のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎受難節 第25日 水曜日

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「ハンナの祈りより」

サムエル記第一2章1〜10節

"ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。
主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。
おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。
勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。
満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。
主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。
主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。
主は敬虔な者たちの足を守られます。しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。人は、自分の能力によっては勝てないからです。
主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」"

●3節

おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。

 

伝道者の書 5章2~7節

  "神の前では、軽々しく心焦ってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。
仕事が多ければ夢を見、ことばが多ければ愚かな者の声となる。
神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。
誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。
あなたの口が、あなた自身を罪に陥らせないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。
夢が多く、ことばの多いところには空しさがある。ただ、神を恐れよ。"


●マタイの福音書 26章62~64節

  "そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」
しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」
エスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」"


主は大祭司の尋問に対して、無駄なことを語らず、必要なときに必要なことだけを語られました。

 

まさに「然り」は「然り」、「否」は「否」であると。

 

その沈黙が、またその一言で、いのちの危険に晒されようと、主はご自分の前に置かれた十字架への道を、ひたすらに歩まれたのでした。

 

私たちも必要なときに必要なことだけを語り、自分の知恵や言葉のテクニックによって言い逃れる場所をつくったり、失敗することの保証を自らつくることのないようにしましょう。

 

ただ十字架への道を歩まれた主に心を注いでまいりましょう。

 

 

【祈り】

クリスティアン・フュルヒテゴット・ゲッレールト (ドイツ詩人、1715〜1769)

 

主よ、私を強くしてください。

あなたのご受難を深く考えることができるように。

あらゆる罪から私たちを救い出そうと

あなたを動かした愛の海に私を沈めてください。

あなたの十字架はこの世の賢い者たちにとっては、

不快で愚かなことであるのを知っています。

どれほど厳しいあざけりが浴びせられるとしても、

私にとってあなたの十字架は神の知恵です。

  

 

◎受難節 第24日 火曜日

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(映画"Passion"より)

 

サムエル記 第一
1章
1,エフライムの山地ラマタイム出身のツフ人の一人で、その名をエルカナという人がいた。この人はエロハムの子で、エロハムはエリフの子、エリフはトフの子、トフはエフライム人ツフの子であった。
2,エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。
3,この人は、毎年自分の町から上って行き、シロで万軍の主を礼拝し、いけにえを献げることにしていた。そこでは、エリの二人の息子、ホフニとピネハスが主の祭司をしていた。
4,そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、
5,ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。
6,また、彼女に敵対するペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられたことで、彼女をひどく苛立たせ、その怒りをかき立てた。
7,そのようなことが毎年行われ、ハンナが主の家に上って行くたびに、ペニンナは彼女の怒りをかき立てるのだった。こういうわけで、ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
8,夫エルカナは彼女に言った。「ハンナ、なぜ泣いているのか。どうして食べないのか。どうして、あなたの心は苦しんでいるのか。あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないか。」
9,シロでの飲食が終わった後、ハンナは立ち上がった。ちょうどそのとき、祭司エリは主の神殿の門柱のそばで、椅子に座っていた。
10,ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。
11,そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」
12,ハンナが主の前で長く祈っている間、エリは彼女の口もとをじっと見ていた。
13,ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。
14,エリは彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい。」
15,ハンナは答えた。「いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。
16,このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」
17,エリは答えた。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」
18,彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。
19,彼らは翌朝早く起きて、主の前で礼拝をし、ラマにある自分たちの家に帰って来た。エルカナは妻ハンナを知った。主は彼女を心に留められた。
20,年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。
21,夫のエルカナは、年ごとのいけにえを主に献げ、自分の誓願を果たすために、家族そろって上って行こうとした。
22,しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。
23,夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい。この子が乳離れするまでとどまりなさい。ただ、主がそのおことばを実現してくださるように。」こうしてハンナはとどまって、その子が乳離れするまで乳を飲ませた。
24,その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。
25,彼らは子牛を屠り、その子をエリのところに連れて行った。
26,ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。
27,この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。
28,それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」こうして彼らはそこで主を礼拝した。

 

 

不妊の女ハンナは、祭司エリに答えました。

「15,ハンナは答えた。『いいえ、祭司様。私は心に悩みのある女です。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に心を注ぎ出していたのです。』」

 

 ハンナは「主の前に心を注ぎ出して」祈ったとあります。そして、自分のそのままを祭司エリに伝えたのです。

  神の前に自らを整え、正装し、最高の姿勢で礼拝することは大切なことです。しかし、自分の本当の姿を隠して、信仰深そうに装って礼拝することは、神の前において偽善であるでしょう。

