のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●2019年12月24日 イブ礼拝 

説教題「クリスマスの主役はイエス・キリスト
聖書 マタイ2:9~11

 
 すっかりサンタクロースばかりのクリスマスが街には溢れていますが、クリスマスの主役はイエス・キリストです。

 

 イエス様がお生まれになったころ、東の国の博士(学者)たちは空に輝く不思議な明るい星を見つけました。「何だろう。あの星は。」博士たちは、いろいろ調べて「ユダヤ人の国に偉大な新しいお王様が生まれたしるしである」という結論に達しました。それで博士たちは「さあ、王さまを拝みに行こう。」とらくだに乗って旅に出かけました。当時の旅はとても危険だし、簡単ではありません。でも博士たちはいのちをかけて新しい王様を拝むために心に決めたのでした。何か自分たちの利益になるからという動機ではなく、自分の財産やいのちを賭けても価値あることとして出かけたのです。


 長い旅をして、ようやくイスラエルの首都エルサレムに着きました。そこで「ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいますか」と声が当時のイスラエルの王さまだったヘロデ王にまで届きます。ヘロデは、その知らせを聞いて恐れたことはひた隠しにして、博士たちには、もしわかったら教えてほしいと願い、さも信心深いかのように振る舞いました。自分も行って拝むからと。しかし、その裏には「自分を差し置いて新しい王様なんてとんでもない。きっと殺してやる」という陰謀があったのです。ヘロデは主役を奪われることを恐れたのです。


 一方、新しい王様がベツレヘムにいることを知った博士たちは、ヘロデのもとを立ちます。そしてベツレヘムに向って行くと、これまで博士たちを導いてきたあの明るい星が照り輝いているではありませんか。それが、博士たちには、その下にイエス様がいらっしゃるというしるしだったのです。
 その星を見て、博士たちはどうしたでしょうか。それはこのことばです。
その星を見て、彼らは「この上もなく喜んだ」のでした。
 この上もなくというのは、特別な表現です。普通の喜びではない。尋常じゃない喜びに満たされたということです。原語を直訳すると「喜んで喜んだ」となります。とても言葉で表すには限界がある表現なのです。しかし、そのくらい嬉しかった。博士たちは、まだイエス様に会っていないにも関わらず、もう喜びがこぼれるくらい嬉しかったのです。これが、イエス様を信じた人のしるしです。真の神様に出会う。この神様を信じて礼拝する生活には、あふれるほどの喜びが与えられます。これが、イエス様が来られた理由です。暗い世界に喜びを与える。暗い人生に希望を与える。これがイエス様です。

 

 この世界は、争いに満ち、また悪がはびこり、権力者はその権力を神様からいただいていることを忘れて、自分の金もうけや保身のために利用しています。罪が見過ごされて、子供たちの将来に希望の持てない時代に入っているのではないでしょうか。
 このときのイスラエルヘロデ王がそうでした。自分の王座を守るために妻や息子さえも殺し、厳しい掟がある国なのに、その罪が見過ごされていました。なぜでしょう。それは、その後ろにはローマ帝国があり、ローマ皇帝がいて、ローマ帝国の属国であるイスラエルの支配のためにヘロデを利用していたのです。ヘロデもそのローマ帝国の力を利用して、エリコという町に冬の宮殿(別荘)を建てるとか、「桜を見る会」(それは安倍首相)とか、好きなことをやっていました。でも民衆、特に宗教指導者たちから文句が出ないように、エルサレムの神殿にお金をかけて大きく立派にする工事をしていました。戦艦大和を造ったり、東京オリンピック開くのと同じです。そのように民衆の関心ごとを自分の悪事から反らすのです。そして羊飼いのように弱い立場の人たち、東方の博士たちのような外国人を差別して蔑み、社会の格差を生んでいました。そういう人たちは力がないので文句が言えないのを良いことに、しわよせの犠牲にしたのです。今の日本と全く同じです。まさに、そのような、絶望的な、この世の闇、暗黒の中にキリストは来て、その最も弱い立場の人たちを、世界で初めのクリスマス礼拝に招いてくださったのです。


