のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎「ダビデの子イエス」: マタイの福音書:12章22~24節

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"そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。
群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」
これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」"

  イエス様がキリスト、つまり救い主であることはどのように証明できるでしょうか。キリストという言葉は現在では、イエスという2000年前に実在した人のことだと、どの人も認めるでしょう。しかし、この時代にキリストという言葉は一般名詞であり、ユダヤではのちに来るダビデ王の子孫である救い主を意味していました。

 

  そのことをユダヤ人の群衆が証言していることは、彼らが旧約聖書をよく知っていたからだと言えます。旧約聖書にはキリストとはどういうお方か、ダビデの子として生まれ、ユダヤ人たちを圧政から救うためにどんなことをするのかが記されていたからです。ダビデの子孫からキリストが出ることについてはこの聖書箇所があります。

 

"あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。"
サムエル記 第二 7章12~13節

  これはダビデ契約と言われる神さまから預言者ナタンを通してダビデに対して語られた預言です。

  また、キリストがどのような働きをするのかは、イザヤ書などを見ると分かります。

 

"神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、"
イザヤ書 61章1節

  この預言がイエス様のことであるというのは、イエス様ご自身が証言しています。

 

"「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
主の恵みの年を告げるために。」
エスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
エスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」"
ルカの福音書 4章18~21節

  このように、群衆はイエス様が悪霊につかれて口がきけなくなっている人を癒したことで、イエス様がダビデの子、すなわちキリストではないだろうかと思ったのは、正しいことであり、その告白、その判断自体が御霊の働きであるということです。なぜなら、聖霊によるのでなければ誰も「イエスは主である」と言うことができないからです。

 

"ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。"
コリント人への手紙 第一 12章3節

  しかし、本来なら聖書をよく知り、教える立場にあるパリサイ人たちは、その群衆の判断、告白にケチをつけました。

 

24節「これを聞いたパリサイ人たちは言った。『この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。』」

 

  彼らのこの発言にはとても重い責任があることを、彼ら自身は何も気づいていませんでした。

  イエス様は、彼らのこのケチに対してこう言われます。

 

"ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。"
マタイの福音書 12章31~32節

  聖霊の働きによって語る言葉を否定する者は赦されないとはっきり言われています。これは、とても恐ろしいことです。軽はずみに言う言葉であったとしても、神さまの働きを妨害する言葉、またその行為が私たちをさばくことになるのです。しかも赦されないとは、恐ろしいことです。

 

  イエス様は私たちの罪を贖うために十字架にかかり死んでくださいました。その十字架はどんな罪人をも赦すことができる神の知恵であり神の力です。

  しかし、その十字架の業もことばも聖霊によって語られ、聖霊によって人に届けら、聖霊によって信じることができるのです。

  その赦しの業のために働きとりなす御霊を私たちはよく理解しているでしょうか。大切なことは、群衆のように、聖書の言葉を信じ、聖書が指し示すキリストこそイエスであることを受け入れ告白することです。それは聖霊の導きだからです。

 

  あなたを救うために、この世に来られたイエス様こそあなたの主であると「素直に」受け入れることを心からおすすめします。

 

 

◎ 今日のみことば「志と実行に関わる神」

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「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」ピリピ2:13

 

信仰生活を歩もうとするとき、私たちの心とからだはどこを向いているでしょうか。また、何をもってそれを成し遂げようとしているでしょうか。
聖書は言います。それは、神だと。それでは、私たちは、神がそうなさるのだから、何もせずにおれば良いのでしょうか。そうではありません。聖書は、両方が必要だと言っているのです。12節で、パウロは「自分の救いを達成してください。」と言っています。救いは、ただ神からの恵みなはずなのに、自分で達成しろと。そして、神は、みこころのままに私たちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださると言っているのです。だから、自分で努力しながらも、その志も達成も神によると。そのとおり、ヤコブの手紙の記者主の兄弟ヤコブも、行いのない信仰は虚しいと言っています。私たちは、神を信じている。と同時に信じさせていただいてもいるのです。私たちは、主イエスを信じて救いをいただいている。と同時に、努力して救いを達成しようと努力しているのです。この表裏一体が、すべてのことを働かせて益となすという神の約束によって確信へと向かわせてくれるのです。放縦にもならず、律法的にもならず、ただ生ける神を愛し、神の愛にとどまるとき、私たちは形骸化した信仰生活ではなく、生き生きとした、神との親しい交わりのある信仰生活へと導かれるのです。

神が御子を与えてくださるほどに愛されている一方的な恵みに感謝し、神を愛する歩みをはじめましょう。

 

● 「福音の真理に立つ」:ガラテヤ2章11~14節


序)
  私たちの社会は、みんなが自分の意見を自由に語ってよい社会であり、みんなが良いと思ったことを決めていける社会です。それを民主主義と言います。それは独裁者が国や社会を私物化しないためにはとても良い方策だと思います。しかし、その反面、大勢が間違ってしまうと誤った方向に大勢で向ってしまう危険性も持っています。
 これはこの世の政治のことだけではなく、信仰においても言えることではないでしょうか。確かに教会でも総会を行い、そこでも基本的に多数決で決議していきます。その決定が神様の御心と信じて、決まっていくことに従うわけです。しかし、だからこそ常に少数意見にも耳を傾けること。少数意見だからこそ、丁寧に扱うことが必要になってきます。特に、教会での決議は全て、その教会の信仰の姿勢が現れます。どのように何を話し合い、決定していったかで、その教会が何を大切にしているかがわかってきます。
 今日の箇所もまさに、何が正しいのか。特に私たちの救いについて最も重要な福音に対して、パウロやペテロたちはどんな態度をとったのかが書かれています。この多数決が正しければ福音が歪められるという場面です。福音の真理が問われる場面で、ペテロはどうだったのか。パウロはどうだったのか。そして、私たちならどうしただろうか。

