のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「みんな工事中」

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私たちはみんな工事中。

クリスチャンはイエス様を信じて救われ、模範であるイエス様に似た者となるために日々新たにされています。

 


しかし、まわりに迷惑をかけられることもあるし、逆に自分が迷惑をかけることもあるのも事実です。それは互いに工事中だからです。

 


未完成の建造物にはまだ足場が組んであり、足場が外されていても内装が終わっていない場合もあります。それでは、まだ家屋として人が暮らすことはできません。しかし、私たちが腕の良い棟梁であるキリストに留まり続ける限り確かに完成に向かっているのです。

 


ですから「ご迷惑をおかけします。ご協力をお願いします」とお互いにわきまえつつ、御霊の助けによりイエス様の似姿へと建てられていきたいものです。

 


"私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"

コリント人への手紙 第二 3章18節

(聖書 新改訳2017)

● 詩篇 46篇:「わが砦なる万軍の主」

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写真はマサダの要塞跡


1,神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
2,それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
3,たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ

 

4,川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
5,神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
6,国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶ける。
7,万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ


8,来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
9,主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
10,「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
11,万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ

 

 

私たちの人生は、いつも死と隣り合わせであり、幸せと不幸もまた、いつも表裏一体のように、私たちの人生を取り巻いています。それは、信仰者であっても、信仰者でなくても変わりありません。なぜなら、私たちはみな、この世という、人間の罪ゆえに呪われてしまった、滅びに向かっている世界に住んでいるからです。

 

ですから、この世にあっては艱難があるのです。主イエスは言われました。

"これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」"
ヨハネ福音書 16章33節

主イエスも信仰者には苦難があると言っています。それなら、信仰を持つ意味や価値はどこにあるのでしょうか。

その答えがこの詩篇に言い表されているのです。

 

私たち人間にとって最も大きな安心は神がともにおられるということです。それは、この呪われた世にあっては神の存在が私たちの砦だからです。それで詩人は宣言するのです。

1~3節

"神はわれらの避け所また力。苦しむときそこにある強き助け。
それゆえわれらは恐れない。たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。
たとえその水が立ち騒ぎ泡立ってもその水かさが増し山々が揺れ動いても。セラ"  

神の臨在は、たとえ自然災害が起ころうとも、天地がひっくり返り、世界の終わりが来ようとも、神という絶対的な存在が私たちの神である以上、そのお方のものとされた私たちにとっては何よりの支えであり保証だということです。

 

なぜなら、神がおられるところが神の国だからです。神の国とは神の支配があることを意味しています。だから一見そこが地獄に見えても神がともにいるなら、そこは天国だと言えるのです。

 

私たちは主の祈りの中で、「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように」と祈りますが、この祈り自体が神の臨在を求め、神の支配が天だけではなく、この地にも及び、この地にあっても天国の安心を与えてくださいという願いなのです。その主がおられるという安心に満たされるとき、状況がまだ変わっていないにも関わらず、まず私たちの心に平安が訪れます。その事実をこの詩人は歌います。

 

4~7節

"川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。
神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。
国々は立ち騒ぎ諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると地は溶け
る。
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ"


では、その願いは単なる願いで終わるのでしょうか。この祈りは気休めなのでしょうか。そうではありません。生ける神は、私たちの万軍の主とも言われています。それは世界のどんな軍隊よりも、どんな世の力を結集しても敵わないお方が私たちの主であるという意味だからです。

 

8~11節

"来て見よ。主のみわざを。主は地で恐るべきことをなされた。
主は地の果てまでも戦いをやめさせる。弓をへし折り槍を断ち切り戦車を火で焼かれる。
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」
万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。セラ"

 

神は人間の中にある、神に頼らない力をねじ伏せることのできるお方です。全ての戦さを終わらせて、真の平和を建てあげることができるお方です。その希望であり現実に起こることとして詩人は確信をもって歌います。その平和は単なる戦争が終わった。戦争が止まっただけのものではありません。

国々の間で主こそ神であるとあがめられるためだと、主は言われるのです。

 

全ての国の人たちが戦いをやめ、またこの呪われた地が終わりを告げ、神の完全な支配によって治められるとき、そこに真の神である主を聖とし、その御名を崇める礼拝が始まります。

 

この礼拝に私たちは招かれているのです。この世では苦難はあります。それは避けられません。しかし、そのような時代にあっても、そのような国にあっても私たちは希望を失いません。なぜならば、既に救い主がこの地に来られて、私たちの罪を贖い、信じる者と共にいてくださっているからです。

 

それが聖霊の内住です。

詩人は言います。

「いと高き方のおられるその聖なる所を。神はそのただ中におられその都は揺るがない。神は朝明けまでにこれを助けられる。」

 