 そして、今日、ここでも神様は私たちをこの礼拝に招いてくださいました。それは、私たちも力がなく、今の社会のしわよせを受けている者たちだからです。抗議をしても届きません。しかし、どんなに人の目に絶望と思えることがはびこって、暗闇に見えても、大切なことは何でしょうか。それは、私たちのために来てくださった主なるイエス・キリストを信じ続けること。その私たちの暗闇を取り除くためにイエス様が代わりに本当の暗闇を味わってくださった。それが十字架の死です。天のお父様から見捨てられる。これこそ真の暗黒です。真の光であるお方が、真の暗黒を経験された。だから、イエス様が十字架にかかられたときに、全地は暗くなったと聖書は証言しています。
 しかし、そのキリストは三日目に復活され、天に帰られ、もう一度、この世界に来ると聖書は預言しています。それは、信じている私たちを救うために来るのです。クリスマスはまさにこのキリストの誕生だけでなく、もう一度来られる主の日に備えるときなのです。このろうそくの火は雰囲気づくりのものではありません。イエス様という真の光が来られたことで、この光が世界を作り変え明るくする。私たちを明るくする。罪から救いへ、死からいのちへと広がることを象徴しているのです。
 博士たちは、もともとは神でないものを神として拝んでいた人たちでしたが、イエス様を自分の人生の主役であると信じて、この上もない喜びの人生がはじまりました。

 ぜひ、今年のクリスマス。あなたも、博士たちのように心の中心に、あなたの人生の主役としてイエス様をお迎えして、この上もない喜びの人生を味わおうではありませんか。

●今日のみことば: ナホム書 2章13節

 

"「見よ、わたしはおまえを敵とする。──万軍の主のことば──おまえの戦車を燃やして煙にし、若い獅子を剣が食い尽くす。おまえの獲物を地から絶やし、おまえの使者たちの声はもう聞かれない。」"

聖書 新改訳2017

 

 聖書には聞きたくない言葉もたくさん書いてあります。恵みや祝福の言葉は聞きたい、読みたい言葉ですが、さばきや滅びの話は聞きたくない、読みたくない、知りたくないです。

 しかし、神様があえて厳しい言葉を語られることは、そうならないようにあらかじめ知らせてくださっているということなのです。そうでないなら、言葉を語らず、伝えずに、無言で滅ぼすはずだからです。 

 ですから、聖書に記されている厳しいみことばは警告として真摯に受け止め、そのようなことにならないよう、主の前に自己吟味して、誠実に歩めるよう祈りましょう。

 今日のみことばは、当時のイスラエル王国の脅威であり、事実、イスラエルを滅ぼし、イスラエルの10部族を離散させたアッシリア帝国に対するさばきのことばです。

 主は預言者ナホムによってこれを語り、警告を与えました。一度、預言者ヨナを遣わしてニネベの町が救われたことはありましたが、その主の憐みを忘れて、神の民を滅ぼしたのです。

 そこには、恵みを忘れ、自らの罪を悔い改めず、悪を繰り返す者への神の怒りが表されています。しかも、この言葉は大変重いです。なぜなら、神の敵とされるという、そこには神から切り捨てられるという絶望しかないからです。

 このようなことにならないためにも、いつも神の前に正直に罪を告白し、神との関係を正しく保たなければなりません。神から愛されている恵み、赦されている恵みをしっかりと覚えてまいりましょう。

 そのために、御子キリストが神の愛とさばきの印となってくださいました。キリストがあなたの代わりに神の敵となって神のさばきを受けられたのです。その恵みを恵みとして受け入れるなら、あなたは神の敵とならずに、神の子どもとなる特権が与えられて、永遠の祝福に入れられます。

 しかし、その神の御子が犠牲となった恵みすら忘れ、聞かずに自己中心に生きるなら、自ら神の敵となる道を選んだことになります。

 だから、そうならないために神は警告をあたえつづけるのです。これを脅しと受け取らないでください。神は脅して、怖がらせて救おうとはしていません。かえって恵みを示して、憐みを与えて、そこにとどまることを願っているのです。

 それを忘れて滅びることになったのはアッシリア帝国の罪です。

 今日、私たちも神のことばに込められた私たちへの愛と恵みを受け取って、愛されている者としての感謝を捧げて参ろうではありませんか。

 主はあなたを失いたくない。愛しているからこそ、厳しいことばも語られているのですから。

 

「わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
ヨハネの黙示録 3章19~20節
聖書 新改訳2017

 

●2019年12月17日「神とともに歩むこと」

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ミカ書 6章8節

"主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。"

聖書 新改訳2017

 

  信仰生活は形式に陥りやすいものです。神を礼拝することは、そもそも神によって祝福の立場へと招かれ、その恵みに与っているに過ぎません。私たちの功績によるものはいっさいありません。一方的な神の恵みだからです。

 罪人が赦されて聖なる神に受け入れられている奇蹟なのです。

 

 しかし、たとえば主を礼拝する恵みも毎日、毎週続くと感謝が薄れて、自分が自分の意思で来ていると、当たり前になって来るのです。そうなると礼拝はマンネリ化して、そこで為される一つひとつの業が、かたちだけのものになり、喜びが失われて、ただ礼拝行為を嫌々ながら、または何も考えないで、行っているに過ぎなくなるのです。それは、そこに高慢な心があるからです。自分の力で祝福を得ているかのような傲り高ぶりは、信仰とは真逆の態度です。神が求めているのは、「ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだる」ことです。

 

 預言者ミカは、その形式的な礼拝を戒め、主が何を求めておられるのか。主が喜ばれる礼拝とは何かを示します。このことばは、以前に預言者サムエルがサウル王に告げた言葉と似ています。

 

サムエル記 第一 15章22節

"サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。"

 今日、もう一度、主への愛を確かめたいものです。毎日のディボーションも、祈りもみことばを聴くこともかたちだけならば喜ばれません。また、かたちを守っていることで、何か自分が信仰生活を正しく行なっていると自負しているなら、それもまた吟味が必要でしょう。

 

 かたちだけの夫婦生活を喜ぶ夫婦がいるとしたら、それは実に病的な状態でしょう。同じように、主への愛が枯れていないか点検しましょう。もし枯れていたなら、もう一度、父が御子を与えるほどにあなたを愛しておられることを聖霊によって受け止めることが出来るように祈りましょう。

 神への愛は、神から愛されていることを抜きにしては始まりません。

 あなたのために、なされた御子イエス・キリストの犠牲は、あなたへの真の愛の証しだからです。神とともに歩むとは、神に愛されていることを受け取り、私たちも神を愛して歩むことなのです。

 

"私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。"
ヨハネの手紙 第一 4章10節

◎説教題 「まことの光であるキリスト」

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●聖書箇所 

ヨハネ福音書1章1~5節、9~14節

 

序論
 今日の箇所は、イエスという人が、本当は神様なのに人間の姿をして来られたのだと伝えている箇所です。ここはとても大切な部分です。一人の人間が正しい行いを続けた結果神になった。または神とされたのではないのです。もともと、初めから神であるお方が、見えるかたちで人間となって来られた。ここをまず抑える必要があります。それでヨハネという人はとても上手に神であるイエス・キリストをまた別な言葉を用いて表しているのがわかるでしょうか。つまり、ことばが神であるといいながら「人の光、まことの光」とも言われています。
 今日は、ことばがまことの光であるという表現に注目しながら、キリストというお方が私たちにとってどんなお方なのか。人間なのか、神なのか。そして、そのキリストに対して、私たちはどう信じていくべきなのか。あらためて、そのことを一緒に見ていきたいと思います。
 