  主イエスは、当時のユダヤ人指導者たちの信仰の姿勢を厳しく非難しました。それは、神の前に、まさに自分自身をよく見せるという立ち方だったからです。

  神は、私たちがいくら信仰深そうに振舞っても、全てをお見通しです。そうであるなら尚更、神の前における礼拝は、その心の中を裸にすることが何より大切なのです。

"神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。"
ヘブル人への手紙 4章13節

  ハンナは、苦しみの中にある自分自身を全知全能の神である「主」の前に、そのまま注ぎ出したのです。この祈りはゲツセマネで祈られた主イエスに通じる祈りでもあります。

  主イエスは、「この杯をわたしから取り除けてください」と祈りました。汗が血のしたたりのように、ドボドボと流れ落ちるほどに、心を注ぎ出して天の父に祈られたのです。しかし、御心がなるようにと祈られ、十字架への道に立たれたのでした。

  ハンナの夫、エルカナは妻の信仰を見てこう言います。

「あなたの良いと思うようにしなさい。…ただ、「主」のおことばのとおりになるように。」

  今日のあなたの歩みにおいても、今、まずあなたの心を主の前に注ぎ出して、あなたの思い全てを神に聞いていただきましょう。どんな苦しみの中にも、その全ての苦しみを通ってくださった主イエスが立っておられます。この主を仰ぐとき、その思い全てが、神の御心のままを願う平安へと導かれるのです。

 

【祈り】

ニコラス・ルードリッヒ・ツィンツェンドルフ( 1700年5月26日 – 1760年5月9日)は、モラヴィア兄弟団の監督。伯爵。)

 

愛する救い主よ。

あなたの体は私のために痛めつけられ、

刺し貫かれました。

あなたはご自分の体を隅々まで苦しみに引き渡され、

また、辱めと唾に顔を隠すことをなさいませんでした。

茨の冠をかぶらせられたままでおられました。

足のつま先から頭のてっぺんまで病んでいる者を救い清めるために、

あなたは足から頭まで傷ついた者、病む者となってくださいました。

今、わたしはあなたのもとにいます。

罪人のわたしをあなたの御傷による義の中に引き入れてください。

 

〈参考文献:小泉健「十字架への道 受難節の黙想と祈り」日本キリスト教団出版局,2019年

 

 

◎受難節 第23日 月曜日

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(写真:映画"Passion"より)

https://youtu.be/I80sqaMTBCw

申命記8章2〜10節

"あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。
この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。
あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。
あなたの神、主の命令を守って主の道に歩み、主を恐れなさい。
あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、谷間と山に湧き出る水の流れや、泉と深い淵のある地、
小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろのある地、オリーブ油と蜜のある地である。
そこは、あなたが不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものがない地であり、そこの石は鉄で、その山々からは銅を掘り出すことのできる地である。
あなたが食べて満ち足りたとき、主がお与えくださった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。"

ヨハネ福音書 6章26〜35節

"イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」
すると、彼らはイエスに言った。「神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか。」
エスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」
それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。
私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」
それで、イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。
神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」
そこで、彼らはイエスに言った。「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
エスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。"

 

 

  私たちは食べ物さえあれば生きることができると思います。しかし、それはとんでもない思い違いです。神の語りかけを聞き、神に応え、神との交わりを持つことなしには、本当に生きることはできません。

  永遠の神のことばが人となりました。この方こそ命のパンです。パンは取って食されるものです。この方はご自分を丸ごと私たちに食べさせ、与え尽くしてくださいました。それは神のことばを私たちの魂にまで届けるためです。神のことばが私たちのうちにとどまるようになるためです。

  主の晩餐はこのことを、私たちの目で、鼻で、舌で、手で味わわせてくださいます。

  主よ、あなたご自身を受け取らせてください。

 

【祈り】

日本聖公会祈祷書より。

「恵深い父なる神よ。

御子は、すべての人のまことの命のパンとなるために、天からこの世に降られました。

どうか、この命のパンによって私たちを養い、常に主が私たちのうちに生き、

私たちが主のうちに生きられるようにしてください。」

 

②The Prayer Book 1928より

「神よ。

あなたは、聖なる御子のご受難によって

恥ずべき死を

私たちのための命と平和の手段となさいました。

キリストの十字架をほめたたえるために、

私たちが恥と不利益とを喜んで忍ぶことができますように。

 

〈参考文献〉小泉 健著『十字架への道(受難節の黙想と祈り)』p.60〜p.61

 

 

◎北海道十勝が舞台:NHK朝ドラ「なつぞら」にちなみ

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●北海道十勝についてのレポートを、以下のリンクからでもご覧になれます。

 

https://www.dropbox.com/s/rtdnkosyu6zaqe5/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%95%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%A4%8F%E6%9C%9F%E4%BC%9D%E9%81%93%E5%AE%9F%E7%BF%92TEAMTOKACHI%E6%B4%BB%E5%8B%95%E5%A0%B1%E5%91%8A.pdf?dl=0

 