この歌はまさに現代に生きる私たちクリスチャン一人ひとりのことでもあるのです。私たちは今、神の「聖なる所」とされ、神なる霊が私たちのただ中におられるからです。その私たちが神の都と呼ばれていることは、何という祝福でしょう。その都は揺るがず、しかも、朝明まで助けてくださるとは、明けの明星である主イエスがもう一度来られるときまで、いつも共にいて私たちの人生の後ろ盾となり、いついかなる時も神の都として助けてくださるということです。

 

今日も神の聖なる所、また神の都とされた恵みを覚えていきたいと思います。それは神の都とされたあなたから、神の生ける川が流れ出て、あなたを通してまだ神を知らない、またこの世の中で救いを知らずに苦しんでいる人たちに、あなたから流れ出る神のいのちの水を与えることができるからです。

それが我が砦なる万軍の主がともにいる幸いなのです。

 

「川がある。その豊かな流れは神の都を喜ばせる。いと高き方のおられるその聖なる所を。」4節

"「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」"
ヨハネ福音書 7章37~38節

"御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。"
ヨハネの黙示録 22章1~2節

●詩篇 42篇 「わがたましいよ」

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1,鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2,私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。
3,昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
4,私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。
5,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
6,私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
7,あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
8,昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
9,私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」
10,私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。
11,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

 

  信仰者は世の人々からは「宗教をやっている人」、「信心している人」と言われています。とにかく、何かを信じている人だと言うことで、何かにつけて、信じてない人との比較がその言葉の裏にはあります。

  基本的には、信じていない方が楽だと言いたいのです。信じていない人と言っても、お盆には墓参りしたり、正月には初詣をするのですが、それは信心のうちに入っていないようです。

  つまりは、宗教にはまっているか、そこそこで済ましているかという基準なのです。

  確かに、神でないものを神であるとして拝み、そのために時間と労力を使っているならば、それは虚しいことです。それは、石や木に向かってお父さんとかお母さんと呼ぶようなものだからです。

  しかし、私たちを造り、いのちを与え、日々支えておられるお方がいるのに、それを無視することはできません。

  人は死んだらどこへ行くのか。そもそも、人はどこから来たのか。自然発生的に偶然に、この精密な身体を形づくって存在しているのか。その答えを持っていることが、どうしてそんなに、蔑まれたり、嘲笑われることなのでしょうか。

 

  この詩篇の詩人は、周囲の嘲笑う人たちの中で、なおも主を慕い求める思いを自分のたましいに言い聞かせ、自分のたましいを奮い立たせようとしています。


1,鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
2,私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。

3,昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。
4,私は自分のうちで思い起こし私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

5,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。
6,私の神よ私のたましいは私のうちでうなだれています。それゆえ私はヨルダンとヘルモンの地からまたミツアルの山からあなたを思い起こします。
7,あなたの大滝のとどろきに淵が淵を呼び起こしあなたの波あなたの大波はみな私の上を越えて行きました。
8,昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。
9,私はわが巌なる神に申し上げます。「なぜあなたは私をお忘れになったのですか。なぜ私は敵の虐げに嘆いて歩き回るのですか。」

 

  鹿が谷川の流れを喘ぎ求めるほど慕うように、私も神である主を慕う詩人の悲しみの中にありながらも、なおも「わがたましいよ」と神への想いが絶望とならないように、むしろ神の助けが来ることを切に願っているのです。

  信仰者も悩み、心が折れ、悲しみも苦しみも、そして人との争いや、項垂れを経験することがあります。そのときは本当に辛く悲しいものです。目の前が真っ暗になることもあるのです。

  そういうときに、神を信じない人からは、宗教をやっててもそうなるんだったら、やらないほうがましとか、何も信じてないほうが楽だと言われたり、思われたりするのです。

 

10.私に敵対する者たちは私の骨を砕くほどに私をそしり絶えず私に言っています。「おまえの神はどこにいるのか」と。

   しかし、この詩人は繰り返すように、こう言います。


11,わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。

 

  信仰者もこの世にあって、また神の民の群れである教会にあっても、また項垂れ、思い乱れることが多々あります。しかし、目に見えるものが全てではなく、むしろ目には見えないが確かに生きておられる神の存在、その意思、力、全能の業、特に神の無限のきよい愛を私たちは既に体験し、知っているのではないでしょうか。

  この詩人も経験していないことを、現代の私たちは既に体験しているのです。それが、愛する、かけがえのない御子を遣わし、犠牲にしてまであなたを取り戻したいとされた、その愛です。