 

1. 人を恐れる
 もう一度、ガラテヤ人への手紙2章11節をお読みいたします。
「ところが、ケファがアンティオキアに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。」
ここで言われているケファは皆さんもご存知の通り使徒ペテロのことです。
使徒ペテロはキリストの弟子という立場においてはパウロの先輩です。パウロがイエス様を信じたときも、まずペテロのところに来て15日間いっしょに過ごしました(1:18)。それはパウロも、ペテロをイエス様の弟子仲間の先輩として認め、重んじていたからです。2:2、6では「おもだった人たち」という言葉を使っています。そのおもだった人たちでもリーダーであるペテロから直接、イエス様ご自身のことやその語られた言葉を聞いたり、学んだりしたと思われます。
そのペテロがアンティオキア教会に来た時の出来事です。アンティオキア教会は、使徒の働き11章によると、ステパノの殉教から起こった迫害によって生まれた教会であるということがわかります。その教会としての特徴はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいっしょに集まっていたということです。バルナバパウロがその設立に関わっていました。
アンティオキア教会には黒人もいるしユダヤ人もいるし、国主ヘロデの親戚もいるようなユニークな人たちが教会のリーダーとして立てられていました。その中にエルサレム教会からペテロ先生を交えて、みんなで楽しく同じテーブルで食事をしていました。
するとそこに更にお客さんがやって来ました。12~13節をお読みします。
「ケファは、ある人たちがヤコブのところから来る前は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、その人たちが来ると、割礼派の人々を恐れて異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と一緒に本心を偽った行動をとり、バルナバまで、その偽りの行動に引き込まれてしまいました。」
それは主の兄弟ヤコブが牧会しているエルサレム教会の人たちでした。その人たちは「信じるだけでなく割礼も受けないと救われないよ」と教えている人たちでした。それは割礼を受けていない人とは、たとえその人がクリスチャンでも一緒にいることを嫌がる人でした。その人は建物には入ってきましたが、隣の部屋にいるだけで同じテーブルに着こうとしません。すると、何とペテロ先生の様子が何か変です。いつの間にか席を立ったと思ったら、なかなか戻ってきません。トイレでも行ったにしては遅すぎる。そうこうしているうちに、あの人もこの人も席を立ち、部屋から出て行き、パウロの親友のバルナバも「そーっと」席を立ち、テーブルからいなくなってしまいました。 
 おかしいと思ったパウロが隣の部屋に見に行くと、何とトイレに行ったのではなくみんな隣の部屋に移動していたのでした。
 ペテロがこの行動をとったのはどうしてでしょうか。それは割礼派の人たちを恐れたと12節に書いてあります。十二使徒であり、その中でもイエス様の一番弟子と言われたペテロ先生が何を恐れているのか。それは、人間です。人間を恐れて正しい行動を取ることができなかったのです。しかも、ペテロ先生が動けばみんな「右倣え」です。右倣えする人が増えるほど、もう反対のことはできなくなっていきます。
 赤信号みんなで渡れば怖くない。でも、これはどうでしょうか。さっきまで和気藹々としていたのに、テーブルに残された異邦人クリスチャンたちも困惑しています。あのペテロ先生が自分たちを差別した。これは割礼を受けなきゃだめなの?一瞬そんな空気になりました。大丈夫かアンティオキア教会。
 多数決なら、パウロの負け。福音の真理の負けでしょう。しかも、ペテロ先生までもが割礼派の人に合わせちゃったから。…でも大丈夫。みんなわかっているのに、間違った方に行動しただけだったから。心は福音を信じているから?
 それで本当にいいのでしょうか。心と行動がばらばらでも良いのでしょうか。心は妻を愛しているから、行動だけ浮気することは正しいのでしょうか。パウロだってユダヤ人の救いのためにはユダヤ人のようになるし、異邦人の救いのためなら異邦人のようになります。でも福音を曲げてまでそんなことをしてはならないのです。
 かつて太平洋戦争のとき、キリスト教会は生きるために伊勢神宮を参拝し、神棚を礼拝堂に設置し拝みました。そして、それに従わなかった教会や牧師、クリスチャンたちに対して敵となっていきました。全員がそうだったとは言いませんが、当時の日本基督教団に入るということは、立場として国家主義を支持する方に回ったということです。
 人が怖かった。国が怖かったという理由で福音を貫けなかった、そのもう一方で福音を貫き拷問され、投獄され獄死したクリスチャンもいました。それについて、私たちは今日の箇所と繋がっていることに気がつくはずです。
 多数決が全てであれば偶像礼拝は正しいです。多数決が正義であれば、拷問も正しいです。でも本当に正しいのは人間の多数決ではなく、神の御心です。 
 全世界の人が神に背いても自分だけ福音を語れるか。自分だけ福音に生きれるか。
恐らく、ペテロもその割礼派の人たちとのゴタゴタを恐れて、ユダヤ人とし
ての慣習の方を優先させて、異邦人から離れたのではないでしょうか。しかし、そのペテロの行動でアンテオケ教会は結果的に分裂したかたちとなりました。それは、割礼派と一緒の席にいるペテロたちユダヤ人クリスチャングループ。もう一つは、パウロと一緒の席にいる異邦人クリスチャンのグループです。
パウロが、このペテロの行動を「偽った行動(つまり偽善者)」と断言したこ
とには、きわめて厳しいものがあります。「偽善」とは、もともと役者が仮面をかぶってお芝居するという意味です。だから、ペテロは、神様を観客席に置いてお芝居をしたという、本心を偽った行動をとってしまったということです。単に人間に対してではなく、神様に対しての誤魔化しであることが大きな問題です。

