牲死を非核心的なこととして、「キリストへの参与」あるいは「神の民に加えられる」ことこそが核心であるとするサンダースの論は、半分正しく半分間違っている。パウロがいう義認とは、通常の用法どおり、「法廷的に神の御前で罪赦され正しいと受け入れられる」ことを意味している。確かに「わたし(主)はあなたの神となり、あなたはわたしの民(子)となること」、すなわちサンダース風に表現すればキリストへの参与が聖書的救済の究極目的であることは事実なのだが、そのためには、キリストの犠牲の死を根拠とする無罪放免が必要なのである。

 

② N.T.ライトの「義認」解釈

 ライトは、1世紀のユダヤ教文献に多く当たったサンダースを評価するが、サンダースが義認については伝統的な立場をとり続けたことを批判する。サンダースとしては、キリストの犠牲に基づく義認はパウロ書簡の多くの証拠聖句ゆえに、渋々述べたことであるのだが。

 ライトは、「『義認』は契約用語です。16世紀や17世紀の議論で知られるようになった言葉の意味ではありません。1世紀のユダヤ教における意味です。パウロが義認について述べるとき、第二神殿期ユダヤ教の思想世界全体の文脈で使っています。」と主張し、さらに、「アウグスティヌス以降、『義認』に関して論争されてきた問題のある側面は、実はパウロ書簡の文脈とは何の関係もないことは明らかです。1世紀における『義認』とは人が神との関係をどう確立するかということについてではありません。」と断言して、特異な義認論を展開する。

 

 第一に、ライトは、「義認」を彼が想定する1世紀のユダヤ教徒の聖書の物語と重ね合わせて解釈する。ライトによれば、1世紀当時のユダヤ教徒たちは、神殿は再建されずメシヤも到来しておらず、異邦人はまだイスラエル服従していないのだからバビロン捕囚は終わっていないと考えていたとして、その時代の中でユダヤ教徒たちの間では、「義認」は異邦から圧迫を受けるイスラエルを、神がご自身の契約に基づいて終わりの日に回復させてくださる行為を意味するようになったという。ユダヤ教サークルにいたパウロは「義認」ということばを、その意味で用いているはずだから、パウロのいう「義認」は「(終わりの日、)誰が契約の民の一員であるのかに関する問題である」とする。

 

 第二に、ライトはキリストが神の契約の民の代表だとするが、刑罰を神の民の代理(身代わり)として受けた方であるとは言わない。ライトは言う。「この認定の根拠はイエスの死と復活、その代表的意義である。罪が広がったために、人類との契約関係を守るには罪が処理されなければならなかった。神は御子を通して自らこれを遂行された(ローマ3:24-26; 5:8-9)。約束の祝福の実現を阻む律法の呪いを、イエスはご自分の身に背負われた(ガラテヤ3:10-14)。復活は、イエスが、したがって彼に属する者たちが、神の前に義であるという神の宣告である(ローマ4:24-25)。(中略)神はついに歴史の中で行動し、ご自分の契約の民イスラエルが誰であるかを明らかにされた。しかし、それはイエスただ一人であり、『ユダヤ人の王』として民を代表したお方としてであった。」

 

 第三に、ライトは、現在的義認は予告的なものであり、未来の審判における義認が実物であるとする。「信仰を根拠としてなされる現在的義認は(ローマ3:21-26)、最後の審判で全生涯を対象としてなされる最終判定をあらかじめ正しく告げるものである(ローマ2:1-16)。別の角度から見れば、この将来的判定は復活そのものである(ピリピ3:9-11)。」

 

 第四にライトは、伝統的な義認理解がまるで善き業を軽んじることを教えているかのように、「パウロにおいては『善行』を疑問視するような態度は微塵もない。むしろパウロは回心者たちが契約の民に相応しい歩みをすることを期待している(ローマ6章他)。」と力説する。

 

<コメント>

 第一に、聖書解釈の原理的問題。神は記者の置かれた時代の文化の器に啓示を入れてお与えになるから、我々が聖書に記された啓示を読み取るには、時代文化との類似性を考慮しつつも、むしろ文化との区別性にこそ着目しなければならない。だが、えてして時代文化との類似性を見つけた研究者は、その点からすべてを説明できる言いたがる。ライトも1世紀のユダヤ教との類似性に囚われ、その点からすべてが説明できるかのように主張する。仮に1世紀のユダヤ教の中で「義認」が終わりの日に神がその民をご自分の民として認めるという意味で比喩的に使う場合があったとしても、ユダヤ人たちが、この意味でのみ義認ということばを用いたとは考えられない。なぜなら、彼らが慣れ親しんだ旧約聖書の用法では、義認は「被告に法廷で無罪の裁定をする」ことを意味するからである。旧約聖書において、「義と認める」の14例は明確にその意味で用いられており(出エジプト23:6,7;申命25:1;ヨブ11:2;13:18;27:5;32:2;40:8;詩篇32:1,2;106:31(LXXでは105:31);143:2;イザヤ5:23;50:8;53:11;ダニエル12:3)、「神の民と認定する」の意味で用いられているとも解しえなくもないのは2例にすぎない(イザヤ45:25;ヨエル2:23)。1例は曖昧である(創世15:6)。

つまり、「義認」は、ライトの主張に反して、16,17世紀に問題にされたのと同じ意味で旧約聖書以来、用いられている。

 

 第二に、パウロがキリストをローマ5:8,9で代表としているのは事実であるが、同3:24-26ではキリストは代理として血による宥めのささげ物となられたと書かれている。この文脈の中でキリストの贖罪の代理性を軽視ないし否定するのは無理である。

 

 第三に、ライトは最後の審判における義認が本物であり、キリストを信じた時点における義認は予告的なものとするのは、ローマ5:1-10におけるパウロの趣旨から外れている。パウロは、過去、キリストを信じて義と認められ、今すでに神との平和を得ているゆえに、未来については神の審判において神の怒りから逃れること希望をもって喜んでいる。そもそもパウロはここで、最後の審判における神のさばきについて「義認」という用語は用いていない。第四に、パウロが善き業を重視しているというのは力説するまでもなく当然のことである。ルターが善き業を軽んじたというのは、ライトの偏見にすぎない。

 