  私たちが主を慕う以前に、神はあなたを慕い、あなたのその存在を取り戻すために、御子イエスを十字架にかけ、私たちの罪の身代わりに処罰されました。

  ここに愛があるのです。神様は鹿が谷川の流れを慕い喘ぐが如く、あなたの存在を慕い喘ぎ、御子さえ惜しまずに差し出して、あなたのたましいを取り戻してくださったのです。

  この神様を今日も慕い求めていきたいと思います。どんな絶望の淵にあっても、神の救いと支配は既にあなたの上に、あなたのうちにあるのです。

  この詩人のように、今日もあなたのその置かれている只中で、私たちもこう宣言しましょう。

「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」

 

 

 

 

●「主の戦いに参加する」出エジプト記17章1節~16節

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 信仰者は全てを神に委ね、任せて、何もしないのか。それとも、信仰者として神の業に参加するのか。今日の聖書箇所は、まさにそのことを教えています。

 

1.試みる民に答える主

 前半はレフィディムでのこと。イスラエルの民が水がないと騒いだのです。

Ex. 17:1 イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
Ex. 17:2 民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。
Ex. 17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
Ex. 17:4 そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
Ex. 17:5 主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。
Ex. 17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。
Ex. 17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。

 聖書には「民はモーセと争い」と書いてあります。そしてモーセは、そのことを「なぜ主を試みるのか」と言って、イスラエルの民の訴えの根本を見抜いています。

 イスラエルの民が水がなくて喉が渇いたのはそのとおりでしょう。しかし、もし神に信頼し、指導者モーセに協力するなら、まずは祈り心をもって相談しに来るでしょう。しかし彼らの口調は「われわれに飲む水を与えよ」という命令でした。しかも、モーセを石打にして殺すところまできています。

 自分の思い通りにならないと、その原因を人のせいにして責任を問うのは、主を信じる民としていかがなものでしょう。

 しかし主は、彼らの訴えを聞き、メリバの岩を打つ方法で水を出させて彼らの喉を潤されたのです。結局、この騒動の根本は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」という主への試みであったが、主はその試みに対して、誠実に答えてくださったのです。

 私たちも、自分の主への信仰が足りないのに、その不信仰な願いが聞かれることがあります。それは、私たちの願いが正しかったから聞かれたのではなく、私たちが幼子のようにあまりにも固い食物では生きていけないので、神様が憐れんで聞いてくださっただけなのです。それは、これから主を信じて歩んでいくために、主にこそ信頼し、祈るべきことを教育するためのプロセスだったのです。

 

2.主が戦われる

 それで主は、次にアマレクとの戦いを通して、信仰者が信仰の歩みを続ける中で大切なことを学ばせます。

Ex. 17:8  さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

Ex. 17:8  さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

Ex. 17:9  モーセヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

Ex. 17:10  ヨシュアモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

Ex. 17:11  モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。

Ex. 17:12  モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。Ex. 17:13  ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。

Ex. 17:14  主はモーセに言われた。「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」

Ex. 17:15  モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、

Ex. 17:16  そして言った。  「主の御座の上にある手。  主は代々にわたりアマレクと戦われる。」

 モーセヨシュアに「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい」と命じました。ヨシュアモーセが言ったとおりに出て行ってアマレクと戦います。しかし、この戦いは、実際に敵と戦うのはヨシュアと彼が率いる精鋭部隊ですが、その戦いを支えているのは指導者モーセの祈りであり、その祈り手であるモーセを支えるのは、モーセの仲間であるアロンとフルでした。

 そこで、その戦いでアマレクを打ち破ったのは、ヨシュアたちで、最終的には主が戦われていたことがわかります。

 この戦いを通して、主はイスラエルの戦いは全て信仰の戦いであり、そこには必ずいっしょに戦う仲間がいて、それを祈る仲間がいて、更にはその祈り手さえも支えている仲間がいることを教えてくださいました。しかも、実はその戦いには主が戦っておられていたことを教えています。

 私たちも信仰者であるならば、信仰の歩みには自分自身がまず参加しなければなりません。主に委ねているのだから何もしないというのは、信仰者の本当に姿ではありません。私たちには戦う力がないことは認めるべきです。しかし、だからこそ主に頼るのです。主に祈るのです。主の戦いに参戦するのです。そのときに、戦っているのはあなただけでない。一緒に戦う仲間がいる。そして、その戦いを応援し、支えている仲間がいるのです。

 それが教会です。不平不満が出てくるかもしれません。でも、それは本当に神様への信仰に基づいているでしょうか。神を愛する延長上での不満でしょうか。自分を教会の外において、外から他人事のように騒いではいないでしょうか。そうやって、教会の中に本当に神はおられるのかと言って、主を試みてはいないでしょうか。