1.ことばであるキリスト

1~3節を読みます。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
「初めに、ことばがあった」聖書の突破締めには創世記があって、そこにも「初めに」と書かれています。しかし、創世記の「初めに」とヨハネ福音書の「初めに」の違いはわかるでしょうか。創世記の方の「初めに」は、神様が人間を創造するにあたって天と地を創造した時間的な「初め」を表しています。ある意味、永遠である神様が時間をも造って、その流れの中で最初に天地を造られたということです。しかし、ヨハネ福音書の「初めに」はそれとはまったく違う次元です。もし、ここの「初めに」が天地創造と同じレベルの「初めに」だったら、神のことばであるキリストがいなかったときがあることになります。しかも、ここをきちんと読むと、「初めに、ことばがあった」と書いています。それは、ことばは初めからあったということです。ここの「初めに」は「ことばは、初めからおられた」という意味なのです。
 だから、神のことばであるキリストは被造物(造られたもの)ではなく、神ご自身なので天地創造の「初めに」の前からずっとおられたということです。ことばは神のことばですから神とともにありました。神が「光あれ」とことばによって光を造られたのは、神が造ったということであり、神が神のことばによって造ったということです。つまり、神のことばは神ご自身であるということです。
 そして2節で、もう一度「この方(つまりキリスト)は、初めに神とともにおられた」とキリストが神と別な人格であることを言いつつ、3節では、でも天地創造を行った神ご自身であったことを証言しています。「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」ここは、明らかにおひとりの神が複数の人格を持っているということです。
 ですからキリスト教会では、三位一体という重要な言葉があります。これは、神様はおひとりだけれども三つの位格があるという意味です。位格というのは人格のような意味です。神様はお一人だけれども三つの人格をお持ちだということ。それは父なる神、子なる神、聖霊なる神です。では、人格が分裂しているのかというとそうではありません。神様として一人でありながら、三つの在り方、働きがあり、それぞれに生きた人格があり、しかし、それらは完全な愛によって一つに結合しているのです。神ご自身がこのようなお方なので、私たちにも完全であることを求められます。つまり、互いに愛し合って平和に、一つとなることを聖書が強調しているのは、神ご自身がそのようなお方だから、もともとその神のかたちに造られた人間にそのように回復することを求めておられるのです。そこが聖書を通して神の三位一体についてわかる僅かなことです。「僅か」と言ったのは全部を完ぺきに知ることはできないということです。なぜならば、不完全な人間に完全な神のすべてを理解することは不可能だからです。だから神様は聖書を人間に与えて、聖書を通してご自身を私たちが理解できる範囲において明らかにしておられるのです。だから、三位一体という概念もすべて理解できなくても、聖書にはそのように神様が表わされていることとして受け入れる必要があります。
 
2.まことの光であるキリスト①
 その三位一体の神様の第二位格である子なる神、神のことばであるキリストのご性質として、このヨハネ福音書を書いたヨハネは、続けてこのように証言しています。4~5節。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
 ここでヨハネはキリストにいのちがあった。このいのちは人を生かす光で、闇の中に輝いている。そして、結果的に闇はこの光であるキリストに負けたと言っています。これは、イエスの弟子であるヨハネが3年半のイエスとの伝道生活、そしてその後の聖霊を受けて歩んだ数十年の信仰生活の中で経験したことを証ししています。
 イエス様もご自分でこう言われました。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなくいのちの光を持つのです」
この言葉もこのヨハネ福音書に記録されている言葉です。
 イエス様が光であるというのはどういうことでしょうか。そして、そのイエスに従う者が、「いのちの光」を持つとはどういうことでしょうか。9節を見ると「まことの光」だと言われています。それは創世記で「光あれ」と言われたときにできた光ではない、まことの光です。本当の光です。だから、私たちが知っている太陽の光や蛍光灯の光は、ある意味本物ではないということです。でも、本物の光であるキリストのご性質を私たちが知るために近くに置かれています。その性質は、闇の中で輝くということです。イエス様が闇の中に来て輝くお方。
 では闇とは何でしょうか。それは、第一にこの世界を闇ということができます。先週もお話しした中村哲さんというクリスチャンの医師は病死ではなく、ある人から銃で撃たれて死にました。中村さんが何をしたから殺されなければならないのでしょうか。彼はアフガニスタン人のいのちを救うために医師として、井戸を掘り、用水路を造っただけです。銃で殺されるようなことは一切していません。しかし、この世界というのは、そのような理不尽の連続の中で動いています。政治家の汚職は見過ごされ、権力を持ったものが国民の税金を自分のために使っていても、だれも止められない。そして、低賃金の人は低賃金のまま、若い人が結婚して家庭を築くことが難しい時代が続き、まさに将来に夢を持てない時代と言われています。お先真っ暗、人生は闇です。
 こんな世界にキリストはまことの光として来られました。それは、その闇を照らし、その目に見える状況にとらわれてがっかりしないで、あなたを愛し、あなたに本当の幸せを与えてくださる神を明らかにするために来られたのです。イエス様には暗いところが少しもありません。まことの光はこの世界を明るくします。そしてそれだけでなく命を与えるものです。暗くがっかりしている者に生きる希望を与え、事実、その人生に意味を見出させ、自分のためというよりは神のために生きるようにされるのです。それが具体的には人のために尽くすことに繋がっていきます。そのためにキリストご自身が、神を愛し、隣人を愛する模範を示されました。それがこの地上における私たちの目標です。もし、キリストに心を向けるならば、必ず私たちの人生は明るくされ、この闇と言われる世界に合っても輝いて生きることができるのです。中村哲さんだけではありません。キング牧師マザー・テレサも荻野吟子も、みんないのちの光であるキリストを信じて、そのキリストが生きたように生き、キリストが死んだように死に、そして最後はキリストが復活されたように復活するのです。その復活が実現するのはこれからです。キリストがもう一度来られたときに実現すると聖書に書いてあります。
 これがこの闇に来られたキリストが光であるという第一の意味です。
 