<付記>英国国教会聖公会)主教N.T.ライトの背景に見え隠れすること

①国教会の現状。クリスマスとイースターと葬式にしか教会に来ない、個人主義的な信徒たちを抱えているのが、英国国教会の現状である。ライトの著書は、こうした嘆かわしい状況を背景としていることが色濃く感じられる。

② 彼が所属する英国国教会の伝統。宗教改革を知らず、したがって、恩寵100%の救い、信仰義認を知らず、ピューリタン(英国の改革派信仰者)を弾圧した教会である。救済論については半ペラギウス主義、アルミニウス主義である。

③ 英国人として米国的なるものを馬鹿にするところがあり、ドイツ的なものに批判的である。

④こうした背景をもって、ライトはおおよそ次のような主張をもっていると見える。<「代理として死んだイエスを信じたら罪赦されて死んだあと天国に行ける」あるいは「信徒は大艱難の前に携挙される」という信仰は、ギリシャ二元論の影響を受けた彼岸主義的なものであって、教会にも社会にも無責任な個人主義的信徒を作っている。本来、福音とは「キリストは王である」という宣言であり、王なるキリストは契約の民の代表として復活し義と認められる者たちの先駆けとなられた。義認とは再臨の日に神が民を契約共同体に属していることを認定してくださることである。今の世の営みは次の世とつながっているから、キリスト者はその日を目指して、王の臣民として教会と社会で責任的に生きるべきである。>

 

 

 

3.聖書はなんと教えているのか?

 

 人間における問題の本質はサタンの束縛であると捉えるならば、サタンからの解放とキリストの支配のもとへの移行こそ贖いであるということになる。これが古代ギリシャ教父たちの唱えたところであり、現代ではアウレンやN.T.ライトが再評価していることである。他方、人間における問題の本質が、神の前における人間自身の罪であると捉えるならば、神による義認が要請される。17世紀のプロテスタントの信条はおもにこの立場である。では、聖書はどのように教えているのだろうか。

 

(1)パウロ書簡

 まず、ローマ書1章から8章を取り上げる。そのアウトラインは下記のように理解する。

 

<ローマ1:18-3:20>異邦人とユダヤ人はともに神の前に一人残らず罪人であり、律法の行いによっては誰一人、神の前に義と認められない)。

神は、キリストの血による宥めのささげ物という刑罰代理の贖いを根拠として、罪人を義と認めてくださった(3:21‐31)。アブラハムダビデは、その実例である(4章)。

<ローマ5:1-11>キリスト者は、過去にキリストにあって義とされ、それゆえ現在は神との平和をもち、未来は審判で神の怒りから救われるということである。

<ローマ5:12-21>アダムとキリストは人類のふたりの代表(representative)である。<ローマ6:1-7:6>キリスト者は、代表であるキリストに属する者として、「罪」に対しては死んで「罪」の奴隷状態から解放され、神に対しては義の奴隷として、新しい御霊によって生きるものである。なおここでいう「罪」は神と対置されていることによって、擬人的に表現されている。

<ローマ7:7-25、8:15>時々、キリスト者は、律法にこだわって生きようとするとき、かえって「罪」の力に捕らえられて、再び律法と罪の奴隷に戻ってしまったかのような恐怖に陥ることがある。

<ローマ7:24-8:16>しかし、その時には再びキリストにあって義と認められたという原点に立ち返り、神の子としてくださる御霊によって導かれて、神の子ども、すなわち、キリストとの共同相続人として生きるのである。

 

 つまり、パウロは、ローマ書1章から5章11節までにおいては、キリストを私たちの罪に対する神の刑罰を代理(substitute)となって担うお方として描いている。人は、神の前に己の罪を自覚させられ、キリストを信じ、キリストの義を受け取って、神の前に義と認められる。

そして、5章後半からは、キリストは契約共同体である神の民の代表であり王であり、かつて「罪」の奴隷であった者が、今や代表であるキリストに属する者として、「罪」という主人に対して死んで解放され、神に対して義の奴隷として生きるということが教えられている。なお、6章では神に対して「罪」が擬人化されて表現されており、7章後半で義人的に表現される「罪」はキリスト者のからだのうちに住んでいて、彼の意志に反して働く力のように描かれているのは、サタンや悪霊たちを想定しているのであろう。

つまり、パウロはローマ書1章から5章11節で、罪を身代わりに担ってくださった代理者としてのキリストを表現して義認を語り、5章12節から8章16節で、(時には律法によってかえって「罪」に捕らわれて苦悶することがあっても)キリストの御霊によって神の子、すなわちキリストとの世界の共同相続人とされて、神の前に責任的に生きることを教えているのである。

キリストのイメージをいうならば、ローマ書1章18節から5章11節ではキリストは自身を罪を償うなだめの供え物として神にささげた大祭司である。このキリストこそ私たちが義と認められる根拠である。このキリストはアンセルムスと17世紀のプロテスタントの信条が強調したキリスト像である。そして5章12節から8章16節後半では、キリストは十字架の死と復活によって「罪」を攻撃し征服する王である。こちらは古代ギリシャ教父たちが強調したキリスト像である。つまり、ローマ書1章から8章は、前半で大祭司キリストを、後半で、王なるキリストを背景として、救いにについて教えている。「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」なのである。

ローマ書だけではない。エペソ書では、「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。」(エペソ1:7)と、キリストの刑罰代理を教え、かつ、「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」(エペソ2:1-6)と、サタンの圧政から解放されて王なるキリストとともに生きる神の民がキリスト者であることが教えられている。また、コロサイ書も「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13,14)と一息で、キリストによる刑罰代理による贖い、罪の赦しとともに、サタンの支配から王なるキリストの支配に移されたことの両方を教えている。

 

(2)聖書全巻を挙げて

パウロ書簡だけではなく、ヘブル書も、キリストは「多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげ」、神にささげたその血をもって私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせるのだと教えている(ヘブル9:14)。キリストはご自分をいけにえとして神にささげて贖罪を完成した大祭司であると教えているのである。同時にまた、ヘブル書はキリストはその死をもって悪魔を滅ぼして、我々を解放したとも教えている。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(ヘブル2:14,15)

ペテロもまた、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」(1ペテロ2:24,25)と、キリストが代理者として私たちの罪を背負われたお方であるとともに、私たちの牧者・監督者として私たちがしたがって行くべきお方として表現している。