2015年度夏期伝道実習 TEAM TOKACHI 活動報告

1. 十勝の地域性
① 歴史 (帯広を中心に進む十勝の歴史)
a. 先住民 
十勝は、北海道の他の地域と同様、縄文期よりアイヌ民族が多くの集落(コタン)を形成していた。15世紀頃から和人らとの交易が始まったが、江戸末期、明治維新までには、その独自の社会は駆逐され、差別を受けながら、和人社会の中に日本人として徐々に同化されていった。

b. 開拓(帯広から音更へ)
1885年、明治期になると明治政府は、帯広の伏古や音更など12か所で、アイヌ人への農業指導を行ない、農地拡大を試みたが失敗に終わった。   
1889年、本格的な開墾が、然別に入植した渡辺勝によって行なわれた。他の記録では、1882年の大川宇八郎の入植が最初とされているが、大川はアイヌとの交易が中心であった。
渡辺勝は、十勝開拓の父と呼ばれる依田勉三(後に北海道神宮開拓神社の祭神として祀られる)、また鈴木銃太郎とともに晩成社を結成し、1881年より北海道開拓を目的として来道して、1883年より活動を始めていた。開拓初期は生活が極端に苦しく「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と称されるほど、客人が豚の餌と勘違いするほどの粗末な食事であった。
晩成社は、開墾だけでなく、ハム製造を目指して畜産をはじめ、バター工場、練乳工場、缶詰工場の開業等、現在の十勝に根付く産業の礎を築いた。しかし、何れも経営という面では上手くいかず、1916年、経営不振により活動休止となった。

1892年、北海道庁が帯広を拠点として開拓促進を進めると、帯広を中心に音更にも続々と入植者が入るようになった。
1896年には、音更地区最初の入植者である木野村甚太郎が音更川両岸の土地の貸付を受け、同年3戸が入植し、音更での本格的な「農場」が始まった。音更にはその後、石川県、富山県岐阜県より、災害等で住む場所を失った村民の団体入植が相次ぎ、現在の音更町の広大な平地の開墾に貢献した。十勝川温泉地区では、多くの入植者が単独で開墾した。それは当時の明治政府も、開墾を促進する目的で検査を緩和していたためである。
開墾は、まず炭焼き小屋が作られ、その後畑を耕し、酪農にも手を伸ばすという手順で進められた。特に、十勝の気候風土と、広大な平野は、酪農、大規模農業に必要な条件を満たしていた。特に、その平野面積が最も広かった音更は、十勝の他の土地よりも開墾が早く進んだ。当初は、出身団体ごとに農場が分かれていたが、必要に応じて、出身地に関わらず合併したり、組み合わせを変えたりしながら、現在の区画の基となる。このように各々の団体入植者たちによる開墾は、音更の区画整理にも繋がった。
1901年、音更外二村戸長役場の設置によって、音更村は、自治体としての一歩を踏み出した。

c. キリスト教(帯広から拡がった十勝福音宣教)
晩成社の渡辺と鈴木は聖公会キリスト者として知られる。渡辺の妻カネもキリスト者であり、鈴木の妹でもある。依田は、19歳の時にスコットランド長老教会の宣教師であり医師でもあったワデルのもとで、渡辺らと学んだが、キリスト者にはならなかった。
1892年、この渡辺夫妻の家庭集会から、十勝のキリスト教宣教の歴史は始まった。
依田が事業意欲旺盛であったのに対し、渡辺と鈴木が純粋なキリスト者として、その感化力に優れていたと言われている。
あるとき、アイヌの食糧貯蔵庫を開墾者が誤って焼失させる事件があった。それが開墾者とアイヌとの間のトラブルに発展してしまい、依田の心ない対応が、アイヌの方々に対し、益々火に油を注ぐような結果をもたらしてしまった。しかし渡辺と鈴木がキリスト者として誠実な対応をしたことでアイヌの方々との和解ができたというエピソードがある。
また、十勝監獄(現帯広刑務所)においてキリスト者が果たした役割は大きい。帯広聖公会は、帯広を拠点に伝道活動を続けてきたが、十勝監獄職員への説教や、更には受刑者への説教も許されるようになった。
1901年に、キリスト者である黒木鯤太郎(日本基督教会所属)が大典獄(刑務所長)となると、1907年には、長老派(日本基督教会)のピアソン宣教師、土佐の坂本龍馬の甥である坂本直寛牧師が教誨師として尽力し、十勝監獄のリバイバルのために用いられた。この年のある日曜日、坂本直寛牧師の説教で、700人を超える受刑者のうち、420人が悔い改め、キリストを受け入れたという。
また、キリスト教は、教育の面でも十勝に貢献している。1915年、聖公会の信徒、高橋又治が十勝姉妹職業学校を創設し、現在の帯広三条高等学校の前身となっている。渡辺勝の妻渡辺カネも、後に共立学園の教師・舎監となった。
このようにキリスト教は、十勝の発展と救霊において、大きな働きの一端を担った。
 