 でも、安心して立ち上がるべきです。なぜなら、私たちの信仰の歩み、信仰の戦いすべてにおいて、必ず主がまず戦っていてくださるからです。

 モーセはアマレクとの戦いで勝利しましたが、その勝利を自分たちの手柄にはせずに、祭壇を築いてその栄光を主に帰しました。

Ex. 17:15  モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、

Ex. 17:16  そして言った。  「主の御座の上にある手。  主は代々にわたりアマレクと戦われる。」

 今日も、あなたとともに戦う仲間がいます。そのあなたを祈って支えている仲間がいます。何よりも、あなたのことを心配して、あなたの信仰の歩みを全面的に支え、戦っておられる主がともにいるのです。

 今日という一日の戦いも、あなたは一人ではありません。ただあなたを愛し支えておられる主と教会が見方であることを覚えましょう。また、あなた自身がアロンやフルのように、あなたの信仰の友を支える祈り手となって、この祈りのチームを益々堅固にしていこうではありませんか。

 

1Sam. 17:47

「ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 

●「荒野で叫ぶ者」 マタイの福音書3章1~12節

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序論
 私の礼拝説教では昨年のアドヴェントからマタイの福音書に入っています。それで前回は2章まで読んできたことになります。前回はイエス様のいのちが狙われるということでエジプトに逃げたという場面でした。それはイエス様が移民、難民を経験したということでもあります。
  今日は「世界フェローシップサンデー」ということでテーマが「移民について」ということです。イエス様ご自身が移民を体験されたということですから、現在の移民や難民、外国人労働者問題も含めて考えさせられるものがあると思います。
 私たちクリスチャンも寄留者です。在留異国人という言い方もありますが、私たちの国籍は天にありますから、この世の基準や、社会常識などに馴染まない面を持ちながら、この世を歩んでいます。だからこの世にあっては苦労します。この世の常識や価値観に引っ張られて疲れます。
  しかし初めから天国の国民だったわけではありません。もともとはこの世の者でした。そういう意味では、もともと天国の国民ではなかったのに、移民のように特別にこの神の国に入れられたとも言えます。
  イスラエルの民もかつてエジプトにいたときには自分たちが在留異国人だったのだから、あなたがたも在留異国人に対しては手厚くしないさいと聖書で教えられています。私たちも、今は御国を受け継ぐ者とされていますが、そもそもが、この世の者であったことも忘れないでいたいものです。そうでないと、自分たちが特別に偉いとか、選ばれているという優越感が起きてしまうからです。
 今日の箇所には、バプテスマのヨハネのもとに自分の罪を悔い改めてバプテスマを受ける人たちが集まって来たことが書かれています。しかし、その中には「われわれの父はアブラハムだ」つまり、自分たちはアブラハムの子孫として既に選ばれていると自惚れている人たちがいました。
 ここに信仰者として起り得る姿が記録されています。今日は、この「荒野で叫ぶ者」であるバプテスマのヨハネを通して、私たち信仰者のあり方を学んでいきたいと思います。

 