黙示録に現れる神とともに御座に着くキリストは子羊である。「小羊は屠られた姿で立っている」(黙示5:6)とあるように、私たちの代理として罪を償ってくださったお方であるが、御座に着くことによって世界の王であることを表している。

聖書は我々の罪を背負われた代理者としてのキリスト、すなわち義認の根拠としてのキリストと、我々がしたがって行くべき代表者(サタンに勝利した王・世界の相続者)としてのキリストの両面を、創世記第3章から語り始めている。始祖アダムが堕落したときに啓示された原福音には、二つの表現がある。第一は、蛇に対する呪いのことばの中で語られた、「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)であった。第二は、神がアダムと妻の罪の恥を覆うために、動物を犠牲として血を流し、手ずから作ってくださった皮衣である。この出来事以前、肉食はなかったから(創世記1:29)、アダムたちは動物の血を流すを経験したことがない。神によって動物の血が流されて自分たちの罪深い裸の恥を覆うための衣が与えられたことは、彼らにとってどれほどの衝撃であったかは想像に難くない。いちじくの葉の腰覆いが自力救済主義の象徴であれば、神が用意してくださった皮衣は恩寵救済主義の象徴である。あの皮衣の出来事は「血が流されることがなければ、罪のゆるしはないのです。」(へブル9:22)という教えを髣髴とさせる。神が「原福音」において啓示されたキリスト像は、人類の代表としてサタンに勝利する王であり、人間の罪の償いのための代理の犠牲となる大祭司の両面をもっておられた。キリストは祭司王なのである。

 

結論

 N.T.ライトが、王(契約の代表)であるキリストの臣民として、今の世と教会に責任的に生きるキリスト者を育てたいと願っていることには同情するが、彼の義認理解には賛同できない。彼は1世紀のユダヤ教との類似性に囚われすぎて、「義認」を「終わりの日の契約の民としての認定」と読み間違えている。

 サンダースはローマ書1章から5章11節までのキリストの刑罰代理による贖罪に基づく義認をパウロの非核心的部分であるとし、5章12節以降のキリストへの参与をパウロの救済論の核心であるとした。だが、それは彼の勝手な評価にすぎない。むしろ、我々はキリストの刑罰代理贖罪を根拠とする義認は、キリストへの参与の前提であると理解すべきである。

 彼らの義認理解は間違っているが、聖書的救いには、悪魔の支配からキリストの支配に移され、「キリストに参与すること」「王(契約の代表者)キリストの臣民」となるという側面があることは事実である。救いにおける、この側面は、義認論ではなく、むしろ「子とすること」と「聖化」に属することである。

◎レポート「イスラーム文化」 その根底にあるもの 井筒俊彦著

概要

われわれ日本人が、イスラーム文化をどのような目で見、どのような態度でその呼びかけに応じていくのか。その上で、イスラームと言う宗教の性格、イスラーム文化の根源的な形を把握し、改めてイスラーム文化の枠組みとの新しい出会いの場を考えていく。

 

I. 宗教(イスラームの宗教的規定)
1. 地理的広がり
① サラセン帝国時代は、中央アジア、東南アジアから中近東を経て、スペイン、北アフリカまでの広大な地域に広がっていた。
② 多くの誤解は、イスラームというと砂漠を思うことである。全体的に砂漠風土の中で生まれ育った宗教という漠然とした意味でならば砂漠的宗教かも知れない。しかし、厳密にいうと、イスラームはその起源においてすら、アラビア砂漠の砂漠的人間の宗教ではなかった。(2-③へ)
2. 預言者ムハンマド(=マホメット
預言者であり、イスラームの始祖。
② 元々は商人であり、当時のアラビアでは第一級の国際都市マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)でその才知をいろいろな局面で縦横に発揮した。
③ 彼は都市部の商人であり、砂漠的人間の価値体系に真正面から対抗し、それとの激しい闘争によってイスラームを築き上げた。
a. コーランにその闘争の記録がある。(コーラン9章に記述がある)
b. 彼は砂漠的人間がイスラームになったとしても信頼するなと警告している。
3. コーラン
「宗教を遊びごとか冗談くらいに心得て、この世にうつつをぬかしている人々などを構わず放っておくがよい。己れの稼ぎがもとで人間一人が破滅することもあるということをみんなに知らせてやるがよい。…結局そんな人々は己れの稼ぎで抜き差しならぬ破滅の道に深入りしてしまうだけのこと。己れの背信行為の罰として、(地獄に投げ込まれ)ぐらぐら煮えたぎる熱湯を飲まされて、苦しい懲戒を蒙るだけのこと。」(6章69節)
コーランムハンマドの商人としての価値観、性格をよく表している。上記コーランの、人間がこの地上で行う善悪の行為を、「稼ぎ」と考えることなどがその一例。
コーランでは、宗教も神を相手方とする取引関係、商売。
イスラームの建前としては、コーランは唯一無二の最高聖典
④ しかし、ハディースというコーランに並ぶ聖伝承がある。
コーランの読み方は自由。これがイスラーム文化の多様性、多層性の源。
コーランは聖書(多層的)とは違い、神の言葉を直接的に記録した聖典として完全に単層的。
4. ウラマー(ulama)
イスラーム共同体をアラビア語ウンマ(ummah)という。
②  ウンマの秩序維持に責任ある指導者「ウラマー」がいる。彼らは、コーランに精通している。
コーランとの関係において、源が一つであるという動かし難い絶対性を持ったものだから、そこから出て来るものも一つかと思うと、ウラマーの解釈の仕方によって何が出て来るかわからない。
④ 権威あるウラマーが自身のコーラン解釈に照らして、あるコーラン解釈が許容範囲を逸脱していると認めれば、正規の法的手続きを踏んで、異端宣告する義務がある。
⑤ 異端宣告を受けた者はイスラームから完全に締め出される。⇒神の敵となり、死刑、財産没収の対象。
5. 他宗教との関係
① イスラームでは、「宗教」という言葉の意味するところは、私たちとは違う。生活の全領域が宗教。だからイスラム教という呼称は相応しくない。
②  イスラームにとっての世界三大宗教には「仏教」は入らない。イスラームにとっての三大宗教とは、ユダヤ教キリスト教イスラームである。
イスラームの立場は、イブラヒーム(アブラハム)の宗旨をムハンマドが回復させるというもの。ムーサ(モーセ)もイーサ(イエス)も、ムハンマドと同等の預言者
6. 神(アッラー:Allah)
① Allahという名は、もともと神を意味する「ilah」という語に定冠詞「al」をかぶせた「al-ilah」が発音上つまって「Allah」となっているだけで、英語の「the god」と同等の意味。
キリスト教ユダヤ教と同じ人格神。
③ Allahは絶対的支配者であり、人間との関係においては、主人と奴隷の関係。父と子という概念はない。
④ 信者は、ムスリム(絶対帰依者)としてのイスラム教徒。
キリスト教との溝
a. 三位一体は偶像礼拝
b. 神が子を生した事自体が迷妄。
c. イスラームにおける三位一体とは、「神・イエス・マリヤ」