② 現状 (音更町
a. 産業 
以上のように、十勝は北海道の他の市町村に見られる屯田兵によるものとは異なり、民間の開拓移民や晩成社のような企業によって開拓された。その功績は大きく、この十勝全体を支えている基幹産業としての畑作、酪農は現在でも、北海道を代表する中心産業である。
音更町に十勝主管工場を持つ、よつば乳業は、その象徴ともいうべき存在となっている。1967年に、酪農家太田寛一を中心に、十勝の8つの農協が協賛して興したのがよつば乳業である。よつば乳業は、バターの生産においては、雪印メグミルクに次いで国内第2位のシェアを誇る。従業員は、起業時から地元音更町はじめ近隣の町村を中心に採用していたが、1985年以降は地元の採用者数は全体の3割以下に減少している。
近年、酪農業は生乳生産減の影響を受け、それに後継ぎ問題が絡み、酪農家自体が減少傾向にあ
る。その対策として、これまでの個人事業主としての酪農から、合資会社として共同経営する農家が増えていると言う。また酪農ヘルパーを利用するなど、今までの、「休みなし」、「余暇とれず」の体制から、交代で休暇をとるという、生活サイクルが改善されつつある。また、牛舎も、小規模なスタンチョンストール牛舎から大規模なフリーストール牛舎への変更により、搾乳方法も搾乳ロボットによる効率化が図られ、人件費や人員不足問題にも光明を与える新しい方策も試みられている。
  また、農作物では大豆、小豆などの豆類、そして甜菜(ビート)、小麦、大麦も地元のみならず、北海道を代表する農産物となっている。それによって、十勝の中心都市帯広を中心に展開する、六花亭や柳月などの大手菓子メーカー製品の原材料にも使用されることで、地産地消と相互に食品としての安心安全の絶大な信用を得るのに役立てている。


b. 地域人口と住宅地 
音更町の統計を見ると、1970年から2010年までは人口が約20,000人も増加しており特筆する価値がある。これは、音更町が近年、帯広市ベッドタウンとして変貌してきたことの表れであり、音更町として進めてきたIT企業用地の誘致活動が功を奏した結果とも言える。しかし、今回の音更町役場企画課の方のお話しによると、2013年以降の人口の伸び方は横ばいとのことだった。これまで、右肩上がりだった人口は、現在は足踏み状態である。
音更町の中心街はもともと役場周辺だったが、現在は帯広に近い木野大通地区に大型商業施設が
並んでおり、その周辺の鈴蘭公園を中心とする住宅地も新興住宅地として、新築の個宅が目立ってきている。その鈴蘭地区を歩くと、新旧の住民層がくっきり分かれているのがわかる。やはり、帯広市ベッドタウンとしての影響が伺える。
もともとの古い住宅が多い区域では、高齢者が多く、小規模の会社を経営している方々も多く見られる。一方、新築が立ち並ぶ区域では、小さな子どもを持つ若い夫婦が多く、その周辺には、YMCAのプールや英語教室などの施設もあり、まだまだ住宅が増える可能性は否定できない。しかし、ここ数年の人口の横ばいを鑑みる時に、今後、5年~10年でどのくらい町が変っていくのか、引き続き観察しつつ、町の将来像を予想しつつ、シミュレーションしていくことは必要である。
また最近建てられている住宅の特徴を見ると、ソーラーパネルを設置している家も多く見受けられた。東日本大震災後、原子力からの脱却が叫ばれている中、安心安全エネルギーのソーラーで住宅販売の促進を図ることは、環境に配慮をした素晴らしい取り組みである。
   
c. 地域と宗教 
役場に隣接する音更神社が、もっとも大きな宗教施設である。
音更神社は、1900年、仁禮農場内に天照大神を祀る祠を設けたことから始まった。第30代内閣総理大臣を務めた斎藤実が高額寄付したと言う記録ものこっている。現在も社務所が機能していたり、定期的に修繕が成されたり、地域によって大切に扱われ、地域のシンボル的印象を受ける。
それ以外にも音更町には、密教系の天台宗観音寺や真言宗弘照寺、弘円寺、弘清寺があり、浄土真宗禅宗が多い他町村との違いを思わせる。また、鈴蘭地区には地蔵(道祖神)が立ち並んでいる場所があり、地域によって、さらに細かな信仰の対象物が存在する。それには、団体入植時、それぞれの団体ごとに出身地に基づく、先祖由来の信仰が根付いた現れであると思われる。また近年、エホバの証人統一教会などの新興宗教信者も増え始め、その布教活動は活発である。近隣の清水町では、統一教会が山林を入手し聖地にする問題が起き、地域の住民の反対によって、取りあえず聖地化はなくなったものの、時々、清水町の人口の2倍以上の信者が集まるような大きな集会を開いている。
しかし、この度の調査の中で、正統的キリスト教信仰の立場へ理解を示す住民がおられることがわかった。晩成社時代からの聖公会による伝道がその背景にあると考えられる。また、100年以上にも渡る聖公会の幼稚園教育によって、地域の高齢者の中にはその卒園者や関係者が現在も住んでおり、いまだ地域の歴史にキリスト教が根強く意識付けされていることをうかがい知ることができる。