 

2. 福音の真理にまっすぐに
この偽善をパウロは言い変えて14節でこう言っています。
「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て…。」
パウロは、ほかのユダヤ人クリスチャンもペテロと同じ行動をとったのを見
てペテロに抗議しました。恐らくパウロは、だれかが先に抗議することを期待して待っていたのでしょう。しかし、他のユダヤ人クリスチャンたちも、みんながペテロ先生に右倣えしてしまったのです。特に13節の「バルナバまでも」という言葉に、パウロのガッカリ感が伝わってきます。パウロの恩人であり、同労者として信頼していたバルナバまでもが、偽った行動に巻き込まれてしまった。
ペテロのとった行動は、教会内に大変な影響を与えてしまいました。それは
当然です。ペテロは初代教会にとって大変重要な人物です。大先生です。その人の言動は多くの人の心さえも動かす力があるものです。ここでパウロはペテロに対してこう言いました。14節後半です。
「あなた自身、ユダヤ人でありながら、ユダヤ人ではなく異邦人のように生活しているのならば、どうして異邦人に、ユダヤ人のように生活することを強いるのですか。」
私は、パウロという人は、謙遜であり、相手のことをいつも配慮している信
仰者であると思います。ある箇所では、「(パウロは)手紙だと重みがあるが、実際に会ってみるとなっていない」と言われていますが、そう言われるくらい、パウロは穏やかな印象の人だと、私は思います。またエペソ人への手紙4:29で、パウロは、このように言っています。
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」
パウロは、この言葉通りに、いつも相手の徳を建て上げるために役立つ言
葉を選んで語ることのできる人です。ですから、ここでも「恵みを与える」ために、どうしても、強く、はっきり言わなければならなかったのです。その理由は同じ2章の5節~6節にも書いてあります。
「私たちは彼らに一時も譲歩しませんでした。それは福音の真理があなたがたの間で常に保たれるためです。そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。」
それは「福音の真理が保たれるため」だということです。パウロは、そのた
めには相手がペテロのような大先輩だとしても問題ではないという姿勢を貫いていました。しかも、影響力のあるペテロが偽った行動をしてしまったことには、あえて公然と抗議することが必要であるとパウロは判断したのです。
ペテロの安易な行動は、ただ混乱を生むことにとどまらず、異邦人クリスチ
ャンを虐げ、律法主義クリスチャンたちに誤解を与え、教会を分裂させ、何よりも主イエス様の完全な救いに泥を塗ることになったのです。
ペテロが若い頃、他の弟子たちと夜中に舟に乗って湖を渡っていたときに、そ
の湖の上を歩いて来られるイエス様に出会いました。そこでペテロは驚きつつも、主よ、あなたでしたら、歩いてここまで来いと命じてくださいと言って、舟を出て湖の上を歩いてイエス様の方へ向かいました。しかしペテロは途中でどうなったでしょうか。ペテロは、そこで、イエス様ではなく、風を見て怖くなり沈みかけたのです。今日の箇所でもペテロはイエス様を見ていませんでした。イエス様ではなく人を見て恐れました。ペテロもやはり同じようなしくじり繰り返してしてしまう。でも、これが私たちの姿でもあるのです。
ですから大切なことは、私たち一人一人が、福音の真理についてぶれずに、
まっすぐ歩むことだと言うことがわかります。それがパウロのすべてのクリスチャンに対する願いでした。
パウロの焦点はぶれていませんでした。その目は何を見ていたでしょうか。それは、イエス様の十字架です。次の3章1節でパウロはこう言っています。
「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。」
パウロの目が捉え続けたものは、十字架につけられた主イエス・キリストでした。それは全てのクリスチャンにはっきり示された福音の真理です。そして、これはガラテヤ人だけでなく、福音の真理から外れてしまいやすい、すべてのクリスチャンに対するパウロの叫びです。

 

結論
私たちの目はどこに注がれているでしょうか。本当に福音の真理にまっすぐ歩んでいるでしょうか。福音を純粋に信じて歩んでいるでしょうか。私たちが救われたのは、イエス様を信じたからです。もちろんその通りです。私たちは行いによらず信仰によって救われました。しかし、ただではありません。神の御子の犠牲の上に成り立っているという価値がそこにあるのです。パウロはこの手紙の冒頭から、福音のど真ん中である、自分のためにいのちを捨ててくださったイエス様を捉え続けています。1:4
「キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。」
それが使徒パウロの視点であり、使徒パウロが願う、私たちが保つべき福音の真理なのです。
 大切なことは、福音に向かってまっすぐになること。右にも左にも反れずまっすぐにです。つまり福音の真理であるイエス・キリストの十字架の恵みに向かってまっすぐに歩んでいるかということです。
田植えをするとき、どうやったら田んぼに稲の苗をまっすぐに並べて植えることができるでしょうか。それは、視線を足元ばかり見ないでまっすぐ進む先に向けることです。そのゴールを見続けることで一直線にまっすぐな田植えが出来るのです。信仰の歩みもそうです。
今、あなたの肉眼も心の目も、どこを見ているでしょう。目の前にある出来事、問題でしょうか。それとも頼りになるあの人、あの先輩クリスチャン、あの先生でしょうか。
私達がまっすぐに歩むために見るべきものは、福音そのものであるイエス様です。私のために命を捨ててご自分を与えてくださったイエス様から目を離さずにまっすぐに歩んでいるか。そのお方との親密な関係を保っているか。それが、どんなときでもぶれない信仰の歩みなのです。
私たち人間は自分の力では自分を罪の奴隷状態から救い出すことができませ
ん。だからキリストが私たちの罪を自ら背負われて十字架上で死んでくださり、三日目によみがえられることによって、私たちを罪の呪いから解放してくださったのです。その素晴らしい知らせが福音です。私たちはこの素晴らしい知らせに、何ものをも付け加えてはならないし、付け加えることはできません。それは、ただ主の恵みによって私たちに与えられたものだからです。大工さんがきれいにカンナがけした木材に私のようなものがカンナがけしたら、その木材は台無しです。それと同じように、イエス様がご自分のいのちをかけて与えてくださった福音に手を加えてはならないのです。そして、その福音から右にも左にも逸れてはいけません。ただ自分のためであったと受け入れ続けるだけです。
新しい一週間が始まりました。今週も私たちのためにいのちを与えてくださっ
たイエス様から目を離さずに、この福音の恵みに感謝しつつ、まっすぐに歩ませていただきましょう。