 

II. 法と倫理
 ※正統派、イスラームの主流、イスラーム共同体の大多数を占めるスンニー派は、宗教即法律という極端な立場をとる。約20年を経て、ムハンマドは神の啓示を記録する。その20年の歴史は、前期10年(メッカ期)と後期10年(メディナ期)に分けられる。今日のイスラーム法は、後期の文化パターンの展開である。
1. 前期(メッカ期)
◎メッカ期の特徴は、全体を包む雰囲気が異常なまでに終末論的であって、天地終末の 生々しいヴィジョンの醸し出す重苦しい雰囲気の中で、宗教が人間、個人個人の信仰の深 刻な実存的問題として浮かび上がってくるということである。
① 宗教が生の人間的体験であり、制度化されていない。
② 生きた人格的神と人間との人格的関係⇒「契約」
③ 神が人格的であるということは倫理的な神であるということ。

●神の、人間に対する義務が生じる。
a. 人間はもとより被造物に慈悲をかける。
b. 善だけをすること。
c. 言葉を翻さないこと。
④ 「神の義」という属性
人間の不義不正を激烈な怒りを持って罰すると言う神の恐ろしい倫理性。メッカ期の宗教性の根本的性格。宗教的世界観、人間観を暗い雰囲気で包みこむ。
⑤ 「怖れ」を信仰の同義語として使う。

⑥ 来世への重要性
a.終末はいつ襲ってくるかわからない。

b.ここから来る「怖れ」こそ、現世でのすべての行動の動機、道徳的真摯さの原動力でなければならない。
※メッカ期の宗教の根底。神の倫理に対する人間側の倫理は、神の倫理から来る「怖れ」がもたらす緊迫感である。

2. 後期(メディナ期)
①AD622年ムハンマドはメッカからメディナに移る。(イスラーム暦第1年)
サラセン帝国への道⇒新しい神の姿。

②慈悲と慈愛、恵みの主としての神
メッカ期後期から既に、来世的事態が明るくなるだけではなく、現世そのものが限りない神の慈愛のしるしに満ちた場所として、コーランに描かれる。
③「神(み)兆(しるし)」
人間に対する、神の恵み、恩寵として考えられた被造物、すなわちこの世に見出される限りの一切の存在者。
コーランの宗教的思想構造において、極めて重要な働きをする鍵の言葉の一つ。

④メッカ期の「怖れ」に対して、メディナ期の信仰との同義語は「感謝」である。
イスラームという宗教が、否定から肯定へ、消極性から積極性への転換。
⑤メッカ期では神と人との個人的な縦関係の契約。メディナ期では複雑に横に広がり、
預言者ムハンマドとの契約を結び神との契約が成立するというもの。この場合、ムハンマドは神の代理人となり、人間側の絶対的指導者となる。

●ここで「宗教」とは、もはやメッカ期のように、信仰の主体としての個々の人が、神にすべてを任せきって絶対服従を誓うと言う実存的決断に基づいた信仰事態を指すのではなく、むしろ、共同体に組織された信仰的・宗教的、かつ教義的な社会機構としての宗教であり、ユダヤ教キリスト教と並ぶれっきとした一つの歴史的宗教を意味する。
⑥「イスラーム」とはこの共同体的宗教の正式な名称である。
こうして、イスラームは個人の実存宗教であったが、いまや社会宗教となり、驚くべき速さで社会的、政治的に制度化され、ひとつの社会構造となった時点でのイスラーム共同体の宗教が自己表現したかたち、それがイスラーム法である。
ただし、ムハンマド生存中にはそこまでは進んでいなかった。
ムハンマド没後のイスラーム
a.ハデーィスによって、コーランで足りないと思われる箇所を補う。
b.「イジュティハード」:個人が自由に「コーラン」と「ハディース」を解釈して、法的判断をくだすこと。しかし、このイジュティハードが禁止されてしまう。
⇒「イジュティハードの門の閉鎖」(イスラーム法学の術語)
              
イスラームの法体系が固定化し、柔軟性を欠き、冷酷なまでに整然たる体系だけが残ってしまった。
※活発な論理思考の生命の根を切られてしまい、近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つとなった。


III. 内面へ道
ウラマーたちが、イスラームを社会制度的形態に発展させつつあったちょうどそのころ、それと並んで、そのまったく逆の方向に向かって、内面的視座とでもいうべきものを重視していこうという立場が、イスラーム文化形成の底流として強力に働きはじめた。
①ここで内面というのは、感覚、知覚、理性では全然とらえることができない事物の隠れた次元、存在の深層、深み。
②「内面への道」をとる人たちを、ウラマーに対してウラファーという。
③ウラファーとは、宗教をその霊性的、あるいは精神的内面性において体認しようとする人たちを意味する。
ウラマーとの激しい対立を生む。

1.外面主義者ウラマー顕教イスラームの顔=中心基礎概念は「シャリーア」(イスラーム法)
①サラセン帝国の基礎として確立することに成功した人たち。
②政治分野での体制派。保守勢力の代表。
③その時、その時の政治権力と結びついて、政治的権力構造の一部に組込むことに成功。
④事実上の支配者。
スンニ派に見られる、現世がそっくりそのまま神の国であるという捉え方。
ムハンマドを「市場を歩きまわり、ものを喰らう」ただの人と考える。

2.内面の道を行く人たちウラファー:密教イスラームの秘密の顔=中心基礎概念は「ハキーカ」(内面的実在性)
◎外に現れた形の背後あるいは奥底にあって、それを裏から支える内的リアリティーを「ハキーカ」と名付ける。
①外面主義者ウラマーに対抗。
②その時、その時の政治的主権体制への反抗を余儀なくされる。

