のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 「岩の上に家を建てた人」 マタイの福音書7章24~29節

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序論
 今日の箇所をもって、このマタイの福音書からの説教を一度終わりにします。その理由は、今日の箇所で「山上の教え」が終わり、イエス様が山から下りられるからです。
 そういう意味でも、今日の箇所はこれまで語られてきた教えの結論部分であると言えます。先週も結論だと言いました。それは、先週の箇所と今日の箇所は当然繋がっているからです。
 山上の教えは非常に豊かな教えが述べられている箇所です。だから、短く区切って読むこともできます。でも本来イエス様は、たくさんある色々な教えを、まとまりなく語っていたのではありません。また、この福音書を書いた使徒マタイも、何のテーマもなく思いついたことを記してはいません。特に、5章から7章にわたって語られた、この山上の教えは筋が通っています。それは、天の御国にふさわしい人とはだれかということと、その天の御国の国民に選ばれた人はどのように生きるのかということが、はじめから終わりまで通して語られてきたからです。
 ですから、今日、私たちもイエス様の弟子であるならば、その結論に耳を傾けたいと思うのです。また、まだイエス様を信じる決心がついていない方も、今、あなたが生きている意味がここにあるということを知っていただきたいと思います。

 

1. 聞いて行う
 ではもう一度24~25節を読みましょう。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」
 私たちは、イエス様のことばを行っている人でしょうか。そうなら賢いとイエス様は言われています。
 イエス様は、この「だから」という言葉から、これまで語ってきたことを受けて仰っていることがわかります。文脈上、13節の「狭き門から入れ」からのお話だという読み方もできます。当然それはあるでしょう。でも、それだけではなく、イエス様が5章3節から語られてきたこと全てをもって「だから」だということもできます。それは次のイエス様のことばにも表されています。
エス様は言われました。
「わたしのこれらのことばを」
 このフレーズは26節でも全く同じように使われています。「このことば」とは言わずに、「これらのことば」と言われていることが大切です。またそれだけでなく、このイエス様の教えを記録したマタイ自身が、28節でこう言います。
「イエスが『これらのことば』を語り終えると」
 マタイはあえて、イエス様が語られた「これらのことば」と同じフレーズを用いて、「これらのことばを語り終えると」と言っているのです。どんな話を語り終えたのか。それは、狭き門の話だけでなく、5章から続いている山上の教え全体ということになります。
 ですから、この「だから」はこれまで仰ってきた全てのお話の結論だと言えるのです。そこで、最後にイエス様が仰っていることは何か。それが「わたしのこれらのことばを聞いて行う」ことだということです。大切なのは、「イエス様のことばを聞いて行う」ことなのです。
 ここに天の御国に選ばれた者の本当の生き方があります。神様の恵みによって、天の御国に入れられた私たちは、イエス様のことばを聞いて行う。これが恵みとして与えられているということです。それは義務のような、そうしなければならないことではありません。もし、そうならそれはまだシナイ山で与えられた十戒の律法の枠の中にいます。でも、イエス様が語られたのは、イエス様のことばを聞いて行える自由がそこにあるという喜びなのです。
 どうして、そんな喜びがあるのか。それが先週から言っているように、見出すものはまれであるはずの狭い門なのに、そこを通らされていることがどれだけ素晴らしいことか。こんな罪深い私をただで通してくださった、赦してくださった。そのことを恵みとして感謝するか。当たり前とするかが問われているということです。
 もし恵みに押出され、感謝に溢れて、イエス様のことばを行うならば、その人が岩の上に家を建てた人に比べられる。ここでようやく岩の上に家を建てた人が出てきます。この比較で面白いなと思うのは、イエス様の「ことばを聞いて行う」は現在形なのに、「岩の上に家を建てた」というのは過去形だということです。イエス様のことばを「行った者」ではなく「行う者」がということ。それは原語のギリシャ語の現在形には継続の意味も含んでいますので、「行い続ける者」が「岩の上に家を建てた人」だということです。しかも、まだ行うことが継続中でありながら「建てた」と言い切っているところが絶妙です。
 どうして、もう建てたと言っているのか。しかも言い切っていても完了形ではないのです。それは神の国の特徴がそこに現われているからだと言えます。現在、この世界に神の国は来ているけれども完成していない。でも、そこに置かれている以上、どんなことがあっても倒れない。それは、もう建てられているから。一見矛盾のように見えますが、そうではない。神の国は確かにイエス様の降誕とともに来ている。それと同時に、もう一度来られるイエス様の再臨によって確立するのです。
 同時に、私たち個人もイエス様を信じたならば、私たちのからだは神の国となります。イエス様も言われました。「神の国はあなたがたのただ中にある」と。ですから、みことばを行い続けることイコールどんなことがあっても倒れない、流されないと言う事ができるのです。それは、岩なるキリストにしっかり繋がったからです。
 ここで洪水とか風が吹くとかがあるというのは、この地上におけるクリスチャンたちの生き方を言っています。まだ完全なかたちでの神の国が来ていないので、洪水のような、嵐のような試練が訪れるということです。その試練の中でも、みことばを行おうとするならば、それはキリストに土台を下ろしていることなので動じることはありません。それは岩なるキリストに根を下ろしているからこそ、そのことばを行うことができるからです。
 でも、どうしても、みことばを行いなさいと言われると、私は緊張します。それは、そうしたいけど無理だなと思うからです。でも、イエス様は、そんなこと百も承知で言われているのです。だから思い上がらないで、心を貧しくして、弱さを認め、罪を告白し悔い改める。そうすることで狭い門から入ることができます。
 だからいつもイエス様に繋がっていないと駄目です。イエス様に根を下ろして、キリストに根ざして歩まないと力をいただけないのです。これが今年の白石教会の道標聖句です。
 皆さんは、どうでしょうか。喜んでイエス様のことばを行う者とされているでしょうか。