1. バプテスマのヨハネの役目
1~3節を読みましょう。
「そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と言われたその人である。」
 「そのころ」とはいつのことでしょうか。一つは2章23節の「ナザレという町に行って住んだ」ときと読むことができます。しかし、マタイは赤ちゃんのイエス様の出エジプトのすぐあとに、いきなり成人しているイエス様を書き出しています。しかも洗礼を受けるイエス様です。ダビデ王も、聖書に登場したのが、預言者サムエルによってサウルの次の王様として油注がれる場面からでした。
 今日の箇所もイエス様がバプテスマを受けるところからイエス様の公のご生涯が始まります。恐らく著者マタイは、そういうことも意識して書いていると思います。ですから、「そのころ」というのは、確かにイエス様がナザレという町に住んでたときというよりも、更にそこから出てくる頃。つまりイエス様が真のイスラエルの王様として公に出発するときということではないかと思います。
 そこにバプテスマのヨハネが現れたのです。ここだけ読むと、突然東京タワーにゴジラが現れるみたいですが、バプテスマのヨハネと言う人は、当時の有名人でした。当時の人なら誰でも知っている人物です。だからあえて詳しくは紹介されていません。このマタイの福音書で大切なことは、彼が聖書で預言されていた人物だったということです。
 それで、そのことを証明するために、マタイは二つのことを言っています。
一つ目はヨハネの服装です。4節。
「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。」
 ヨハネは「らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め」と書いてあります。この服装は旧約聖書のある人と同じでした。だれでしょうか。そうです。それはエリヤという預言者です。ちょっと、ここに手を挟んで列王記第二1章8節を読んで見ましょう。
「彼らが、『毛衣を着て、腰に革帯を締めた人でした』と答えると、アハズヤは、『それはティシュべ人エリヤだと言った』」
 このエリヤと同じ服装だったことをマタイは書く必要がありました。それは世の終わりの前に来ると言われていた預言者がエリヤだったからです。その預言はマラキ書4章5~6節に書かれています。
「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」
 神様によるさばきが起る前にエリヤが来ると預言されていました。だから、その預言者エリヤとは、このバプテスマのヨハネのことなんだよということをマタイは言いたいのです。またヨハネ自身もエリヤを意識していたと思われます。
 そして二つ目は3節にあることです。
「この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と言われたその人である。」
それは預言者イザヤによって預言されていた「荒野で叫ぶ者」こそバプテスマのヨハネだということです。
そして、その目的、使命は「主の道を用意すること。主の通られる道をまっすぐに」することです。荒野という道のない場所に道をつくる。そして、その道を主が通りやすいようにまっすぐにする。それがバプテスマのヨハネの役目です。それはバプテスマのヨハネの仕事が土木工事、道路工事だということでしょうか。
あくまでこれは比喩です。預言者バプテスマのヨハネの使命は、イエス様の救いに与る人のために大切な第一歩を準備することです。それは何か。それが「悔い改めなさい」ということです。霊的な土木工事、霊的な道路工事。それがヨハネの使命として、人々を悔い改めに導くということです。
私たちも、この霊的な土木工事、道路工事を神様からいただいています。人々を神様と和解させて、天の御国へ導くためです。しかも、ここで面白いなと思うのは、ヨハネが多くの人々に宣教するために、都会ではなく、また町や村ではなく、荒野だということです。私たちの常識では何かを宣伝する場合、人が最も多く集まる場所で活動しないでしょうか。しかし、ヨハネは荒野で活動していました。いくら預言されていた場所とは言え、なぜ荒野なんでしょう。荒野だから叫ばないと誰も聞こえないのかも知れませんが、どうしてでしょう。
これは荒野のような場所にいる人を最初に救おうとされているということではないでしょうか。神様はあえて、荒野に追いやられている人を神の国に招いている。荒野にいる人というのは、盗賊とか犯罪を犯して逃げている人。もしかしたらツァラアトのような重い皮膚病に侵されている人もいたかも知れません。  
私たちも、この世という荒野で叫ぶ者です。この世の虐げられている人、弱い人の友となって、神のことばを語る者なのです。その中に祖国を追われて難民となっている人がいるかも知れません。または留学生や職業訓練などで様々な事情で日本に来ている人がいると思います。そういう人にすると祖国も荒野かも知れませんが、日本に来ても荒野のような思いで暮らしているかも知れません。そういうときに、その隣人となれるのはクリスチャンだと思います。だから、私たちもあえて荒野に立たされているのです。
今、自分の置かれている場所で不毛な思いとか、やってられない思いがあるならば、むしろ感謝すべきかも知れません。それは、その荒野のような場所にしかいられない人がそこにいて、あなたにはそこで叫ぶ役目があるからです。バプテスマのヨハネは、その荒野で叫んでいたのです。

 