 

祈り
恵み深い天のお父様。このペンテコステに、福音の真理に立つ祝福を教えて
くださりありがとうございます。私たち自身は大変弱い器です。どうか、ともにおられる聖霊が私たちを助け、慰め、イエス様の十字架の恵みから目が逸れないように、この心がぶれないように導いてください。
 この新しい一週間も、どうか私たちを、今の悪の世界から救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになったイエス・キリストをまっすぐ仰ぎ見る歩みをさせてください。
 私たちの救い主イエス・キリストの御名で祈ります。

 

 

● 「迫害の中で神を証しする」マタイの福音書 10章16~23節

"いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。"

  イエス様を信じる者は、イエス様の弟子と呼ばれます。その弟子をイエス様が危険な場所に遣わすと言われています。

「狼の中に羊を送り出すようにして」と、あくまで送り出しているのはイエス様ご自身です。

 

  私たちは、怖いことや危険なことは嫌です。いじめられることや悪く言われることも嫌です。しかし、イエス様はあえて、その中に私たちを送り出すのです。それには理由があります。

 「 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。」

  ここに、あなたがたは、わたしのため、すなわちイエス様のために、この世の支配者、権力のある者、さばく立場の人間の前に連れて行かれて、そこで「証しをする」と言われています。その道は決して楽ではないことはわかります。それはいのちの危険にさらされることだからです。

 

「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。」
と書いてあるとおりです。

  しかし臆することはありません。イエス様はきちんと、その迫害に対してどのようにすべきかを教えてくださっています。

  まず、「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と言われていることです。ここには、鳩のような素直さは当然ですが、あの蛇のような賢さを身に付けることの大切さが教えられています。蛇はエデンの園で人間にまんまと罪を犯させた張本人です。しかし、それは悪魔の手先となったからであって、もともとの蛇の特性としてはどの被造物の中でも賢かったことは確かでした。その賢さのために、私たちは日々努力することが必要です。

  よくクリスチャンの中でも、大事なのは信仰で知識ではないと言われます。確かに信仰はまず大事なものです。しかし、イエス様は迫害に備え、証しをするためにも聖書を学び、みことばを蓄えることの大切さ。また、そのみことばを適切に用いるための努力を否定してはいません。むしろ、そのような賢さを身につけるために、その学びの大切さを教えているのです。

  蛇は確かに、みことばを逆に人間を惑わすために用いました。しかし、それはみことばを知っていたから、そう用いることができたのです。その部分は悪魔とは切り離して学ぶべきところではないでしょうか。

  そのみことばを蓄えて適切に用いることは、あとで生かされます。

 

「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」

 そのとき、その賢さと素直さが御霊によって用いられて適切に、大胆に語る者とされるのです。

 

  神学校で学ぶことは、ここにその価値を見出せます。もちろん、一人で教会の礼拝や学びの中でも身につけることは出来るかもしれません。しかし、集中的に専門的に、また実践的に身につけるためには、神学校の訓練と学びは有効です。

 

  そこでの学びが、これからの、このイエス様の弟子としての役割に十分に生かされるからです。それは、一生続く弟子の道だからです。それは「まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」と言われているように、長く険しい道であることが明らかだからです。その険しさに耐えるためにも、蛇のように賢く鳩のように素直な弟子としての整えられることが必要なのです。

  そのイエス様の弟子の歩み、神の民とされた生き方に起こる様々な出来事に耐え忍ぶ者は救われるとあります。これは、その険しさに耐えることが救いの条件なのではありません。救いは神様からの一方的な恵みですので、イエス様を信じる信仰によって与えられます。しかし、その信仰は口先だけで終わることがありません。神様は信じる私たちに聖霊を与えて、ことを行わせてくださり、最終的には御国に至らせてくださるということです。

   信仰と行いは本来セットです。だから、そのように御霊の働きによって実現されるのです。

  

 今日のみことばは、特にこの言葉を覚えて励まされて参ろうではありませんか。

 

"話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。"
マタイの福音書 10章20~22節

  私たちに適切なことを話させてくださり行わせてくださるのは、私たちの父の御霊だということ。そして、その御霊とともに最後まで耐え忍びつつ、主の弟子として生きる者は、確かな救いの喜びを味わうことができるということです。

 

  今日も与えられた場所で、蛇のように賢く鳩のように素直な信仰者として、みことばをいただき、主の働きに備えて参りましょう。

 