③体制派から迫害を受ける。
⇒政府に対する反体制派、反逆者。コーランに対する背信者、異端者として殺戮される。
シーア派:始祖はイマーム、アリーとその二人の息子ハサンとホセイン➡「カルバラーの悲劇」
                       
預言者ムハンマドが世を去って以来、イスラームの歴史そのものが正義に反し、根本的に名違った世の中に生きているという感覚がある。
⑤自らをイスラーム共同体における異邦人であると意識している。
⑥ハキーカのないシャーリアは生命のないぬけがらにすぎないというのが、内面的道を行く人々の信念。

◎「内面への道」の二つの文化:シーア派イスラームイスラーム神秘主義
A. シーア派もさらに多くの分派があり複雑なため、十二イマーム派について検証。
ウラマーとは違い、コーランを読むときにアラビアの語義や文法が指示し許容する範囲で、その意味を解釈するにとどまらず、そのもう一段奥に「内的意味」を探ろうとする。

シーア派は、コーランを暗号書のように、神の言葉の内面を読み取ろうとする。この解釈学的操作を、シーア派独特の術語で「タアウィール」という。
シーア派は根本的にイラン的。
イマームと呼ばれる神的人間の存在を認め、それをすべての根底とする。イマームの人数は12人等限定的。
イマームシーア派の最高権威者の呼称。
イマームは、その人の生まれや血筋や、神の選びによって、あるいは先天的に定められていると考える。

B.イスラーム神秘主義スーフィー

シーア派よりももっと内面的本質、ハキーカに直通した人という意味だけで考えると、イマームはもっと一般化されて、一種の普遍的現象になり、それをワリーと呼ぶ。
②ワリーは、あくまで修行によってワリーになる。
スーフィズムの「内面への道」の第一段階は、神を見出し、神と会うこと。
スーフィズムでは、他のイスラーム共同体的が説く超越的、絶対的超越者、近づきがたい高見に合って、上から、外から人間を支配する超越神ではなく、むしろ、一切処に遍在し、あらゆるものの内面にあり、人間の魂の奥底に潜んでいる内在の神である。
コーランにも、神の内在性を説く章句を見出すことができる。
⑥禁欲と清貧を目指す、世捨て人である。
⑦現世批判と終末思想。メッカ期的啓示の精神。
⑧シャーリア的な外面的宗教行動に価値を置かない。メッカ巡礼も内面化することで意味を為さなくなる。
⑨自己の内面にある神を意識することで、我が我であることに苦悩を覚え、悪を見出す。
⑩修行の中で自己否定と自我意識の払拭に全力を尽くす中で、異常な実存体験をすることで「我こそは神」という境地に至る。➡ウラマーらにとっては神への冒涜。
⑪神になった人には、もう宗教は用がないと言いきってしまう。
⑫歴史的にも迫害を受けつつ危険分子として今日まで存続している。

 

感想

イスラーム文化。それは、第一に、シャーリア。宗教法に全面的に依拠するスンニ派の共同体的イスラーム。第二に、イマームによって解釈され、イマームによって体現された形でのハキーカに基づくシーア派イスラーム。第三に、ハキーカそのものから発出する光の照射のうちに成立するスーフィズム。どれが真のイスラームなのか。イスラームとは、どのグル―プも一歩も譲らない歴史に立った、闘争の文化だと言える。ここで、私が日本人の一人として言えることは、イスラームとは、あえて、このようなものだという理解である。そして、始祖であるムハンマドが心配し、言及していた「砂漠人がイスラームになったとしても信用するな」ということが、今は忘れ去られていると思う。
私が、キリスト者として客観的に考えさせられたのは、この三つの大きな流れでの神の捉え方の中に、大きく三種類の神を表現しているということである。それは第一に、完全に外的神に依拠するスンニ派。第二に、メディア期における慈愛と恩寵の主としての神を外的な存在として捉えつつ、内面的な信仰に立ち、神的人物をも認めるシーア派。第三に、あくまで内在する神に注目し、神秘的体験の中で神と一体化しようとするスーフィズム。その三つの流れに、それぞれを認め合えば三位一体の神を思わせるような姿を垣間見る。だからこそ、ユダヤ教キリスト教イスラム教の共通の歴史に立つアブラハムの神という、包括的な視点で捉えるなら、イサクの子孫であるユダヤ人ばかりか、イシュマエルを祖とするアラブ中心の彼らイスラームの方々の目が開かれて、イーサ(イエス)こそメシア(キリスト)であり、神(アッラー:Allah)であることを認め、信じ救われるように祈らざるをえない。同時に、イスラム国と名乗る集団など、イスラムを名乗る武装集団が世界を脅かしているが、彼らの思想の中心にあるのが信仰なのか、それとも、宗教を利用して、社会を自分たちの思い通りにしようとしている暴力集団なのか。彼らが砂漠の民であるなら、イスラームの始祖ムハンマドの言葉に従って、自らを吟味し、世の信頼を得るために、暴力ではなく、かえって謙虚に世界の声に耳を傾け、平和的に対話すべきであると、私は考える。

「闇に輝く大きな光」イザヤ9:2〜マタイ4:15.16

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序論

 この節の中心テーマは闇に光が輝くという希望である。その理由は、闇の中で見る大きな光、死の陰の地の上に輝く光に現わされる神の恵みによる救いが比喩的に示されているからである。ゆえにこのイザヤ書における9:2の役割としては、9章前半自体がそうであるように、イザヤを通して語られる他のさばきの預言の中にあって、読者に希望を与えていることがわかる。特に、1~2節には、3~7節の具体的なメシア預言を効果的に照らす役割があると言うことができる。
ヘブル語聖書では、9章2節から9章が始まる。そして、ここからまた詩文体になる。この部分が8章19節から9章1節と密接な関係を持つことは、この2節のテーマである「光と闇」の対比から明らかにされる。ここで言われている「闇」とは何か。また「光」とは何か。その二つのキーワードに注目しつつ、この2節から広がるイザヤの預言に聴いてみる。
 