 

2. 聞いても行わない
 ここで、もう一つの選択もあるとイエス様は言われます。それが26~27節。
「また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
 もう一つの選択は、イエス様の「これらのことばを聞いて行わない」という自由です。先ほどの行う者との違いは「行うか」「行わないか」です。しかし、共通点はあります。何でしょうか。それは、ともに「聞いて」いるということです。同じイエス様の言葉を聞いている。ここまでは同じです。しかし、ここが重要です。
 なぜならば、信仰は聞くことから始まるからです。先週の金子先生のメッセージで「信仰は聞くことからはじまる。聞くことはキリストについてのみことばによる」とお聞きしました。まさに、みことばを聞くことは大切なことです。
 私たちもいつもみことばを聴いています。これは恵みです。なぜなら、この神のさばきが秒読み状態の中で、福音を聞くことが許されているからです。今は恵みの時、今は救いの日であるとパウロは言っていますが、まさに恵みのゆえに今このように礼拝をささげ、日々聖書をとおして神の御心を知ることが許されているのです。その状況をまず理解するならば、このみことばを聞くということ自体が驚くばかりの恵みであることに気がつくはずです。だから、ここで聞いて行わないという選択はしないはずなのです。主の民とされた恵みに圧倒されて、黙ってはいられない。恵みに応えたい。これが福音に生きる神の国に入れられた者の姿です。
 しかし、この26節にあるように「聞いてそれを行わない」方を選ぶときに、ひどい倒れ方を味わうことになるのです。それは同時に神様のご支配を拒否するということだからです。
 27節の言葉は25節とほぼ同じ言葉です。違うところは26節で否定形であることだけです。起こっている災難は同じものです。つまり、みことばを行う者も行わない者も、この世にあってはどっちが特別に災難に遭うとか遭わないということはなくて、どちらも不幸もあれば良い事もあるのです。しかし、大事なことは何でしょうか。
 どこに根を下ろしているかで、まったくその後の様子が違うということです。キリストに繋がっているなら、その災難の責任は主が負ってくださるでしょう。しかも、その災難は試練として、私たちの霊的な訓練として用いられるのです。しかし、主に繋がることを拒否するならば、そこに神様は介入できないのです。それは、聞いて行おうとしない私たちの意思に問題があるからです。そうすると災難は災難でしかなく、不幸は不幸で終わってしまうのです。倒れ方が酷かったというのは、そういうことです。この地にもたらされた罪の呪いを呪いとしてまともに受けてしまう。それは神がそうしたのではなく、人間が神の恵みを拒否して、自分の自由意志で選んだ結果です。
 神様の祝福への招きは続いています。どんな不幸をも恵みに変えることができるお方である天の父に立ち返ることを願って、その狭き門は今も開いているのです。そこからどうするかという恵みのボールは、今あなたに投げられています。あなたはそのボールを受け止めて素直に投げ返すでしょうか。それとも無視するでしょうか。いや、せっかく受け取っているにも関わらず捨てますか。
 