● 「天に宝をたくわえる」 マタイの福音書6章16~23節

序論
  この6章は私たち信仰を持った人の信仰生活について教えているということを押さえて、これまで聞いてきました。主の弟子になった者は、このように生きるべきですよということを見てきました。それで前回は、祈りについて学びました。イエス様は「主の祈り」を通して、祈りの大切さと、どのように祈るのかということを教えてくださいました。
 だから、天のお父様に対する祈りによって、私たち信仰者は整えられて、施しなどの良い行いができるようにされていくということです。しかし、神様と繋がっていなければ、その行い、その信仰生活、また祈りでさえもお芝居に成り下がる。良い人の振りになってしまう。それは偽善者だということでした。
 だから、人に見せるため、また良い評価を期待する信仰生活ではなく、ただ神様に感謝し、神様を愛する。特に、罪を赦された私たちであることを絶えず覚えていきましょうというメッセージを聞いてきました。
 それで、今日の箇所です。ここには「断食するときには」と言われています。これまで「施しをするとき」、「祈るとき」と私たちにとって大切な行動の実践が取り上げられていました。その信仰生活にとって次に取り上げられたのが「断食」です。
みなさんにとって「断食」は身近なことでしょうか。私たちの信仰生活で「断食」ってポピュラーなことでしょうか。ここに来て「断食」。しかし、ここでイエス様が本当に仰りたいことは18節です。このみことばは4節、6節でも言われていたことです。つまり今日の箇所は、6章1節から言われてきたことの強調であることを、まず受け止めたいと思います。ここでイエス様が言いたいことは「断食」をしなさいということではなくて、既に言われてきたように、信仰を見せびらかすなということです。
 それで断食をするときにも、それを誰かに言ったり、また言わないまでも、いかにも断食しましたという顔つきで、自分を誇るな。自分に光を当てるなということです。
 そのことをまたここでもイエス様は言いたいのだということをきちんと念頭に置きたいと思います。
 その上で当時の信仰者にとっては当たり前のことであっても、現代の私たちには身近でないこともありますので、今日は、まず断食について整理して、私たちの信仰の姿勢、あり方について、みことばに聞いていきたいと思います。

 

1. 断食への信仰の姿勢
16節。
「 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。 」
 断食は、もしかしたら現代社会では時代錯誤のように映っているかも知れません。しかし、聖書は頻繁に断食を述べています。世界のキリスト教会も幾世紀にも渡って熱心に実践してきた歴史があります。イエス様の時代でも毎週二回断食する習慣がありました。ところがその実践も衰退していきました。それは宗教儀式として形骸化し、本来の意味を履き違えたところにその原因を見ることができます。
 聖書では一貫して、断食は「霊的・信仰的な目的のために食物を控えること」を意味しています。有名な事としては、悪魔の誘惑を受けられるイエス様が荒野で40日40夜断食したことが挙げられます。イエス様は、その断食後、みことばによってサタンに勝利しました。そのように聖書全体を見渡しても、断食は個人的にも集団的にも、神様との関係の中でもたれていたことがわかります。特に集団による断食は、直面した課題に対して一つの心で結束し、共に問題に立ち向かう人々が集まる、力強く尊いものです。エステル記でも、ユダヤ人の集団が一致した祈りと断食によって、表面的だけでなく本質的な神の業を体験できました。
 では、聖書はすべての信仰者に断食を義務付けているでしょうか。イエス様は施しや祈りをその教えの中から除外していないように断食も除外してはいません。しかし、断食をすべきだとも言っておられません。それを適切に行う相応しいときがあるということを示しています。イエス様は花婿のたとえで語られました。「花婿が奪い取られる、そのとき、彼らは断食することになる」それについて、アーサー・ウォーリスという神学者はこのように結論づけています。
「その日とは、主の十字架の死と復活の三日間だけでなく、まさに現代の教会の時代である」とです。このことから断食は命令ではなく、私たちキリスト者に期待されていることだとわかります。
ここで断食の目的に注目しなければなりませんが、注意すべきは断食によって神をコントロールしようとすることです。お百度参りのように、「これだけ苦しんだのだから願いを聞いて」ということです。
  だから断食は主を礼拝する生活の中で霊的訓練として意識付けすることが大切です。スポルジョンもウェスレーもその重要性を強調しています。また極端に禁欲でもありません。断食によって露わにされていく自己を知り、そこから、研ぎ澄まされてキリストに向かわされるのです。
  その断食を今行おうとするなら、ある程度、学びと訓練が必要です。まずは、24時間継続の短時間の部分断食を行ってみる。その日の昼から翌日の昼までやってみる。何れにしても、断食の実行は、聖書に根拠があることを忘れてはなりません。それは、断食には断食でしか経験できない霊的な領域における数々の発見と成長をもたらすからです。
 だから、断食は今でも行なうことをイエス様は期待しておられるかも知れません。アーサー・ウォーリスの解釈が正しければ、今、この教会の時代こそ断食をもって主の再臨を待つことが求められているのかも知れません。
 しかし、先程も言いましたが、注意点があります。それは、この断食は確かに他の人には見せるべきでないし、自分が断食したことを教えるべきではありませんが、それ以上に神様にすら見せるためのものではないこともわきまえるべきだと言えます。それは、自分がこんなにお腹をすかしてまで頑張っているという神様へのアピールは、相応しい断食とは言えないからです。むしろ断食を通して、自分自身に向き合わされる。自分の惨めさに向き合わされ、弱さの中に働かれる主に心が注がれていく。そこにこそ断食の意味があるのではないでしょうか。断食によって露わにされていく己を知り、そこから、研ぎ澄まされてキリストに向かわされるのです。
 だから、ここでイエス様が教えているのは、断食する人の心がどこに向いているか。何に価値を持っているかということなのです。その心が神様に向いているなら、その信仰を神様は隠れたところでご覧になっておられて、その歩みを祝福されるのです。17~18節
「しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。 」

 