3.まことの光であるキリスト②
 しかし、このキリストをどのように信じれば、私たちもいのちの光をいただいて、生き生きと神を愛して、キリストが生きたように生きられるのでしょうか。キリストが神であるということを信じるだけで良いのでしょうか。キリストが2000年前に実在していたということを信じれば良いのでしょうか。また聖書を読んで、イエス様が言われた教えをその通り守ることでしょうか。しかし、その通り頑張ろうとしても、簡単でないことに気づかされます。
 その答えは9節以降に書いてあります。もう一度9節に注目してみましょう。
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
 先ほどは「まことの光」に注目してここまで、その光であるキリストについて見てきました。しかし、そのキリストを信じるとはどういうことかが分からないと、本当の意味で闇は闇のままなのです。そこで、この9節にもう一つ大切な言葉があります。何でしょう。それは「すべての人照らす」という言葉です。キリストという光は、この世界という闇を照らす光であることは間違いありません。まさに世の光だからです。しかし、それだけではありません。キリストは人を照らす光だと、ここでヨハネは証言するのです。人を照らすとはどういうことでしょう。
 みなさんは光を照らされたいですか。よく女優さんがテレビに出ると、周りの人以上に顔が光って見えます。それは美しく見えるためのスタジオの照明が当たっているからです。それは女優さんが自分の顔に自信があるけれども、それ以上に視聴者に更によく見せる効果があるからです。自信のない人はカメラすら向けられることが嫌なはずです。それは照らされることで自分にとって嫌な部分がばれてしまうことを恐れるからです。イエス様という光も同じ働きがあります。しかも、まことの光なので、うわべ以上に内面も明らかにされてしまいます。そのことを受け入れるか。これが最も大事なキリストを信じるということの第一歩です。
 つまり、私たち自身の隠しておきたいこと。その内側の闇を、キリストを知ることによって示されるのです。その隠したいことは、私たちの罪です。罪の性質です。嘘をつくとか、人を悪く思うこと、人のものが欲しいことなど、心に抱く多くの汚れた罪が私たちの内側には詰まっており、それを隠そうとする闇が覆っています。そこがつまり神のことばであり、神のまことの光であるキリストに触れることで示されます。しかも、それらの汚れた思いが自己中心であり、それは神から離れて生きていることに問題があるからだとわかってきます。そのときあなたはどうするでしょうか。
 今から2000年前にイエス・キリストが来られた最初のクリスマスではどうだったでしょうか。そのことをヨハネはこのように伝えています。10節~11節。
「 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」
 神であるキリストは、ご自分がお造りになった人々のところに来てくださっった。でも世はキリストを知らなかったとあります。知らなかったとは、気づかなかったという意味もありますが、認めなかったという意味でもあります。来られたことはわかりつつも、このお方をキリストとは認めなかった。それを「御自分の民は受け入れなかった」とヨハネは言っています。これは、イエス様とずっと一緒に生活してきた弟子として、その受け入れらていなかった事実を書いています。
 確かにイエス様の降誕は、一部の人しか知られていませんでした。だから、生まれた場所は家畜小屋だったのです。それは宿屋すら彼らのいる場所がなかったからであると聖書は言います。そして、大人になって宣教の旅に出られてから、確かに多くの人々がイエス様を取り巻き、ついてきました。しかし、その人たちは自分の思い通りになる王様を求めていただけで、単に利用しようとしていた人たちでした。弟子すらイエス様を見捨ててみんな逃げたのです。そして、つばきをかけられ罵声を浴びつつ鞭打たれ、ボロボロにされてキリストは十字架にかけられます。その様子をヨハネは見ていました。誰も、神様が求めておられるように、ご自分が送った御子キリストを受け入れないのです。みんな自分の都合に合わせてイエス様を利用したのでした。これが「御自分の民は受け入れなかった」という意味です。
 それは、キリストによってもたらされたきよい生きかた、その聖なる光に醜い自分が照らされて困ったからです。だれも自分の醜い罪は認めたくありません。かえってそのことがばれることを恐れて抵抗します。天地創造のとき、罪を犯したアダムとエバが腰に覆いを作った上で、さらに神から隠れようとしました。それは罪の恥をさらしたくないからです。その罪を隠す性質が私たちに受け継がれています。だからイエス様を知って示される罪の問題よりも、先ほど触れた、この世界の闇における部分だけを強調して、そっちの方が大事だと言うのです。
 確かに先ほどまで触れていたこの世が闇であり、その闇を照らすキリストということは大切です。しかし、そのように生きるためには、この私たちと神様とを分断している罪の問題を解決しなければならないのです。それが闇に来られた光であるキリストの第二の意味です。
 