3. 権威あるお方のことば
 最後に山上の教えを締めくくるにあたって、福音書記者マタイは、このように書き残しています。28~29節
「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。」
 イエス様の教えに群衆は驚きました。それは律法学者たちのようではなく、権威ある者のように教えていたからでした。当時の律法学者たちの教え方は、自分の信仰の確信に立って語るものではなく、権威ある先輩たちの注解を参考にした解説に過ぎませんでした。しかし、イエス様はご自身の権威によって聖霊によってことばを語りました。それを完全な神として語り、また完全な人として語りました。みことばを注解書頼みの理解ではなく聖霊の導きの中で得た確信の中で語るということです。それは現在も説教者たちに受け継がれています。私も注解書から学ぶことも多いですが、注解書によって解説はしません。礼拝は、神学の研究発表の場ではありません。むしろ、聖書から聖霊の導きの中で得た感動と確信と理解の中で語っています。注解書は自分の理解や解釈が大きく外れていないか確認するために使う参考書です。今は、聖霊が注がれていますから、聖霊の導きによって語ることを前提として備えています。それはディボーションも同じです。聖書から浮き上がってくる主のみことばを読み、そこで教えられていることを思いめぐらします。解説書や注解書は、あとで読んで自分の思いの足りないところを補い、さらにみことばを味わいます。
 イエス様も神の御子として完全な人として権威ある者のように教えました。「これらのことば」が権威ある者として語られたということです。そのみことばはこのあと使徒たちによって使徒の教えとして受け継がれていきます。初代教会には使徒預言者という、現代の教会にはいない役目の人達が主の啓示を受けて権威あるものとして語りました。では、どうして、今、使徒預言者がいないのでしょうか。それは最後の啓示である新約聖書が完成し、旧新約聖書66巻が権威ある神のことばとして確立したからです。だから、今は牧師など教える賜物が与えられた兄弟姉妹が聖書から聖霊に導かれて「これらのことば」を教える務めがあります。それは、聖書の主の権威によって、誤まりなき神のことばとして伝え、主の群れを正しく導き、養う責任があるからです。

 

結論
 私たちは5ヶ月かかって、この山上の教えを聞いてきました。でも当時イエス様のお話はおそらく1時間以内で終わったと思われます。先日、マタイの福音書5章から7章までを少しゆっくりめで読んだら何分になるか計算しました。何分になったでしょう。それは約30分でした。単純計算で30分で終わるお話を区切って5ヶ月もかけて読むので、皆さんも疲れたでしょう。
 でも「これらのことば」をまず聞くこと。つまり聞き続けることは大切なことです。イエス様の教えは聞いた人が、そのことばに動かされてみことばを行う者とされていきます。その繰り返しの中で信仰生活は進んでいきます。
 山上の教えは、まず罪を悔い改めてへりくだる者が天の御国に相応しいと始まりました。その結びは、イエスのこれらのことばに従いなさいということでした。つまり、イエス様は、へりくだらされ続ける大切さと、従順にみことばを行う者とされていく恵みの階段を上って行く祝福を説いているのです。行いによって義とされるのではありません。既に与えられている恵みを受け取って、その恵みに感謝をもって答えていく歩み。これがクリスチャンだということです。
 信仰生活は神様とのキャッチボールです。神様がいつも投げてこられる赦しという恵みのボールを受け止めて、素直に感謝というボールで投げ返す。でも、ときどき、かっこつけて高ぶってカーブとかフォークボールが投げたくなります。そこで失敗します。神様には届きません。それでも、その失敗したボールをイエス様が拾いに行ってくださり、神様に私たちの代わりに投げ返してくださる。そしてまた、神様はいつものように私たちの胸にめがけて正確に恵みを投げ込んでくださる。その繰り返しです。
 もし、感謝が湧かないのであれば、もっと神様のきよさに触れる必要があります。そうすれば、おのずと自分の罪深さ、醜さがあらわにされます。こんな罪深い私のためにイエス様が犠牲になった。そこに感動を覚えるはずです。もし、感動を覚えず、はっきりと確信をもてないならば、求めてください。捜してください。たたいてください。そうすれば聖霊が注がれます。聖霊に満たされるならば、主イエスの心を我が心として歩むことが出来ます。その歩みを続けようとするならば、行おうとし続けるならば、もうあなたの中に神の国が建てられたとイエス様は権威をもって宣言します。
 あなたと言う家は、今どこに建っていますか。何を土台にしていますか。ぜひ、今週も権威ある主のことばに聞いて、聖霊の助けを受けながら、喜んで行う者として立ち上がっていきたいと思います。