1.闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち
 まず闇についての部分。「闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち」という表現である。ここでは闇の中ということばと死の陰の地が対応しており、歩んでいた民と住んでいた者たちがそれぞれ対応している。
 この「闇」と「死の陰」は、BC734年~732年にアッシリアのティグラセ・ピレセルが侵入して、占領した後の悲惨な状況のことだと言われている 。
 ここでは同じような意味でありながら、後半のことばによって、より具体的に救いが表されていることが分かる。それは、同義的並行法によって互いの意味を補い合っているからである。そこに「死の陰の地」と言われることで、当時の文脈としては、その闇というのは、民が受ける圧制であったり、苦難であったり、苦しみを表す暗黒であることがわかる。闇の中でも死の陰の地においても、そんなところを歩まなければならない苦しみがあり、そんなところなのに住まなければならない辛さがあることがわかる。その闇の中、死の陰の地で苦しむ民にとって必要なことは何だろうか。そのような自分ではどうすることもできない状況で、彼らにとって必要なのはメシアである。そのメシアへの希望。メシア自身が光として来臨する希望である。8章や9章8~10章4節に悲痛さが示されているのは、この預言が語られた時代での闇の状況であり、それによって、闇をも滅ぼすことができる光であるメシアへの渇望を表わしている。

 

2.大きな光を見た(る)~光が照った(光り輝く )
 次にその光について語られている部分をみる。「大きな光を見た~光が照った」という表現である。ここでは大きな光を見たことと光が照ったという言葉が対応している。
 それぞれの行の主動詞「見た」と「照った」は完了形であり、イザヤの目には、暗黒の闇の中に差し込む大きな光がはっきりと見えていたことがわかる。異邦人のガリラヤはまさに神の光栄を受けることが宣言されたのである。
 ここでも一見同じようなことを言っているようでありながら、民が見た「大きな光」がただ偶然そこにあったというよりも「照った(輝く )」という、光の出現の必然性を見ることができる。しかも、その光は暗闇の中にいる民の遠くにいて光っているのではなく、死を覚悟し、いのちを失いかけている民の真上に輝いているという救いであることがここに示されているのである。
 それが救いの光であり、神がもたらすメシアによる救いの預言であった。それは、神がイザヤを通してユダの民への救いの希望を与えるためであり、これから起こる背教への神のさばきとしての苦しみがあるが、必ずそこには救いの希望があることを予め示したものである。この希望はそれから約700年後にイエスによって成就した。

 

3.マタイ4章15~16節への引用
①文脈:イエスの宣教第一年開始のとき、バプテスマのヨハネガリラヤの国主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられたことを聞いて、イエスガリラヤに立ち退かれて、その宣教はガリラヤから始めることになった。そのことをマタイは「預言者イザヤを通して言われたことが、成就するためであった」として、イザヤ9章1~2節を引用した。
②歴史的関係性:イザヤの預言どおり、ガリラヤ地方はBC8世紀にアッシリアによって侵略され、イスラエル人は捕虜としてアッシリアに連行され、アッシリア人が植民地として移住した。そのためガリラヤに残留したイスラエル人には異邦人の血が混じって、イエスの時代には、ユダヤ地方の人たちからは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ蔑まれていた。
③イザヤ9:2とマタイ4:16との比較
Is.「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
Matt.「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 日本語訳での大きな違いは「歩いていた…住んでいた」が何れも「すわっていた」となっている点である。これはヘブル語では「住んでいた」יֹשְׁבֵי֙ yō·šə·ḇê に含まれる別意であるが、何れもギリシャ語で「すわっていた」καθημένοις(基本形κάθημαι =座る)と訳することで、歩くこともできず、虐げられてうずくまって身動き取れなくなっている状態を表わしていると考えることができる。マタイにおいて民の状態が窮状化しているのは、イザヤが預言したときから比較して、その時期が極まったことを表わしていると推察できる。
④メシアであるイエスは世の光としてこの世に来られた 。その救いの光であるイエスは、「異邦人のガリラヤ」に代表されるように、罪の暗闇で虐げられている人々、罪の報酬である死の地、死の陰で、立つこともできずに、ただ滅びを待っている悲惨な者を救うために来られたのである。つまりメシアは政治的な支配者としてではなく、人類全体のための罪からの解放者として表わされているのである 。
ヨハネが捕らえられたことは、光であるイエスが来られた世界がいっそう「暗やみ」、「死の地と死の陰」であることを証明していると考えられる 。

 

4.まとめ
 イザヤ9:1~2の預言は、表現としては婉曲的ながら、イザヤ9:6~7の預言との連続性の中で、マタイ4:15~16でその成就が明確に証しされているように直接的成就だと考えられる。バビロン捕囚以降、クロス王による解放を見ても、このガリラヤの地でイエスの出現以外、他に類を見ることができないからである。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12

 

文責:川﨑憲久

◎【要約と感想】「霊感についての教会の教理」ジェフリ・W・ブロミリー著 舟喜順一訳

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  教会の霊感の教理は、聖書自体の自己証言を出発点としており、それは聖書が神のことばであるという理解と無謬性への信頼において成立している。聖書でいう霊感とは、それは聖霊の働きであり、必然的に神的起源と権威から生まれている。霊感は、人間の精神の恍惚状態の高揚だけを指すのではなく、聖霊の内なる働きのことである。聖霊は、聖書によってイエス・キリストを証言している。聖書を与えてくださったのは聖霊なる主であるから、聖書を通して聖霊の声を聞かなければならない。聖霊によって書かれたものは、聖霊によって読まなければならない。

 

Ⅰ. 初代教会を脅かした異見
  ユダヤ主義的影響により、聖書がただ感情に訴えるような程度の低い文書と同等にされない助けとなったが、イスラエルにおける聖書諸書著者等の人間や状況を通して、神が救いの御業を行われたにも関わらず、ユダヤ選民意識に強調点が置かれ、聖書の神的性質と権威を分離させる傾向を持っていた。聖書の本質であるイエス・キリストへの証言を認めず、聖書を骨抜きにして、単なる宗教書とならしめた。イエス・キリストを拒否することで聖霊の証言を斥け、旧約聖書に現わされていた、生きた証しを聖霊によって受け取る力が失われた。異教的な影響による熱心な信者の恍惚の言動、神託宣言等の霊感現象は、他の宗教にも見られる熱狂的状態の危険である。これは、精神的、或いは肉体的興奮の極限状態であり、霊的と言うよりは極めて人間的現象である。この状態への追及は、神が聖書に示す本来の霊性を人間的なものに引き下げてしまう。