2. 天の御国に入るために
それで特にまず伝えるべき言葉が、2節のことばでした。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
 人々を悔い改めに導くことが主の道を用意すること。主の通られる道をまっすぐにすることだったのです。つまり、それは天の御国に入るためにまず通らなければならない道だということです。
 天の御国にはすべての人が招かれています。しかし、その道を通るには悔い改めが欠かせないということです。それは直訳的には方向転換するとか向きを変えるということです。自分の罪を認めて、神の前に方向転換することを決断する。これが悔い改めであり、このときヨハネが行っていたバプテスマの意味でした。そのヨハネの噂を聞いた人たちは方々から集まって来たユダヤ人たちでした。5~6節を読みます。
「さて、エルサレムユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。」
 罪の悔い改めはまずユダヤ人に向けられて語られました。それはアブラハムの子孫として、外国人に真の神様を証しするための使命があったからです。イスラエル民族として、まず罪を悔い改めて、神に背を向けた生き方から神と共に歩む生き方に方向転換する。これがヨハネが来た目的でした。
 私たちも、この段階がいつも必要です。神様との関係を保つためにまず大事なことは、自分が自分の罪を悔い改めることです。確かにユダヤ人たちはイスラエル民族としての救いがあり、私たちも霊的なイスラエルである教会としての救いがあります。しかし、まず大切なのはそこに属する一人ひとりの罪の悔い改めです。6節を見てください。
 ここに「自分の罪を告白し」と書いてあります。ここを原文で読むと、「彼らは、バプテスマを受けていた、ヨルダン川で、告白しながら、罪罪を、彼らの」
つまり、ここに「彼らの罪罪」ですから、彼ら各々の罪と解釈できます。ここの罪が単数形ならイスラエル民族などの集団としての罪と読めるかも知れませんが、ここの罪は複数形であり、しかも「彼らの」という言葉がありますので、一人ひとりの罪の告白をヨハネは求め、それに彼らは応答してバプテスマを受けに来ていたのです。
 私たちにも、この方向転換、罪に対する悔い改めが必要です。そして、ここにあえてバプテスマを受けるほどの悔い改めをしていることは、日々の悔い改めとは違う人生における大きな決断であることを教えています。
 このような大きな決断をしたときにバプテスマがあります。当時はまだイエス様の救いが完成していなかったので、聖礼典としてのバプテスマはありませんでしたが、その前段階としてのバプテスマがあったのです。このときは自分が罪の中にある残念な状態であることを認めて、ごめんなさいと告白して水に浸されるのです。
しかし、ヨハネのもとに来ている人が全て悔い改めている人ばかりではありませんでした。大勢のパリサイ人やサドカイ人もいたと7節に書いてあります。彼らの心のうちには、「われわれの父はアブラハム」という驕り高ぶりがあったことがわかります。これに対する8節のヨハネのことばは、選ばれていることだけを強調することへの警告です。8節。
「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」
 私たちも、神に選ばれたことは確かだと思いますが、そこに選ばれたことへの感謝ではなく、驕り高ぶりがあるなら神様に喜ばれません。驕り高ぶりは悔い改めの実ではありません。この悔い改めの実とは何でしょうか。それは、このバプテスマのヨハネ自身が既に持っているものでした。
 ヨハネは、これから来られるメシア、イエス様のことを紹介しながら、そこに自分自身に既に宿っている悔い改めの実を表しています。11節。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
 バプテスマのヨハネは、自分のことを「その方のはきものを脱がせてあげる値打ちもありません」と言っています。これが悔い改めの実であると見ることができます。この意味は、自分は奴隷以下ですと言うことです。靴の紐を解くことは当時奴隷の仕事でした。しかし、その奴隷としての価値もないというのです。そのくらい謙虚だということです。神の前に方向転換した人は、へりくだるのです。これが悔い改めの実です。ヨハネは自分のことはさておいて、人にだけ悔い改めなさいと言ってたわけではありません。まず、自分自身の罪を悔い改めていたからこそ、イエス様の前にどんなに惨めな存在か告白しているのです。
 だから、ヨハネは悔い改めなさいと荒野で叫びつつ、自らが神の前に悔い改めの実を結んで、その生き方を通して証ししていたのです。ヨハネは、9節でこう言っています。
「神は・・・石ころからでも、アブラハムの子孫を起こせる」と。まさに私たちはその石ころです。神様はこんな石ころのようなものに目を留めてくださって、ご自分の宝としてくださっている。そのへりくだりの中に感謝が溢れてくるのです。今年の年間聖句の大きな目標は「感謝に溢れること」ですが、その感謝は、この悔い改めから生まれるということです。
 ここでバプテスマのヨハネは、その悔い改めの実を結ばないものに対するさばきを強調します。10~12節を読みます。
「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」
 良い実を結ばない木は切り倒されて、火に投げ込まれる。それを行うのはヨハネではありません。それがイエス様のことです。マラキ書で預言されていたエリヤが来てから何が起るかということ。それは「主の大いなる恐ろしい日」でした。
 それが「迫り来る怒り」であり最後の審判のことを指していると思われます。
 これは天の御国が近づいているという差し迫った危機感をもってヨハネが語っているということです。悔い改めているなら天の御国の訪れは喜ばしいことですが、そうでないなら、その訪れは恐ろしい日になるという切迫した思いで語っているのです。たんなる脅しでなく、主の心と一つ思いになっている預言者ヨハネの必死の姿なのです。

 