 

祈り
恵み深い天の父なる神様。今朝もみことばを与えてくださり感謝します。マタイの福音書として半年、山上の教えとして5ヶ月間みことばに聞くことを許してくださりありがとうございます。今日で一度、マタイの福音書を離れますが、どうかイエス様がガリラヤの漁師たちに語られ、弟子とされてあなたのみことばを聞いて行う者とされたように、私たちをもつくりかえてください。どうか、日々「これらのことば」であるイエス様のことば。神のことばである聖書から日々お語りください。その権威ある御声を私たちがまずよく聞くことができるように導いてください。そして、聞いたならば喜んで行い続ける者とならせてください。どうか主がもう一度来られて御国が完成するまで、揺るがないあなたにしっかりと繋がっていられるように守ってください。
都合で今日集えなかった兄弟姉妹の上にも特別にあなたからのお恵みがありますようにお願いいたします。礼拝を感謝して貴い主イエス様の御名によって祈ります。

●今日のみことば: マタイの福音書 23章25節

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"わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、内側は強欲と放縦で満ちている。"

「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。」

  主イエスは、マタイ23:13〜29の中でこの言葉を繰り返し繰り返し、これでもかというほどに用いています。

 その中でも今日は、25節のことばに注目したいと思います。それは、外側をよく見せても内側は汚れているということは、人間社会の中でもよく言われていることだからです。

  同じ意味のことが、27〜28節でも言われています。

"わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ。
同じように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ。"
マタイの福音書 23章27~28節


 イエス様は「わざわいだ」と言われます。何がでしょうか。それは律法学者やパリサイ人そのものがわざわいなのではなくて、「偽善」であることがわざわいだと言われているのです。

  偽善とは何でしょう。このもともとの言葉は、役者、俳優を意味する単語が用いられています。仮面をつけて演じる人のことです。つまり、中身がないのに正しい人を演じているだけなら、意味がないことを伝えています。しかし、更に問題なのは、律法学者やパリサイ人というのは、当時のイスラエルの政治・宗教で指導的立場にあった人たちであったということです。

  イエス様は彼らについてこのようにも言われていました。

  "わざわいだ、目の見えない案内人たち。"マタイの福音書 23章16節

  それはどういうことでしょう。それは神の国へ導く案内人であるはずなのに、案内人自身が霊的に盲目だと警告しているということです。それはこのようになるからです。

  "彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」"
マタイの福音書 15章14節

  それは、本来ならば正しく人々を導く立場にありながら、強欲と放縦によって人々を混乱させ、正しい道に導けないだけでなく、いっしょに穴に落ちる。つまり地獄へ落ちるとまで言われているのです。

  神が愛してやまない一人ひとりを御国に導くために置かれた彼らが、かえって人々を御国から遠ざけている。彼らに与えられた責任の重さがここにあるのです。

  私も牧師という立場に立たされながら、御霊ではなく、強欲と放縦で行なっているなら、同じようにイエス様から叱責を受けなければなりません。

  これは、牧師に限らず、教会でリーダーに召されている全ての人への警告です。ここで、自分とは関係のない話だと読み飛ばすなら、それは大変なことを招くことをよく心して置かなければならないのです。