2. 天に宝をたくわえる生き方
 だからこそ、地上ではなく天に宝をたくわえなさいとイエス様は言われているのです。
19~21節
「 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 」
 その心がどこを向いているか。私たちの心は必ず、そのとき関心のあるもの、注目しているものに向けられます。その心は、そのとき大切にしているもので支配されるからです。
 人に注目されたい。皆によくやったねとか、すごい信仰だねと言われることに傾いている人は、宝物を地上にたくわえる人だとイエス様は言われます。それは、天におられるお父様ではなく、地上にいる人の方を向いているからです。それはこの世が宝物と同じだということです。神様のおられる神の国よりも、罪の世を拠り所にしているということです。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるとイエス様は仰います。このお言葉は非常に重いことばです。それは、私たちを罪の縄目から解放してくださったお方を軽んじて、この世と言う罪の中で尚も自分の栄光を求め、自分が王様になろうとしているからです。
 イエス様がこの6章に入って、信仰者の生き方を教える中で、どうして、ここまで、同じ内容で語り続けているのでしょう。主の祈りがあって、お祈りが大切だと教えられたところで、また16節からは、偽善者になるな。いい人ぶるな。自分の経験を誇るなです。
 これは未信者ではなく、すでに信じて神の民になった者。別な言い方をするとキリストの弟子に向けられていることばです。そのくらい、主の弟子とされた者たちは、自分の信仰を誇ることがもっとも陥りやすい罪であることを、イエス様は指摘しています。
 皮肉な話です。イエス様のゆえに罪を赦されて神の子どもとされたにも関わらず、どうして更に誇ることがあるでしょう。
 この山上の説教を聞いていた、このユダヤ人の弟子たちであれば、まだ分かります。ユダヤ人という選びの民としてのプライドがあることがわかるからです。しかし、私たち異邦人は、整えられたオリーブの木に接木された野生の木です。しかも、その中でも他の異邦人よりもただ神様の憐れみのゆえに先に救われたに過ぎない者です。そうであるのに、何と自分を誇ることの多い者でしょう。何と自分に光が当たることを求めやすい者でしょう。
 しかも、私たちが自分の功績を認めてほしいとか、自分がここまで忠実に主に従ってきたということを自分で言いたくなってくる。そのとき、私たちが求めている自分への栄光は、もはや主の栄光ではありません。私たちは自分では輝けないから、主の栄光によって輝けるはずなのに、間違った光を求めてしまうのです。その光は本当の光ではありません。それは、かつてエデンの園で蛇が言った「神のようになれる」という滅びへの道からもたらされる闇の力です。その闇を光と勘違いして、自分を照らす。それは神の子どもの道ではありません。サタンの道です。そのことをイエス様はこう言われています。22~23節
「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」
 私たちのからだを家に見立てると、あかりを取り入れる場所。窓は何でしょうか。それは目です。鼻の穴や毛穴からも少しは光が入っているかも知れませんが、光を取り込んで、それを認識できるのは目だけです。そして、目から入った光は水晶体を通り、眼底にある網膜に当たって、そこで入って来た光の濃淡で映像を電気信号に変えて脳に送り、「見えた」となります。つまり、目から入った情報が脳に刺激を与えて、心もからだも支配します。
 昔、学校で好きな子ができると、その子を見ているだけで頭だけでなく、心もいっぱいになりました。それは肉眼と心が繋がっているということです。肉眼と心の目はセットです。私たちがいつも何に着目し、何に関心を持つかで、私たちの心もからだも支配されるのです。
 だから、自分が報われたい。頑張ったのだから、みんなに気付いてほしい。称賛してほしいと、心の目を自分に向けるならば、いつもその肉眼も見えるものすべてが、自分への評価に繋がるように期待してしまいます。あの人の目も心も自分に向いて欲しい。その言葉も自分の功績を語ってほしい。
 しかし、イエス様は、その目は健全ではないと言われます。目が健全なら、全身に主の栄光が満ちて、その人は祝されます。しかし、その目が不健全ならば、全身が暗くなる。つまり、それは闇を見ているからです。でも、そのとき、私たちは闇とは気付かないで、まんまとその心もからだもサタンの支配に委ねているのです。
 だから、イエス様は言われます。自分の宝は天にたくわえなさいと。あなたの宝のあるところにあなたの心がある。だから、いつも、私たちの目が、そして心がどこを向いているか点検が必要です。
 私たちを赦し、神の子どもとしてくださったイエス様を見ているか。イエス様を見るとは、神様を見ると同じことです。イエス様は言われました。「わたしを見た者は父をも見たのです」と。

 

結論
 あなたは今、何に注目していますか。何を大切にしていますか。今日、イエス様は言われます。自分の宝を天にたくわえよと。私たちがもし、密かに神の業を行うならば、それは神に喜ばれることです。人が評価しなくても隠れたところで見ておられる神様が全てご存知です。それでいいじゃないですか。もし、人に知られたとしても、誇る必要はありません。「なすべきことをしたまでです」と答えれば良いのです。すべては神から出たことであり、自分ではありません。ただ、この小さき者を神様が用いてくださる。こんな役立たずの者が神様の御国のために使っていただける。そのことだけで感謝が溢れてきます。
 あの十字架上で、イエス様といっしょにかけられた強盗のうち、一人がイエス様を最後まで罵っていました。しかし、もう一人の強盗は、そういう罵る仲間の強盗をたしなめてから、イエス様にこう言いました。
「イエスさま。あなたの御位にお着きになるときには、私を思い出してください」
 彼の目には何が映っていたでしょうか。それは、罪人のために罵られ、傷だらけになって「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と執り成すイエス様でした。彼の目から入ってきたのは、その神の栄光でした。強盗の心もからだも主に満たされたのです。だからイエス様はこう仰います。
「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」
 この強盗は主のために何も良いことはできませんでした。今、そのまま死のうとしています。どう見ても最悪の死に方です。しかし彼の心は主に満たされていました。それは主の十字架をそのまま受け入れたからです。そのままの主を肉眼で、心の目で見たからです。そうです。この瞬間、イエス様ご自身がこの強盗の宝物になったのです。
この強盗は、罪の苦しみの中でイエス様に注目し、ただ思い出していただくだけで良いという素晴らしい信仰者として、2000年間、聖書に記され、光が当てられ、私たち信仰者の模範とされているのです。これが神の祝福です。これが世の光、地の塩として用いられるということです。