③ 展望 (音更町
  a. 行政の取り組み
    現在二期目の寺山憲二音更町長は、今後の目標として、人口の横ばいを懸念しつつ、人口50,000人を目指している。前述したように、酪農業維持のための合資会社への支援や、農業後継者確保のための支援事業を行なうとしている。同時に、引き続き、国からの地方創生先行型交付金を基に、IC工業団地の拡張整備も行なっていく予定であり、現在、足踏み状態の人口増加のための起爆剤として期待される。また、教育・福祉の人材育成の充実では、帯広大谷短期大学社会福祉科介護福祉専攻へ進学する学生への就学サポートを行なう支援事業は、寺山町政の目玉となっている。
    ただし、現在、町としてTPP反対の立場を鮮明にしていることが、今後の地方創生先行型交付金へどのように影響するか注目される。

  b. 地域の生活
    音更町では、帯広市ベッドタウン化が進み、現在、帯広市音更町を繋ぐ国道241号から更に道道337号など、住宅地への道路整備が進められている。今後も、そのような交通アクセスの整備等の生活環境の利便性が図られることで、一定の人口増加を期待することができる。
それによっては旧住民と新住民が新しい地域性の中で、新たなコミュニティタウンとして生まれ変わるか。または、それぞれが生活スタイルの異なる住宅地として分離して、明暗がはっきりするような街ができるのか。もしくは次世代までの連続性が保てず、人口も伸び悩むことになると、新興住宅地として整備した地区がゴースト化に向かっていくのか。その伸び率は気になるところである。

  c. 地域の宗教と福音宣教
    音更町の歴史ある神社仏閣も、町民すべての信仰の拠り所になっているわけではない。地域の文化、慣習として、日本の他の地域と同様に融合している。今後とも既存の寺社が教勢を伸ばすことは考えにくいが、エホバの証人統一教会等のキリスト教異端と呼ばれる宗教団体や、他の新興宗教が、益々、その活動を強めていくことが予想される。
    キリスト教会も、現在、十勝にある牧師会の協力関係の中で、世の光ラリー、ラブソナタ等の伝道の働きを地域教会の共同で行なって来ている。今後とも、良き協力性を保ちつつ、十勝全域を捉えた福音宣教が進められることが期待できる。そして、農業・酪農業の方々への伝道、幼児、小学生への伝道、小さなお子さんをお持ちの若い主婦層への伝道、既存の地域住民の方々への伝道。それぞれ、多面的な角度からのアプローチ、または個々に絞った関係づくりのためのプロジェクトを考えていく必要がある。
 渡辺勝・カネ夫妻、鈴木銃太郎による入植で始まった、この地域でのキリスト教の評判は決して悪くはない。彼らをはじめ、多くの先人たちが築いた、キリスト教への信頼という福音宣教の基盤を、地域の信仰財産として一層、今後の宣教に生かしていくべきである。

 

※出 典:音更町統計、十勝統計、音更町HP、音更町郷土資料館展示物、帯広百年記念館展示物、
十勝毎日新聞、「使徒は二人で立つ」日本キリスト教会北見教会ピアソン文庫、
「日本 北海道 明治四十一年」ピアソン会発行。
インタビュー:音更町役場企画財政部企画課企画調整係、帯広百年記念館、よつば乳業十勝主管工場、
帯広聖公会、帯広栄光キリスト教会、十勝めぐみ教会

 

 

 

◎ 小泉健著『十字架の道 :受難節の黙想と祈り』(日本キリスト教団出版局)より

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受難節第22日目  土曜日

 


聖書  ルカ17:33

"自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。"

ルカの福音書 17章33節

(聖書 新改訳2017)

 


ソドムからの脱出の光景が私たちの目の前に描き出されています。鮮明なイメージです。火と硫黄が天から降ってきて、町を滅ぼし尽くします。そこに帰っていくことなどありえないことです。だから「畑にいる人も(家に)戻ってはならない」(ルカ17:32)と主イエスは言われます。

 


滅びの町を脱出して、天の都を目指して旅をします。40日の道のりを超えて、この旅は地上の生涯の全てに渡って続きます。しかし、自分の力で目的地にたどり着く必要はありません。私たちのいのちは既に「キリストともに神のうちに隠されている」(コロサイ3:3)からです。

 


【祈り】

●リチャード・チャロナー(1691〜1781)英国人。ローマ・カトリック司教。

 


主イエス

あなたが死に至るまで私たちを愛してくださった聖なる十字架を心からほめたたえます。

十字架の死に、私たちはひたすらより頼みます。

これからは、ただあなたのために生きる者とならせてください。あなたのために死ぬとしても、あなたを愛しながらあなたの聖なる御腕の中で死ぬ者とならせてください。

 


●ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801〜1890)英国教会の司祭からローマ・カトリックの司祭へ改宗した神学者

 


父よ、恵みを与えて、自分の頑なさを、本当に恥じる者としてください。

怠惰と冷たさから、私を奮起させてください。

心を尽くしてあなたを求めさせてください。

黙想と聖なる読書と祈りとを愛することを教えてください。

私の知性を永遠へと向かわせてくれるものを愛することを教えてください。

 


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● 「殺してはならない」 聖書箇所 マタイの福音書5章21~26節