結論
 大切なことは、すべての人を照らすまことの光に照らされることを恐れずに、むしろ照らされて神の前に出ることです。ありのままの罪深い自分を認めて、そのキリストの光の中で悔い改めることです。これが、キリストを受け入れること。信じることの本当の意味です。その罪をきよめるために来られたキリストの十字架が私たちの身代わりであった。神の罰をキリストが受けてくださったと受け入れるならばどうなるでしょう。12節。
「 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」
 「しかし」今度は信じたあなたが罪赦されて神の子どもとされる。これがキリストに照らされるもっとも大切な意味です。神の子どもとされた人は、今度は聖霊なる神様によってイエス様のようにきよく生きられるように、造り変えられていきます。そうすると、今度はキリストの光に照らされることが喜びになります。そのキリストの光を聖霊ということもできます。それは神の子どもとなったあなたを通してキリストの光が周りに照らされるためです。もはや、私たちは闇ではなくなり、神のこどもとして、キリストのいのちの光を照らす人生に変えられるのです。これが、キリストを信じる。キリストに従うということです。キリストを信じて、この地上でその生涯をかけて世の光として務めを果たした方々は皆、ここを通って神の子どもとされ、そのように生き抜いたのです。
 クリスマスの主は、今、そのことをあなたに求めています。あなたを照らすこのまことの光を受け入れて、神の前に出るか。それとも、2000年前の人たちのように、この方を受け入れない側に立つのか。今年のクリスマスが、あなたにとって神の子どもとなる本当のクリスマスとなりますようにお祈りします。

◎説教題 「マリアへのお告げ」 聖書箇所 ルカの福音書1章26~38節

2019年12月8日 礼拝

 