結論
 今日のみことばは「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」です。天の御国に入るには罪の悔い改めが必要だということです。しかし、それを上から目線で言っているのではありません。バプテスマのヨハネ自身がそうだったように、まず自分自身が罪の中にある者であることを認めていくのです。それは、それぞれ、心を探られる大手術になるかも知れません。しかし、その大手術は、主の救いをいただくためには避けて通ることができない主の道なのです。自分自身がそうだったから、皆さんもそこを通って天の御国に入ってもらいたい。それはすなわち、自分がもともと移民だったから、在留異国人だったから、外国人に手厚くすることと同じです。私たちは今、既に天国の国民です。しかし以前は、この世の罪の中でもがいていた者でした。しかし、そこに神様は、ある人には宣教師によって、ある人は教会の戸を叩いて、その先輩クリスチャンから聖書の話を聞いて、罪が示されて、悔い改めるという言葉を知ったのではないでしょうか。その中で自分がどれほど罪深く価値のないものか知らされたのではないでしょうか。
 しかし、神はその石ころのような私たちをアブラハムの子孫としてくださったのです。そこに御子イエス・キリストが火に投げ込まれる。籾殻のように焼き尽くされるべく十字架の苦しみを通ってくださったという歴史的事実があります。その事実を自分のためであったと信じるかどうかです。大切なことは、イエス・キリストの中に飛び込むことです。それをバプテスマと言います。私たちが受けたバプテスマは悔い改めだけの表明ではありません。そこにイエス様と一つにされてともに死んでよみがえることを意味しています。
 それが聖霊と火によって授かったバプテスマです。そのバプテスマを通して私たちはきよめられているのです。それを目に見えるかたちで行うのが、現在の聖礼典としての洗礼です。
 そこを通って私たちは、このヨハネのように今荒野に遣わされています。それぞれの家庭、職場、学校、地域社会が荒野です。そこに私たちも荒野で叫ぶ者の声として今、立たされているのです。

祈り

●「主のしもべモーセ」出エジプト記14章

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  イスラエルの民が約束の地に入るために、主は指導者を立てました。それがモーセです。これまで10の禍を通しても、主のことばを告げ、その業を通してモーセが主のしもべであり、民の指導者であることをイスラエルの民たちに教育してきました。

   それは、今回のような、行く手を阻まれる危機にも、200万人とも言われるイスラエルの一団が主を恐れ、主のことばに従って救いを経験するためでした。

  エジプト軍を見て恐れ、モーセに叫ぶイスラエル人たちにモーセは答えます。

 

13〜14節

モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」

 

  危機の時にどうすべきか。イスラエルの民は、指導者であるモーセに対して、まだ信頼をおけずに不満を言う相手として、また自分たちの罪や弱さを棚上げする相手としか見ていなかったようです。

  しかし、約束の地にこのような大勢で向かうためには、指導者の存在は必須でした。なぜなら、主がそのためにモーセを立てているからです。このモーセに信頼して神のことばを聞いて、神への信頼を確立することこそ、イスラエルの一団に求められていた神の選びの民としての姿だったからです。

 

  主はモーセに告げます。

16節

"あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。"

   主はあえて、モーセに杖を上げて、その手を海の上に伸ばすアクションによって海が分かれる方法を与えてくださいました。本来ならば、主の全能の力だけで海が分かれるようにできるはずです。しかし、主はあえて、モーセの動作によって海が分かれるようにされたのです。

  それでエジプト軍が押し寄せてきたときに、モーセは主が言われたとおりにしました。

 

21節

"モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。"

  これでイスラエルの民は海の真ん中の、しかも乾いた地面を進んで行き、葦の海を全員が一人も漏れることなく渡りきることができたのです。

   結果的にイスラエルの民はどうしたでしょうか。

 

31節

 "イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。"

  イスラエルの民は、その大いなる主の御力を目の当たりにして、また自らの体験として味わったのでした。その結果、彼らは主を恐れて、主のご自身とそのしもべとしてのモーセを信じたのでした。

 

   この出来事は何を伝えているでしょうか。それは、神への信頼、畏敬とともに、主のしもべ指導者モーセへの信頼の確立でもあったということです。

  主はあえて、モーセに杖を上げさせて、手を海の上に伸ばして、海が分かれるときにそのアクションを民が見るようにされました。

   それこそ、主が立てられた指導者であるモーセを通して、イスラエルの民が救われるために必要なプロセスであり、経験であったのです。

 

  その背後で、主の御力も決して忘れてはいけません。このようなイスラエルの民への教育の中で、主はしっかりとモーセの指導者としての教育実習を支えていたからです。

 

19節

"イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移動して彼らのうしろを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移動して彼らのうしろに立ち、エジプトの陣営とイスラエルの陣営の間に入った。それは真っ暗な雲であった。それは夜を迷い込ませ、一晩中、一方の陣営がもう一方に近づくことはなかった。"

 

   主があなたに与えられた霊的指導者はだれでしょうか。その指導者も人間です。普通の人です。しかし、主が主ご自身を体験するためのしもべとして、あなたに立てているのです。

  もしあなたが神の御国を目指しているなら、あなたに立てられた神のしもべを通していただく、神のことばとわざとに心を留めなければなりません。

 