 

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序論
 先週はイエス様が聖書を成就するために来られたことを見てきました。その中でも、律法の一点一画も廃れず成就するというくらい、完全に実行するイエス様を見てきました。だから、信じる私たちが、そのイエス様の義をいただいて天の御国に入れるのです。
 しかし、天の御国に入る者とされながらも、この罪の世で生きていかなければならないのも事実です。そこで、この世を歩む上で最も大切なこと。つまり、この世と言う人間社会でどう生きることがまず大切なのかをイエス様は語られます。それが「殺してはならない」「殺すな」です。

 

1.「殺すな」
 殺してはならないという法律は、世界どの国においてもあると思います。それは殺人罪を犯すなというルールです。しかし聖書の律法は、ただ単に殺人を犯してはいけませんという話ではありません。ハイデルベルグ信仰問答という信仰告白のための問答書があります。それにはモーセ十戒の第六戒についてこう書かれています。
その問105「第六戒で、神は何を望んでおられますか。」答え「わたしが、思いにより、言葉や態度により、ましてや行為によって、わたしの隣人を、自分自らまたは他人を通して、そしったり、憎んだり、侮辱したり、殺してはならないこと。かえってあらゆる復讐心を捨て去ること。さらに、自分自身を傷つけたり、自ら危険を冒すべきでないということです。そういうわけで、権威者もまた、殺人を防ぐために剣を帯びているのです」
この信仰問答は今日のイエス様の教えに基づいて、十戒の「殺してはならない」を解釈しています。それは行いだけでなく、思いとか言葉による侮辱や憎しみも含んでいるということです。しかし、イエス様の時代の律法学者やパリサイ人たちをはじめ、ユダヤ人たちは殺さなきゃ良いんでしょという問題に変えてしまっていました。つまり神の律法がこの世の法律と同じレベルにされていたと言えます。
そういう常識に変えてしまっていた彼らにイエス様は言われます。
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 」
「昔の人に言われた」というのは、「昔からそう言われてきたことを聞いてますね」という意味で良いと思います。それで何を聞いてきたかと言うと、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」ということです。これはもちろん、モーセ十戒の第六戒にある「殺してはならない」のことを言っているでしょう。モーセ十戒では「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない」と罰則として自分のいのちを差し出すことが求められています。そのくらい、人のいのちは尊いことを自覚しなければならないのです。それは、人間は神のかたちに創造されたからです。
 近年、人間が多く殺されたという場合に、どういうことで殺されているのが一番多いかご存知でしょうか。最近もニュージーランドで50人近い人が銃の乱射によって殺されました。日本でも地下鉄サリン事件で多くの人がいのちを奪われました。しかし、これ以上に多いのが人工中絶による胎児の殺された数です。正確な数字はわかりませんが、毎年約18万人の胎児が殺されています。その次に自殺です。昨年だけでも20598人の人が自分でいのちを絶っています。最近でも高校生の女の子がいじめが原因で踏み切りに飛び込んで亡くなったという事件や、小学生の女の子二人が自殺したというニュースをテレビで観ました。これはあくまで発覚している人数ですからもっといるかも知れません。それと合わせて、虐待による暴行事件、殺人事件が相次いでいます。本当に痛ましい出来事が毎日起こっています。人が人を殺す。亡き者にしてしまうことの恐ろしさを、私たちは毎日、聞いたり観たりしているわけです。
 しかし、イエス様が言われる「殺してはならない」とは、その実行犯だけに関わる話ではないのです。当然、この世の法律は心の状態を罪に問うことはできません。しかし、神の律法は私たちの内側をも問題にしているのです。それが22節です。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 」
 ここでイエス様は、「兄弟に向かって腹を立てる者~能無しと言うような者~ばか者と言うような者」と三段階で、それぞれが人を殺すことに匹敵することを教えておられます。
 腹を立てるとは怒ることです。怒ることがさばきを受けることになる。ここでのさばきを受けることになるとは法廷に出るという意味があります。つまり人に対してイラついたら殺人罪として逮捕されて罪が問われるというのです。だったら私は毎日逮捕されて毎日裁判です。皆さんはいかがでしょうか。でも私たちがすぐにイライラすることをイエス様はご存知なので、あえてそこにメスを入れているのです。つまり、人殺しのニュースを見て他人事にするなということです。その罪の根っこはみんな持っているじゃないか。そういうことです。
  そうなると、イラっとすることもしてはいけないんだと思ってしまいます。しかし、イラッとするのが私たちです。じゃあ、どうするのかとなります。そうなら、その都度、その怒りをもち抱えたままではいけません。そのときは全部神様に訴え、吐き出します。あの詩篇の中の祈りのようにです。人に怒りを覚えたら、まず神様に訴えましょう。そうでないとその怒りが増幅されてしまい、愛や信頼が失われ、死ねば良いという気持ちになるからです。それは相手にいなくなれと思うこともあるし、自分にもいなくなりたいと思わせます。だからパウロも「4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」と言っています。
  人間が腹を立てることは基本的には自己中心から来るものがほとんどですが、神のかたちが残っているので、正義感はあります。その正義感で怒ったとしても、早めに治めなければならないとパウロは言っているのです。そうしないと悪魔に支配されるチャンスを与えることになります。イエス様はまさにそのことを問題にしています。
  イエス様は「殺す」という罪は相手に対して腹を立てるところから始まる。だからまだ裁判にかけられているうちにそれを解決しなさいということです。だから、次の能無しと言うような者、その次のばか者と言うような者と、追うごとに、そのさばきの度合いが酷くなってきています。最高議会に引き渡されるとは、今で言う最高裁判所における最終的な裁判のことです。その次の燃えるゲヘナとは、直接的には、エルサレムの南側城壁の外にあるヒノムの谷のゴミ捨て場のことです。そこには石打や十字架刑で死んだ人たちの死体も捨てられている汚れた場所です。それが燃えているというので地獄の火に焼かれることを意味しています。だから早いうちに解決する努力が必要で、早いうちに対処すれば、実際に相手のいのちを奪うようなことにはならない。そのことを教えてくださっています。
  だから相手に対して「能無し」と言ったり、「ばか者」と言うことも、人を殺すことの出発点になることを押さえる必要があります。
能無しという意味はこのあとのばか者とは区別されています。それはこの能無しという方が、相手の知能を低く蔑む表現で、ばか者と訳されている元々の意味が、反逆する者とか反社会的な者という意味があります。前回学んだ、地の塩のところで、塩気をなくすという言葉は直訳的には塩が馬鹿になることをお話しました。この馬鹿者という方はまさに塩気がなくなるという言葉と同じ意味の根っこを持っています。反逆者、反社会的だから、この世には必要がない。役に立たない。それがこのばか者に込められている意味です。