  イエス様がなぜここまで厳しく繰り返し繰り返し「わざわいだ」と叱責されているのでしょうか。

 それは、その背後に明らかにサタンが立っているからです。

  "蛇よ、まむしの子孫よ。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができるだろうか。"
マタイの福音書 23章33節

  イエス様は彼らのことを「蛇よ、まむしの子孫よ」と言われました。それは、あの創世記3章で神である主が、蛇に対して言われた言葉に繋がっています。

"わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」"創世記 3章15節

  イエス様は、偽善の律法学者、パリサイ人をこの蛇の子孫、サタンの子孫だと言っているのです。しかも、そこに敵意を置いたのは他でもなく神である主ご自身であるということ。

 ここに、イエス様の厳しいお言葉、厳しい姿勢のもう一つの意味があるのではないでしょうか。

  偽善の背後にあるサタンの陰謀に加担してはいけません。蛇の子孫、まむしの子孫となってはいけません。

  あなたも女の子孫、主イエスを通して生まれ変わった者として生きるために招かれています。石ころからでもアブラハムの子孫を起こせるお方は、蛇の子孫に加担している者をも女の子孫へと立ち返らせることがおできになります。

  要は、偽善をやめ、すべての罪を悔い改めて、へりくだってその祝福への招きを受け入れることです。

  イエス様は律法学者たちを見捨てて繰り返し厳しいことを仰っているのではありません。彼らにある責任の重さを認識させるとともに、その厳しいみことばで目が覚めて、主の下に悔い改めることを望んでおられるのです。

  なぜならば、主は全ての人が滅びることなく救われることを望んでおられるからです。

  

"主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。"
ペテロの手紙 第二 3章9節

 

"ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。"
使徒の働き 3章19節

 

"もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。"
ヨハネの手紙 第一 1章9節

" 御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。"
ヨハネの手紙 第一 1章7節b

  

   

 

●今日のみことば: マタイの福音書 23章12節

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"だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。"

  どんな人も誰かよりも上の立場にいたいと思うのではないでしょうか。私も会社員のときに、仕事で会う相手が自分よりも年上か年下かをよく気にしていたことを思い出します。もし、年上なら敬語を使い、年下ならばタメ口になるというようなことがありました。人を見て自分の立場を守ろうとしていたのです。

  

   イエス様の周りにはいつも弟子だけでなく、群衆に紛れてパリサイ人や律法学者たちもいました。

  彼らの宗教者としての態度は立派なものであったようです。規則正しく律法を守ることを大切にしていたからです。ただ、その多くは外見上の立派さであり、それを行う理由も神を愛し隣人を愛してそうしていたというよりも、むしろ人からの賞賛や尊敬が彼らの求めていたものだったのです。そのことをイエス様は、報いを自分で受け取っていると言われていました。

 

"ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。"
マタイの福音書 6章2節


 

  彼らの善行は人前で吹くラッパのようだと言われます。それは、本来、神のため、また人のための奉仕は、誰にもわからないようにすべきなのに、人に分かるように目立つように行うからです。

  そういう彼らは、先生と呼ばれることに快感を覚え、また有力な人を持ち上げて父と呼んで、目にかけてもらうことを期待したようです。

  イエス様はそういう彼らを引き合いにして、弟子たちに対してチャレンジを与えています。自分を低くすることへの挑戦です。

 

"あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。"
マタイの福音書 23章11節

 

  今日のことばはまさに、とことん謙遜を身につけること。その必要を知るように求めています。

  弟子たちは度々、弟子たちの間で誰が一番偉いかということを議論していました。しかし、主イエス様は、偉い人になる。つまり、人の上に立つ者になることを望んでいるならば、かえって人に仕えなければ、誰も従って来ないし、リーダーの資質として相応しくないと言われたのです。