  何と言う謙遜な信仰でしょう。自分が目立つのではありません。自分の業が大事なのではありません。大事なのは、主が崇められることです。私も、ただ神の国の下働きで十分です。イエス様に思い出していただけるだけで十分です。

 

祈り
恵み深い天のお父様。今日もみことばを与えてくださってありがとうございます。私たちは、自分の信仰を誇る弱さを持っています。あなたから与えられたものも自分の手柄にしてしまう者です。良い行いも、祈りも、断食も恵みなのに、これまで生かされてきた信仰の歩みも恵みなのに、自分を功績を知ってほしいという思いになります。どうかお赦しください。そのためにイエス様が何度も同じことを語られて警告されていることをありがとうございます。どうか、私たちの心の目も肉の目もきよめてください。自分の栄光ではなく、あなたの栄光を仰ぎ見るものとしてくださり、あなたの栄光で、この心もからだも満たしてください。どうか私たちの心が、本当の宝であるイエス様から離れないように今週も守っていてください。

●主に身を避ける人:詩篇64篇

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詩篇 64篇
指揮者のために。ダビデの賛歌。
1,神よ私が嘆くとき私の声を聞いてください。敵の脅かしから私のいのちを守ってください。
2,どうか私をかくまってください。悪を行う者どものはかりごとから不法を行う者どもの騒ぎから。
3,彼らはその舌を剣のように研ぎ澄まし苦いことばの矢を放っています。
4,全き人に向けて彼らは隠れた所から射掛け不意に矢を射て何も恐れません。
5,彼らは悪事に凝っています。示し合わせてひそかに罠をかけ「だれが見破ることができよう」と言っています。
6,彼らは不正を企み「企んだ策略がうまくいった」と言っています。人の内なる思いと心とは底が知れません。
7,しかし神が彼らに矢を射掛けられるので彼らは不意に傷つきます。
8,彼らは自らの舌につまずきました。彼らを見る者はみな頭を振って嘲ります。
9,こうしてすべての人は恐れ神のみわざを告げ知らせそのなさったことを悟ります。
10,正しい人は主にあって喜び主に身を避けます。心の直ぐな人はみな誇ることができます。

 

  この世にあっては、どんな人にも敵、悪を行う者、不法を行う者がいます。それらの者は、私たちを脅かし、いのちを狙っていることがあります。また、彼らの口には苦いことばがあり、剣のように研ぎ澄まして、矢のように私たちの心に刺さってきます。

  私たちがどんなに警戒していても、その苦いことばが不意に、またひそかにやって来ます。その悪事は底知れず、その悪事の方が私たちよりも勝り、信仰者の心は挫かれます。

  それが、この世に置かれた信仰者の宿命かも知れません。なぜなら、その敵の背後には、その悪をもたらし支配する悪魔の存在があるからです。

 

  しかし、私たちは失望することはありません。なぜなら、私たちの神が私たちに代わって彼らに報復されるからです。私たちには神がおられるのです。この罪の世にあって、私たちは苦しみます。しかし、いつも神に「御国が来ますように」と祈るように、神の国は、今、この世にあっても私たちのいる場所に実現することを体験できるのです。

 

  神の国とは、やがて訪れる完成された新しい国ですが、同時にその神の王国は、神の完全な支配のことでもありますから、この世においても、また私たちの置かれている状況が、たとえ地獄であったとしても、神が共におられるなら、そこは既に神の国なのです。

  その中でダビデは断言します。

10節

「正しい人は主にあって喜び

主に身を避けます。

心のすぐな人はみな  

誇ることができます。」

 

  今日の詩篇で、ダビデは信仰者について三つの言い方で表現しています。

第一に4節。「全き人」

第二に10節前半「正しい人」

第三に10節後半「心の直ぐな人」

 

これらの言葉は全て、この詩篇の冒頭に出てきた悪者たちに対応しています。

1節「敵」

2節「悪を行う者ども」

同節「不法を行う者ども」

 

  では、具体的にどんな人が「全き人、正しい人、心の直ぐな人」なのでしょうか。それは10節にあるように、どんなときにも「主にあって喜び、主に身を避ける」人ではないでしょうか。

  私たちは、もともとこの世の者であり、この世の常識、この世の支配者である悪魔の下にありました。ですから、私たち自身が神の敵であり、悪を行う者どもであり、不法を行う者どもだったのです。しかし、今、この世から救われて、主にあって全き人、正しい人、心の直ぐな人とされたのです。

  ここに神の恵みの偉大さを知らなければなりません。私たちは、本来ならば神の敵として、さばきを受けなければなりませんでした。しかし、今、不思議な神のご計画の中で神の民、主の弟子とされたのです。

  その大きな恵みに立つならば、いつも主にあって喜び、自分で復讐せずに、ただ主に身を避ける者として歩むことができるのです。それが全き人、正しい人、心の直ぐな人の生き方です。

  今日も、ぜひ主にあって喜び、主がどうして私を、そしてあなたを選んでくださったのか。その憐れみを覚えようではありませんか。そのとき、その思い、その信仰から来る感謝こそ、主に身を避けることなのだと知らされるからです。

 

"味わい見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ主に身を避ける人は。
主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には乏しいことがないからだ。"
詩篇 34篇8~9節