  昔、広島で3歳になる男の子が知能指数69だと言われ、そのお母さんはショックでその子を殺すという事件があったそうです。それは一般的な数値である100前後ではなかったからです。また、いじめでよくあることは、特別、暴力がなくても、死ねとか、臭いとか、そういう言葉によって追い詰められて自殺するケースです。いずれも、ピストルやナイフがなくても口先だけで相手のいのちを奪うのです。お前は頭がからっぽだとか、死ねという言葉だけで人は死ぬのです。現実にそう言ったけど相手が死んでいないからと言って、自分は人を殺していないと言うことはできないのです。
  ここに、イエス様の言われる律法の本質があります。人はうわべを見るが主は心を見られるお方です。その一言で、いやそう思っている時点で、私たちは人のいのちを奪っているのです。

 

2.早く仲良くなりなさい
  そこで、イエス様は「だからこうしなさい」と言われます。23~24節。
「23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」
 面白い場面設定です。神様を礼拝しようとしているときに、誰かから恨まれていることを思い出したら、礼拝をストップしてまず仲直りの方を優先しなさいというのです。
 まず、恨まれている方が、その問題の解決を優先せよということです。恨んでいる人にではないところが面白いです。これはどうしてでしょうか。恐らく、恨んでいる人は既に腹を立てて怒り続けています。だから、今、まだ冷静なあなたが手を差し伸べなさいということでしょう。既にあなたを殺している人のために、あなたは努力を惜しむなということです。いや、勝手に怒ってるんだから知らん顔したいのはわかります。しかし、イエス様の解決方法は、単なるその場がうまくいけば良いという一時的な、刹那的な対処療法ではなく、根本的な治療を目指して努力せよということなのです。
 頭痛のときに飲む鎮痛解熱剤は対処療法です。それは頭痛がなぜ起こっているかということを解決するものではありません。とりあえず痛みを鎮めるだけです。しかし根本治療と言うのは、ある意味外科手術です。悪いところを取り除くのです。対処療法は楽で簡単です。しかし、また同じ痛みが続きす。でも根本治療は手間がかかりますが悪い部分を見つけ、同じ病気で苦しまないように確実に治療して、予防までするでしょう。
 イエス様の教えはその根本治療を目指すのです。だから25節。
「あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。 」
 見てください。ここでは告訴する者が出てきます。それは問題を放っておくと、恨みから告訴に移り、裁判官の前に連れて行かれ、判決をくだされて牢に入れられるのです。そうです。事態は益々深刻な状態に陥るのです。この状態と先ほどの腹を立てる者がゲヘナに投げ込まれることと並行しています。どちらも、放っておくと悪化することを言っています。
 だから、イエス様はこの25節で、「早く」と仰っているのです。しかも何を早くするかというと、仲直りは当たり前で、何と「早く仲良くなりなさい」ということです。
 いつも早いうちに努力して問題解決をはかり、さらに敵だと思っていた人と仲良くなること。このイエス様の教えを心がけていれば、牢屋に入れられてしまうようなこともない。そして燃えるゲヘナに投げ込まれることもないということです。
 自分だけが生き残るために相手を殺すのではなく、相手を生かし自分も生きるのです。まず相手のいのちを大切にするならば、私たちのいのちも残るのです。
 しかし、かろうじて関係の修復はできても、仲良くなることは至難の業です。目指すことはできます。しかし、仲良しになることは、ハードルが高すぎます。しかし、これがイエス様の「殺してはならない」という律法の本質であり、これこそ律法の成就なのです。書いてあることを書いてあるように、字面だけで守っていますというのは、問題の本質が見えていないということです。大切なのは、相手のいのちはもちろん、その人格、その存在、そのすべてにおいて神のかたちに造られた尊い存在として尊敬しているか。ここが問われているのです。
 その存在にすぐに腹を立てていないか。能無しと思っていないか。ばか者と言っていないか。信仰者として、主に罪が赦されて神の子とされている私たちですが、この世を生きる上でまず問われているのは、あなたの隣人をあなた自身のように愛していますかということなのです。
 