  誰でも人よりも一段高いところに自分をおいて安心するという気持ちがあると思います。

  しかし、大切なことはどんどん自分を低くすることであり、神の国はそのような者たちのものだと言われた通りです。

"ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。"マタイの福音書 18章4節

  イエス様ご自身が、その模範となって最もへりくだってくださいました。神の御子が貧しい大工の家庭に生まれて、都会ではなく、誰からも蔑まれている場所で育ちました。

  その主は、こう言われています。

 

"わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」"
マタイの福音書 11章29~30節

 

  真にへりくだっているお方なので、ご自分のようになることを教えるために、「わたしは柔和でへりくだっているから」とあえて仰っているのです。そして、そのくびきは負いやすいと言われています。

  今日、この主のへりくだりから学びましょう。主の歩まれた、へりくだりの道を歩ませていただきましょう。

 そうすればたましいに安らぎが与えられるのです。

 

"何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。"
ピリピ人への手紙 2章3~11節


 

●今日のみことば: 「生きている者の神」マタイの福音書 22章23~33節

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"その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
そして最後に、その妻も死にました。
では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」
エスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。"

 

  サドカイ派という、死者の復活を信じないグループの人たちが、復活についての矛盾と思われることをイエス様に尋ねました。

  それは、律法に従って何度も結婚と死別を繰り返した女性の復活後の立場はどうなるのかということでした。律法にはもし女性の夫が死ねば、その死んだ夫の兄弟が、その女性を娶り兄の家督を継ぐことが定められていたからです。

  

"兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。"
申命記 25章5~6節

 しかし、イエス様の答えは明解でした。それは、そもそも、復活のときには婚姻関係の必要がなく、誰の妻だとか誰の夫だということは、まったく問題ではないと仰ったのです。しかも、律法を用いて、聖書で伝えている復活を信じようとしない解釈について、こう言われました。

 

"イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。"
マタイの福音書 22章29~30節


 イエス様は、そんな屁理屈のような解釈で復活がないことを証明しようとするのは、そもそもが聖書をきちんとバランスよく読まず、神ご自身の力すら信じていない証拠だと言われたのです。

  しかも、サドカイ派の人たちが正典としていたモーセ五書だけ読んだとしても、そこで繰り返し語られている「アブラハム、イサク、ヤコブの神」というみことばから、彼らが神の御許で今も生きていることが明らかであると仰せられたのです。

"『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」"マタイの福音書 22章32節

  これらの問答は、サドカイ派の人々がイエス様を試すために行ったことでしたが、逆にサドカイ派の欠点を指摘して、彼らの言い分にこそ矛盾と不信仰があることを証明したのです。

  私たちも聖書を正しく読み、神さまというお方を聖書が示すとおりに信じていなければ、このイエス様の言葉が私たちにも言われていることとして受け止めなければなりません。

  私たちは自分の価値観や自分の願望を先立たせてしまって聖書を読みたくなる誘惑があります。神は愛だというところだけを強調して、さばきや滅びに関しては触れないということを目にすることがあります。

  聖書で、創世記から黙示録まで貫かれている、人間の罪の問題と、それに対する血による贖いの救済という狭き門を無視して、イエス様のように歩むことだけに強調点を置いて、門を広げようとしていることも耳にします。

  罪の指摘と悔い改めが、聴く人に不快な思いを与えることがよくないという考えから、そう考えるのでしょう。

  しかし、聖書を正しく知り、神の力であるイエス様による十字架の贖いと復活を知るなら、そこに真の救いがあることを思い知らされるのです。

  今日もイエス様は、私たちに語られています。

  神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神ですと。しかも、それは聖書と神の力を正しく知り、信じる中で与えられる理解であるということです。

  私たちも聖書を毎日バランスよく読み、そこに啓示されている神様の姿を正しく受け止めたいと思います。その神様ご自身を生活の中で感じ、体験していくところに、イエス様の似姿にさせられていく信仰者の生き方があるからです。

  

 

讃美歌271番「いさおなき我を」

  私は、旧讃美歌271番をよく口ずさむ。色々な讃美歌集に別訳で選ばれているが、個人的には旧讃美歌の歌詞を好む。

  キリストが私の罪を負って十字架に架かり死んでくださった。こんな惨めな、穢れた私を御許に招いてくださる。何という恵み、何という憐れみ。決してただではない。御子のいのちが差し出されたのだからというメッセージを覚えるからである。

