"そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」"
イエス様がキリスト、つまり救い主であることはどのように証明できるでしょうか。キリストという言葉は現在では、イエスという2000年前に実在した人のことだと、どの人も認めるでしょう。しかし、この時代にキリストという言葉は一般名詞であり、ユダヤではのちに来るダビデ王の子孫である救い主を意味していました。
そのことをユダヤ人の群衆が証言していることは、彼らが旧約聖書をよく知っていたからだと言えます。旧約聖書にはキリストとはどういうお方か、ダビデの子として生まれ、ユダヤ人たちを圧政から救うためにどんなことをするのかが記されていたからです。ダビデの子孫からキリストが出ることについてはこの聖書箇所があります。
"あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。"
サムエル記 第二 7章12~13節
これはダビデ契約と言われる神さまから預言者ナタンを通してダビデに対して語られた預言です。
また、キリストがどのような働きをするのかは、イザヤ書などを見ると分かります。
"神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、"
イザヤ書 61章1節
この預言がイエス様のことであるというのは、イエス様ご自身が証言しています。
"「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。」
イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」"
ルカの福音書 4章18~21節
このように、群衆はイエス様が悪霊につかれて口がきけなくなっている人を癒したことで、イエス様がダビデの子、すなわちキリストではないだろうかと思ったのは、正しいことであり、その告白、その判断自体が御霊の働きであるということです。なぜなら、聖霊によるのでなければ誰も「イエスは主である」と言うことができないからです。
"ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。"
コリント人への手紙 第一 12章3節
しかし、本来なら聖書をよく知り、教える立場にあるパリサイ人たちは、その群衆の判断、告白にケチをつけました。
24節「これを聞いたパリサイ人たちは言った。『この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。』」
彼らのこの発言にはとても重い責任があることを、彼ら自身は何も気づいていませんでした。
イエス様は、彼らのこのケチに対してこう言われます。
"ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。"
マタイの福音書 12章31~32節
聖霊の働きによって語る言葉を否定する者は赦されないとはっきり言われています。これは、とても恐ろしいことです。軽はずみに言う言葉であったとしても、神さまの働きを妨害する言葉、またその行為が私たちをさばくことになるのです。しかも赦されないとは、恐ろしいことです。
イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかり死んでくださいました。その十字架はどんな罪人をも赦すことができる神の知恵であり神の力です。
しかし、その十字架の業もことばも聖霊によって語られ、聖霊によって人に届けら、聖霊によって信じることができるのです。
その赦しの業のために働きとりなす御霊を私たちはよく理解しているでしょうか。大切なことは、群衆のように、聖書の言葉を信じ、聖書が指し示すキリストこそイエスであることを受け入れ告白することです。それは聖霊の導きだからです。
あなたを救うために、この世に来られたイエス様こそあなたの主であると「素直に」受け入れることを心からおすすめします。