Ⅱ. 教父時代
  聖書的な霊感の教理は、教父時代のほぼ全期間に渡って維持、展開された。ユダヤ主義的、異教的、教理の影響がないわけではない。幸いにして、モンタヌス主義の行き過ぎが異教的恍惚状態の中で聖書が書かれたとする考え方を決定的に抑える役目を果たした。その反動もあり、聖書の口述筆記に接近し、神が聖書を書いたという点を強調するあまり、著者がだれでも良かったという、危険な傾向も窺える。聖書記者をロボット視する見解が生じる道を開いてしまい、読者に光を与える聖霊の御業を消し去るものとなっていった。


Ⅲ. 中世の教会
  明確な霊感の教理があるのに、その権威に口輪がかけられ、霊的生命力が消されるような事態が生じた。聖書の霊感が完全に受け入れられていたにもかかわらず、人間的要素が、他の領域で、それだけ強く立ち上がり、聖書の権威に挑戦し、それを従属させてしまった。欠点のない教理も、教え方や適用の仕方で、真の聖書の洞察を抑圧し、歪め、意図されたことと正反対のことを造り出す。


Ⅳ. 宗教改革
 宗教改革者たちは、より純粋に聖書的理解に戻った。それは、キリストが真の聖書の主題であること。聖書はキリスト論的な型にならっており、ことばが肉となり、神ご自身であられる方がまさしく人であるのと同様に、書かれた言葉も神の言葉であると同じく、完全に人の言葉である。健全な霊感の教理と言う基礎の上で、聖書神学は常に、聖霊による祈りと謙遜と服従との積極的努力として成立する。


Ⅴ. 宗教改革後の時期
◎大きく四つの傾向に分類
①著者が神であるということが、著者が人であるという面を圧倒し、教父時代に戻る傾向があった。
②言語霊感の本質的な正しさから、不必要な極端にまで推し進めてしまう傾向があった。
③無謬の教理を誤った方向で重視する傾向があった。
聖霊の内的証言を、聖書の真正性や権威という基準より低く見る傾向があった。


Ⅵ. 十八世紀合理主義
 聖書本文の細部にまで霊感を当てはめたことにより、現実の文書や歴史に関心が集中されることとなった。その結果、言語学的本文研究が強力に展開され、記録の信憑性、真正性への合理主義的な攻撃が起こった。また人間的な主観からはみ出ずに、その合理的な領域での理解の中で霊感についての解釈をし直すことによって、聖霊の証言を人間的な尺度で情緒化されていったことは、シュライエルマッハーによる徹底的なキリスト教の主観化を生じさせた。

 

感想

「霊感」という言葉は、人々の心に好奇心を生み出す力を持っている。多くの人が、「霊」が持つ神秘的な言葉の響きに既に惑わされているからである。本書には、「霊感についての教会の教理」は、聖書の自己証言が出発点となっているとある。これは、先にも述べた通り、大変重要な出発点であることを認識させられる。それは、即ち、その出発点が即ち答えであり、この問題の土台であるからだ。本来、私たちは、聖書のことは聖書に聞いていかなければならない。つまり、それはブーメランのように、他の異見をなぎ倒しながら、また帰って来るからである。聖書から発出された問題は、様々な事柄によって検証されるが、それらが極めて人間的な価値基準であるため、聖霊が証言したことを明確に裏付けることはできない。そして、それは結論的には、再度聖霊によって動かされた人々によって、聖霊の基準で判断される。
 しかし、このような試みには、多くの妨害も生じる。それは、扱う人間が人間である限り、純粋に神の御心に立つことができないからである。それで古来、キリスト教会には、その真の霊感の理解を歪めるユダヤ主義的な影響や異教的な影響があったとブロミリーは言う。ユダヤ的な影響は生ける神との関係を深めていくことを疎かにさせ、人間の行いや功績、またその状況に重きが置かれていった。そのことにより、旧約聖書が指示していた真のメシア像を歪めてしまった。御子が受肉して来られたときに、彼の訪れを待ち続け、歓迎したユダヤ人は聖書を見る限りにおいて、シメオンとアンナだけであった。そこには、多くのユダヤ人の間違ったメシア理解があり、聖霊によって読むべき神のことばを正しく受け取っていなかった現実がある。しかし、聖霊によって導かれるならば、エチオピアの宦官のようにイザヤ書53章の苦難のしもべの姿に注目させられ、結果的にその苦難のしもべこそナザレのイエスであることを信じることができるのである。
 一方、異教的な影響には、人間がある極限に至った時に伴う恍惚状態を伴う宗教体験がある。この現象はキリスト教においてのみ起こる出来事ではない。たとえば、仏教ではこのような恍惚状態で意味不明の言葉を発した場合は、前世においての言語を語っていると解釈する。また、イスラム教においても、スーフィーという宗派は、極めて内面的なアッラーを意識する中で、自らの中に存在するアッラーとの一体感によって恍惚状態になるという。これは、外面的なアッラーを意識しているスンニ派からは異端視され迫害の対象になっている。
 このように熱狂的な、ある意味熱心な信仰者に見えることが、他宗教にもあることも事実であり、真に霊感された状態であるというふうに判断することはできない。かえって人間的であり、神が聖書を通して語っておられる霊感とは、違うものであると言わざるを得ない。ブロミリーも同様のことを危惧している。
 近代において、その霊感は思わぬ方向に傾き、現代の主流派と言われる人たちの神学と結びついている。かつて教会教父たちによって唱えられていた神による聖書記者の口述筆記が強調されるあまり、聖書言語のアクセント記号にいたるまで霊感されているという解釈の反動で、聖書本文が本来求められていない批評的な読み方により、合理的に、また実存的に解釈されることによってリベラルな神学が生まれてしまった。学術的には益とされる部分があるのかも知れないが、その神学によって、キリスト教がもともと持っていた霊感が拒否され、その立場に立つ教会は生けるキリストのからだとしての機能を失い、成長は滞り、人々に与えるべきいのちを失い、行き詰っている(宇田進)。そして、現在、結果的に次第に聖書に帰る傾向にあるという。
 