3.人を生かすために
 このことが先週もお話した、律法で神様が私たちに求めている第一のこととセットです。それは、あなたの神である主を愛しなさいということです。
 J.I.パッカーという神学者がいます。そのパッカー先生は、私たちの救いの目的をこう言っています。
「イエスを信じる者は罪と死から救われている。それでは救われた者は何のために救われたのか。それは現在も永遠においても父、子、聖霊なる神と隣人とを愛して生きるためである。神に対する愛の源は、私たちを救ってくださった神の愛を知ることである。」
 私たちが救われた目的は何ですか。天国に入ってお気楽に過ごすことでしょうか。単に世の悩みから解放されてのほほんと自由になるためでしょうか。それはある意味あっていますが、イエス様が求めておられる教えから言うと足りません。
 それはイエス様の教えは「殺すな」とは敵と仲直りするだけなら中途半端なのです。もう一歩進んで、仲良くなる。これが救われた私たちにイエス様が求めておられることです。
 つまりは、今日の説教題は「殺してはならない」ですが、イエス様の弟子は、また天国の市民となった私たちは、そのままでは足りません。「殺してはならない」という律法は「生かしなさい」なのです。命を奪うなでは足りません。いのちを与えなさいなのです。それは、最終的には私たちも生きます。生かされます。新しいいのちに生かされます。しかし、相手のいのちを生かすということは、必然的に自分のいのちを差し出す必要が出てきます。そのとき、相手を生かすことはすなわち自分に死ぬことだというところに行き着くのです。
 では、まずどうやって実践できるでしょう。自分に死ぬってなんでしょう。自殺することでしょうか。そうではありません。それは、今週のみことばにあるように、「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように」という神の恵みに立つことです。私自身から愛は出てきませんが、私たちが神様からいただいたキリストの十字架の犠牲、そこから流れるキリストの血潮、キリストの愛を受け取るなら、その愛によって、あなたの敵をも愛せるようになるのです。これが実践における大前提です。その次に大切なのは何でしょうか。大げさな行動をすることではありません。パウロはこのエペソ4章29節でこう言っています。
「悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」
 同じ意味のことを話すにしても、少し表現を工夫するだけで相手を生かす言葉に変わります。すぐに腹を立てて、相手を「能無し」「ばか者」と言う前に、その人がダメージを受けることばではなく、徳を養うのに役立つ言葉を話し、話すだけでなく恵みを与えなさいと言うのです。クリスチャンの業は、こうやっていれば良いんでしょということでなく、さらに祝福を与え、恵みを与えるところまで与え続けるのです。それは、「やらなきゃいけない」というものではなく、それを「喜んでできること」としてイエス様は教えているのです。
 それが優しい心で互いに親切にし合う教会、互いに赦し合う教会、クリスチャンの姿です。
 だからこそ、繰り返しますが、神がイエス・キリストにおいて、どんな犠牲を払って罪を赦してくださったのか。その主の痛みを、その天の父の痛みを覚えるこの受難節。その愛にいつも立ち返りたいです。その愛をいつも新鮮に受け取りたいです。そして、そこからまず私たちの口に上ってくる言葉に愛を乗せたいと思います。


 終わりにご一緒にエペソ4章25~32節を交読してお祈りしましょう。

4:25 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。
4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
4:27 悪魔に機会を与えないようにしなさい。
4:28 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。
4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。
4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。
4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。


祈り 殺してはならない。かつてシナイ山モーセがあなたからいただいた戒めです。そこには、殺人罪だけでなく、人を蔑み、侮辱し、イラつく心も問題にしていたことを教えてくださり感謝します。イエス様は、早く仲良くなれと仰います。かたちだけの礼拝よりも、私たちの内側を点検しなさいと言われます。どうか父よ。あなたが御子イエスの十字架を通して与えてくださった愛をどんどん注いでください。私たちがどんな人をも愛し、優しい心にされて、赦し合っていけるように導いてください。特に人と関わるときに、相応しいことばをお与えください。関わる方々、一人ひとりの人格が建て上げられ、あなたの恵みを与えることができるように、私たちをきよめてください。人を殺す者ではなく生かす者としてつくり変えてください。主の御名によって。