  私が生きるために御子のいのちが代価として支払われた。この恵みに今日もすがり、従うものとされたい。

 

◎讃美歌271番「いさおなき我を」

作曲は①William B. Bradbury、
作詞は②Charlotte Elliott による。

原題は“Just as, I am without one plea”。

他の日本語賛美歌集については、教会福音讃美歌299番「小羊なる主の招きにこたえて」、聖歌271番「ほふられたまいし」、新聖歌231番「勲なき我を」、讃美歌21-433番「あるがまま我を」などで長きに渡り、改訳され採用され続けている。

 

  アメリカのビリー・グラハムクルセードでは、この賛美歌が長年、招きのときに使われ、多くの決心者が起こされるために用いられた。

 

1 作曲者 William B. Bradbury(ウィリアム・ブラッドベリー)1816~1868

  アメリカの有名賛美歌作曲家であり、ニューヨークにあるバプテスト教会オルガニストでもあった。多くの賛美歌を世に広めた。私たちにとって馴染み深いのは、教会福音讃美歌では、52番「主、我を愛す」“Jesus Loves Me”,303番「かいぬしわが主よ」“Saviour, like a shepherd lead us”などがある。この曲は、もともと “The God of Love Will Soon Indulge."という賛美歌につけられたものであったが、“Just as,I am without one plea”に結び付けられてからは、大いに歌われるようになった。

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2 作詞者 Charlotte Elliott(シャーロット・エリオット)1789~1871

  イギリスの賛美歌作詞家で、英国国教会の信徒だった。彼女は、この歌を書く何年も前、どうすれば神を見出せるのかと牧師に尋ねた。そして、「ありのままの自分で、神のところに行きなさい」と助言されると、その言葉に従い、後年、病気の失意と闘っていたとき、キリストの御許に行って自分の罪が赦された日のことを思って “Just as ,I am,without one plea”を書いたと言われている。

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●今日のみことば: サムエル記 第二 10章3節

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"アンモン人の首長たちは、主君ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとにお悔やみの使者を遣わしたからといって、彼が父君を敬っているとお考えですか。この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来を遣わしたのではないでしょうか。」"

  統一イスラエル王国を確立したダビデ王は、アンモン人の王ハヌンに家来を遣わして、かつての恩に報いようとしました。しかし、アンモン人の長老たちはダビデ王のその厚意に対して、疑いをもち、心を頑なにし、ダビデが遣わした使いたちに恥をかかせて、ダビデの厚意を踏みにじったのです。

 

  頑なな心は、アンモン人たちならびにそれを支援する者にも、結局は不幸をもたらすことになったのでした。疑いや恐れは、無駄な血を流す結果となったのです。しかも、ダビデから遣わされた家来たちに対する侮辱はダビデへの侮辱であり、頑な心がもたらす行動全てが歪んでいることがわかります。

 

  頑なな心について聖書はこう言います。

 

"幸いなことよ、いつも恐れる心を持つ人は。しかし、心を頑なにする者はわざわいに陥る。"
箴言 28章14節

  ここで、幸いなのは恐れる心を持つ人だと書いてあります。これは主を恐れる者ということです。しかし、心を頑なにする者はわざわいに陥るのです。

 

  アンモン人たちは、心が頑なであったためダビデから差し伸べられた和睦の機会を逃して自らをピンチに追いやったのです。私たちも信仰を失い、頑なな心になるなら、主のからの恵みを受け取れないばかりか、滅びをもたらす結果となるのです。

 

アンモン人たちがすべきことは、ダビデを通してもたらされた神の愛と恵みを、素直に受け取ることでした。

  今日私たちも、主を恐れ、主を愛することを求めてまいりましょう。大切なことは、先に与えられている主からの恵みに素直に感謝して受け取ることです。それを信仰と言います。

  神からの恵みを受け取る。それが信仰です。その信仰を神は喜ばれるからです。

  

"信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。"
ヘブル人への手紙 11章6節