 私は思う。霊感について教会はいつも目を覚ましているべきだと。流行に流されず、地味に見えるが、こつこつと聖書からみことばを聞いていくことを第一にすることが大切だと、私は思う。霊感について教会がはっきりとした信仰の姿勢を保ち続けることができるように、聖霊の自由な秩序ある導きを求めたい。そして、ブロミリーも言っていたように、聖霊と言うお方は、聖霊ご自身ではなく、御子イエス・キリストを証言するお方であることと、聖霊によって霊感されたものは、聖霊によって聞き、聖霊によって読まなければならないことを改めて覚えていきたい。

 

文責:川﨑憲久

◎ 【要約と感想】 「現代の霊感論」 R.A.フィンレイソン

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序論) 
 現代の神学界の状況は、聖書に神の権威を与えず、私たちに影響を与える超自然的霊感は認められていない。それは教会が培ってきた歴史的信仰からの離反があるからである。その思想は、人間の経験と啓蒙の権威をもって聖書の権威に代えるという、神が私たちにせっかく与えてくださった神ご自身の霊感による啓示を、真っ向から拒否する態度である。

 

1. 霊感の意味
 現代の神学は、霊感を定義することを避けている。伝統的な霊感の教理に反対する立場の人々は多くを誤解している。
 啓示とは、神がご自身について、また御心についての知識を人々に伝達される行為のことであり、霊感とは聖霊が選ばれた人々の心に働いてその人々を、啓示を誤りなく伝達するための聖霊の力のことである。また、照明とは、そのように啓示され、伝達された真理を理解できるようにさせる、人間の心に及ぼされる神的な力である。
 霊感は聖霊の生ける息吹であり、神のことばを「両刃の剣よりも鋭く」する。そして聖霊は、霊感されたことばに永続的な関わりを保つので、そのいのちを与える臨在が、そのことばを霊といのちとする。
  この生ける臨在が翻訳されたみことばにも原文と同じように真実に満ちる。だから、翻訳された聖書のことばも神の権威を持つものとして引用することができる。

 

2. 現代に見られる幾つかの対立
A.現代神学の霊感についての中心的考え
 新自由神学と新正統神学の両方の対立関係に基礎を置いている。対立関係の一つは、真理への証言としての聖書と神の啓示との対立。聖書の不可謬性を信じる者は信仰の機能を損なわせるという非難がある。

B.啓示―出会いか伝達か
  出会いとしての啓示と伝達としての啓示の対立である。現代神学者たちは、聖書と権威の断絶を必要とし、神秘主義に押し込むことになった。
 福音的立場では、神の霊感によって、その伝達は私たちにとって完全に信頼できるものであり、私たちを、生きている真の神のもとに導くのである。

C.神のことばと聖書本文
   神のことばと聖書本文の間の対立である。書かれたことばはイエス・キリストを証言している。それは、聖書の信用が失われるなら、事実上イエス・キリストが人間の知識から消し去られることになるほどに近い証言である。  
   聖書の霊感に対する攻撃は、歴史的キリスト教イエス・キリストへの攻撃である。私たち福音主義に立つ教会の使命は、これからも益々、聖書が歴史的キリスト教信仰の最上の防波堤であると認められている事実を強く承認することである。

 


感想

 フィンレイソンが言っているように、現代神学が、いまだ歴史的信仰から離れていることは、非常に残念なことである。これは、19世紀初頭に始まったシュライエルマッハーらによって方向づけられてしまった結果だと言える。
  なぜ彼らは、それまでの歴史的信仰を捨て、新たな解釈を始めてしまったのだろうか。それは恐らく、それまでの教会と国家が結びつき、聖書が教えている本来の教会ではなく、誤った教会という体制派が社会を牛耳っていたことに対する反作用があったように思う。1517年にルターがビッテンブルク城の扉に95カ条の及ぶ教会刷新を求める提題を張り付けた後も、いわゆる自由教会に至る道は険しく、聖書にある信仰の自由を求めたクリスチャンたちは迫害を受けた。そのストレスは、宗教改革以前からあった体制派への不満と相まって、神中心の視点が危険視され、人間的な解釈へと傾いていき、聖書の権威さえも貶められていったと考えられる。特に科学の発展は、本来、神の創造の業の裏付けとなるべきところが、人間賛美の証明に用いられて、益々、聖書を神のことばとしての権威から引き離してしまった。そのときから、聖書は、神のことばが記されている書物ではなく、数多く出版されている書物の中の一つに過ぎない扱いを受けるようになり、書いて
ある内容も、受け入れがたい記事は特に、合理的に実存主義的に解釈されるようになった。本来、聖霊の導きによって、読みながらも神に聴くという意味があった聖書が、読書レベルに引き下げられた。
 この一連の歴史には、教会は謙虚に反省しなければならないし、歴史的信仰への回帰を目指す者にとっても、しっかりした認識が必要と思われる。しかし、真実が曲げられたまま、現代の福音的、聖書主義教会は黙っていてはならない。それは、主流派の中に自由神学が入り込んでから、キリスト教会は骨抜きにされ、世の光、地の塩としての効き目が失われているからである。
 神は、聖霊によって、数千年のも年月の中でおよそ40名聖書執筆者を起こし、聖霊の導きの中で、霊感されたそれぞれの書物を書かせ、聖書として纏められ、それを通してご自身を具体的に啓示された。だから、聖霊によって導かれ、聖霊によって霊感されて記されたその文書は、やはり聖霊によって読み、そこから、真の執筆者である神ご自身を知っていかなければならない。
 現代における霊感とは何か。それは、神が聖書によってご自身を現した本来の特別啓示としての役割を取り戻すことではないだろうか。このことは、神秘主義とも切り離して、教会は考えなければならない。聖書に書かれている聖霊バプテスマ、癒し、奇蹟等々、それは事実であり、何ら色メガネを必要とするものではないが、それを現象として強調し過ぎることにも注意が必要である。それは、聖書に記されていることを、神に霊感された神のことばとして受け取ることに意味があるからである。
  それによって、日々そこから得るみことばがまさに生きた神のことばとして、聖霊によって私たちの中に取り込まれるのである。
 今日、教会は、政治へのアプローチ、他宗教との関係、社会的倫理、教会協力等、様々な選択が迫られてきているように思う。その時、私たちは何をもって、どう判断すべきだろうか。     それは、聖書から神が語っていることを聞くことから逸れずに、聖霊の導きを求めて、神の霊感によって啓示されたことを受け取り、伝達していくのが、現代に生かされている私たちの務めであると思う。

 

文責:川﨑憲久