  そして、終わりの日に見るでしょう。主の大いなる御力を。そして、益々味わうでしょう。主が恐れられるべきお方であることを。そして、その主が遣わした指導者が普通の人だけれども、確かに主のしもべであったことを。

 

   今日も主を信じ、主のしもべのために祈って支えてまいりましょう。主のしもべは普通の人だからです。

 

  

 

 

●「主の力強い御手によって」出エジプト記13章

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出エジプト記
13章
1,主はモーセに告げられた。
2,「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」
3,モーセは民に言った。「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい。力強い御手で、主があなたがたをそこから導き出されたからである。種入りのパンを食べてはならない。
4,アビブの月のこの日、あなたがたは出発する。
5,主は、カナン人ヒッタイト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の地、主があなたに与えると父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地にあなたを連れて行かれる。そのときあなたは、この月に、この儀式を執り行いなさい。
6,七日間、あなたは種なしパンを食べる。七日目は主への祭りである。
7,七日間、種なしパンを食べなさい。あなたのところに、種入りのパンがあってはならない。あなたの土地のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。
8,その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』
9,これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、主のおしえがあなたの口にあるようにしなさい。力強い御手で、主があなたをエジプトから導き出されたからである。
10,あなたは、この掟を毎年その定められた時に守らなければならない。
11,主が、あなたとあなたの父祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに与えられるとき、
12,最初に胎を開くものはみな、主のものとして献げなければならない。家畜から生まれ、あなたのものとなるすべての初子のうち、雄は主のものである。
13,ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、首を折らなければならない。また、あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。
14,後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋ねるときは、こう言いなさい。『主が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出された。
15,ファラオが頑なになって、私たちを解放しなかったとき、主はエジプトの地の長子をみな、人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけにえとして主に献げ、私の子どもたちの長子をみな贖うのだ。』
16,このことは手の上のしるしとなり、あなたの額の上の記章となる。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから導き出されたからである。」
17,さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
18,それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。
19,モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。
20,彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営した。
21,主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
22,昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。

 

 

  私たちの信仰の歩みは、私たちの神である主の助けがなければ始まらないし、続けられません。

信仰とは私たちが自分の力で生きることをやめて、造り主である神に全てを委ね、100%神の力に依存して生きることをだからです。

 

エジプトを出て約束の地に向かうイスラエルの民もそうでした。大切なことは、自分たちを連れ出し、乳と蜜の流れる地に入れるためにその歩みを導いてくださる主の「力強い御手」(3節、9節、16節)によって与えられる贖いのわざを、イスラエルの民がいつも覚えていることでした。

 

そのために主は命じます。しかも、その恵みへの感謝が次の代にまで引き継がれるように「息子に説明して」8節、また「後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか』というときには、彼に言いなさい」14節、と言われました。

 

それくらい、神の恵みへの記憶、感謝、記念が大切かがわかります。それは、どうしてでしょうか。

それは、私たちは神からの恵みに対して、すぐに当たり前になりやすい者だからです。

 

私たちは神の恵みが、毎日続くと感謝をしなくなる弱さがあります。毎日、日が昇り太陽の温もりの中で生かされていても、それは当たり前だと思っていないでしょうか。毎日、心臓が動いていることも、その血液の循環が守られていることで、全身に酸素が行き渡り生かされていることも、いつものこととして毎日過ごしていないでしょうか。

 

人は一時的な奇跡に対しては驚き、一時的な感謝があっても、それが日常化すると当たり前になり、感謝がなくなるのです。それは、イスラエル人もそうでした。

 

だから、主は言われるのです。

「これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい」(9節、16節)とです。

これは、手の上にあれば必ず気づくし、額の上にあれば、必ず気になるからです。そうすることで、神のことば、神の教え、神の律法をいつも口ずさみ、神の恵みを覚えるばかりか、まだ神の恵みを知らない者にも証しとなるのです。

 

  神の教えをいつも口ずさむものは、どうなるでしょうか。詩篇にこうあります。

 

詩篇 1篇1~3節

「幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。
主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。」


  今日、私たちも主の力強い御手の下にへりくだって、主のことばを、その教えを口ずさむ者とされましょう。主のおしえを口ずさむことは、主の恵みを感謝し、賛美し、証しすることです。その道を益々、主ご自身が昼は雲の柱、夜は日の柱を示して先立って導いてくださるのです。

  力強い主の御手が今日もあなたを支え導いてくださいます。それは、決して偶然でも当たり前でもありません。

毎日が主の奇跡の連続の中で、私たちは生かされているのです。

  主が与えてくださった、この信仰の歩みをするために、主のおしえ、主のことばを手の上に、また額の上に置くようにして口ずさみ、今日も感謝して進もうではありませんか。

 

「21,主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
22,昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」