●心が折れるとき: サムエル記 第一 27章

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1,ダビデは心の中で言った。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、イスラエルの全領土内で私を捜すのをあきらめ、こうして私は彼の手から逃れられる。」
2,ダビデは、一緒にいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。
3,ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住んだ。ダビデも、その二人の妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルと一緒であった。
4,ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度と彼を追おうとはしなかった。
5,ダビデはアキシュに言った。「もし、私があなたのご好意を得ているなら、地方の町の一つの場所を私に下さい。そこに住みます。どうして、このしもべが王国の都に、あなたと一緒に住めるでしょう。」
6,その日、アキシュはツィクラグをダビデに与えた。それゆえ、ツィクラグは今日まで、ユダの王たちに属している。
7,ダビデペリシテ人の地に住んでいた日数は一年四か月であった。
8,ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルの方、エジプトの地に及ぶ地域に住んでいた。
9,ダビデはこれらの地方を討つと、男も女も生かしてはおかず、羊、牛、ろば、らくだ、また衣服などを奪って、アキシュのところに帰って来た。
10,アキシュが「今日は、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。
11,ダビデは男も女も生かしておかず、ガテに一人も連れて来なかった。「彼らが『ダビデはこういうことをした』と言って、私たちのことを告げるといけない」と思ったからである。ダビデペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をした。
12,アキシュはダビデを信用して、こう思っていた。「彼は自分の同胞イスラエル人に、とても憎まれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべでいるだろう。」

 

 私たち信仰者も心が折れるときがあります。長く緊張が続き、これまで堅く立っていた信仰は何処へやら、まさかという選択をしてしまうものです。

  サウルの手から逃げ続けてきたダビデも決して完璧な信仰者ではありませんでした。彼は「心の中で言った」とあります。その声は、心の中で誰に対して言ったのでしょうか。

  私たちも、心の中で話をして、心の中で納得させることがあります。これは仕方のないことだ。私のせいではない。この状況が私をそうさせているなどと、自己弁護のような、言い訳のようなことを自分に言い聞かせてしまう。その時、私の心はどこへ向かっているでしょう。それは、魔が差したように、心は主から離れているのです。

  ダビデも本来なら、主に叫び、主に訴えるべきでした。いや、いつもなら、そうしていたはずです。

 

"彼は言った。わが力なる主よ。私はあなたを慕います。
主はわが巌わが砦わが救い主身を避けるわが岩わが神。わが盾わが救いの角わがやぐら。
ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる。
死の綱は私を取り巻き滅びの激流は私をおびえさせた。
よみの綱は私を取り囲み死の罠は私に立ち向かった。
私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた。"
詩篇 18篇1~6節


  ダビデにとって、「主はわが巌わが砦わが救い主身を避けるわが岩わが神。わが盾わが救いの角わがやぐら」でした。その主への篤い信仰を主は喜ばれていました。しかし、長い恐怖、なかなか終わらない緊張は、信仰者の心を折らさせ、思いもよらない選択をさせてしまうのです。

  ダビデは以前にも気が触れた者を装ってガテの王アキシュのもとに行き、敵の中に隠れようとしたことがありました。今回もまたアキシュのもとに行きました。しかも、今度は気がふれた者ではなく、イスラエルに敵対する者を装って、自分の身を守るために、関係のない者たち男も女も皆殺しにするという恐ろしいことを選び実行したのでした。

  このダビデの行動をあなたはどのように評価するでしょう。主に油を注がれた、次期イスラエル王なので、この選択は許されるものでしょうか。生き残るための緊急避難的措置としてやむを得ないのでしょうか。

  それは違います。それは、先ほどの詩篇18篇にもありますが、どんな困難な時も「ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる」と信じて、主に心を向けることがダビデに必要なことでした。しかし、ダビデは主に呼び求めることをせずに、自分の策略によって、自分の方法で身を守ることを選んだのです。これは主のみことばに聞くよりも、自分の心の声に従ったということです。

  かつてサムエルがサウルに言った言葉を思い出します。

 

"サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」"
サムエル記 第一 15章22~23節


  大切なのは主の御声に聞き従うことです。自分の心の声は主の御声ではありません。

  私たちも、心が折れることがあります。長い緊張感の中で、張り詰めた糸が切れるように、まさかの展開に自分を追い込むことがあります。私たちも、心の中で話をして、心の中で納得させることがあります。これは仕方のないことだ。私のせいではない。この状況が私をそうさせているなどと、自己弁護のような、言い訳のようなことを自分に言い聞かせてしまう。その時、私の心はどこへ向かっているでしょう。それは、魔が差したように、心は主から離れているのです。    

  しかし、その時こそ、主に立ち返りたいものです。その時こそ、主の御声に耳を傾けていきたいものです。ダビデは、孤独でした。彼の置かれている空間はいつも荒野であり、暗闇でした。私たちもそのような状況に置かれることがあります。しかし、私たちには現在、聖書が与えられており、聖書を通して主の御声に耳を傾けることができるのです。その時こそ、自分の心の中で言うのではなく、主ご自身に対して、その思いをそのまま聞いていただき、主のみことばを待とうではありませんか。

  その時こそ主は、あなたの心の声を主に向けることを願っておられるからです。

  今日は土曜日です。明日の主の日の備え日として、ぜひ、あなたの心の声を自分にではなく、主に語りかけて見ませんか。あなたの心の声を主に聞いていただきませんか。

  主は必ずあなたの心の声を聞き届けてくださり、ダビデ詩篇で告白したように、「私は苦しみの中で主を呼び求めわが神に叫び求めた。主はその宮で私の声を聞かれ御前への叫びは御耳に届いた」と確信することができるからです。

 

  あなたの今日の歩みに主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが豊かにありますように、お祈りします。