序論
 二本のろうそくに火が灯りました。今日は、アドヴェント第2主日です。アドヴェント待降節)は救い主イエス・キリストを待ち望むという意味があります。イエス・キリストはこの世界を照らす真の光、神ご自身が見えるかたちで来られた救い主です。そのイエス様のご降誕はもう2000年も前に過ぎたことですが、キリスト教会では4世紀頃から、このクリスマスを覚えて、もう一度来られるイエス様のことと合わせてこの時期を過ごします。それで、ろうそくに毎週一本ずつ火を灯して、少しずつ明るくなってくることを目で確認しながら、世の光であるイエス様が来られるのを待つのです。
 今日、注目するのはマリアです。ローマ・カトリック教会などでは聖母マリアと呼ばれているくらい有名人です。それは救い主イエス様を産んだ母親として尊敬されているからです。
 これまで私の説教では創世記のアブラハムという人のお話を読んできました。でも教会歴(教会のカレンダー)ではクリスマスシーズンに入りましたので、今日はマリアのところからお話をします。でも決して、アブラハムとマリアが無関係なわけではなく、むしろ関係は大有りです。なぜならば、このマリアはアブラハムの子孫だからです。それがイエス・キリストに繋がっています。
 聖書は、約1300年の間に時代も住む場所も職業も違う40人以上の人たちによって書かれた66巻の本の束ですが、打ち合わせをしていないのに、不思議と一本の筋が通っています。それは、救い主イエス・キリストについて書かれているということです。ですから、これまでの創世記の延長線上に、このルカの福音書があり、そこにイエス・キリストがはっきりと示されているのです。アブラハムへの神様の祝福の約束は、イエス・キリストによって成し遂げられるのです。それが救いです。だからクリスマスは大きな意味があるのです。罪の呪いから祝福へ。死からいのちへ。絶望から希望へと新しくされる喜びを伝える日だからです。だから、そのキリストを待つことに大きな希望を抱かずにはいられないのです。
 今日は、そのキリストの母となったマリアのことを一緒に見てまいりましょう。マリアに御使いが現れたのはなぜか。つまりどうしてマリアが選ばれたのか。そして、そのマリアは信仰者としてどうだったのか。その姿から、いっしょにみことばに聞いていきたいと思います。
 
1.   処女マリア
 さて、マリアがイスラエルガリラヤ地方という、日本でいうと北海道のようなところに住んでいました。北にあるド田舎のことです。
 そこでさらに神様はアブラハムの子孫とは言ってもたくさんいる中から、マリアを選んで、そこに御使いを送りました。26~27節を読みます。
「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」
 御使いガブリエルがマリアのところに来ました。天使もいっぱいいたと思いますが、名前まで紹介されているのは珍しいです。しかし、この聖書、ルカの福音書を書いたルカは、それよりも注目点を別に示します。それは「ひとりの処女」ということです。あえて初めから「マリアのところに」とは言わず、「ひとりの処女のところに」と言い、27節で「この処女は」と強調し、その人がマリアだったと記しています。どうして「処女である」ということを強調しているのでしょうか。それは不妊の女性が妊娠するよりもさらに困難な現状を伝えようとしていると見ることができます。結婚していれば、たとえ年をとっていたとしても夫婦であれば妊娠する可能性はゼロではありません。しかし、マリアはそれ以上に結婚すらしていない女性です。このときマリアは12歳から15歳くらいと言われています。それは当時では一般的な結婚できる年齢であったということですが、まだ結婚していません。
つまり処女であった人が結婚する前に神様の力によって身ごもり、そこからイエス・キリストがお生まれになる。ここに大切な意味があるのです。
 これは教会が始まってから19世紀まで疑う人はいませんでした。処女マリアが神様の霊である聖霊によって妊娠して、イエス様を産んだ。
しかし200年くらい前から聖書を自由に解釈する人たちが現れました。聖書のどうもここが信じがたい。だから、マリアの処女懐胎は、昔の偉人にありがちな伝説であって、事実はヨセフかローマ兵かだれかによって妊娠したのだろうと言います。でも、これは大変、誤った解釈です。それは、イエス様は100%神ご自身であり、100%罪のない人間として生れる必要があったからです。それは私たちの罪を贖うために大切な神の業でした。奇蹟でした。しかし、19世紀以降、聖書の中の奇跡的な部分をそのまま受け取ることをやめて、自分の理解の中に閉じ込めて自由に読むことを始めた人が現れました。それが牧師だったので多くの影響を教会に与えていきます。その結果、救いが曖昧になり、生きた神のことばも空しいものにすり替えられてしまいました。ですから、必然的に罪の問題は神話的解釈から生まれた古い教えとして退けられ、イエス様も単なる優れた偉人、立派な教師にされてしまったのです。
 しかし、そうであってはいけません。私たちキリスト教会はキリストの教会ですから、神のことばである聖書を軽んじてはなりません。聖書に「処女マリアから救い主が生まれた」と書いてあるならば、その通り受け取るべきです。なぜならば、このマリア自身が「おことばどおりこの身になりますように」と聖書にある神のみことばのとおりになることがどれほど最善で、最高なのかを指し示しているからです。
 イエス様が乙女マリアから生まれたことは使徒信条でも毎週告白されています。だからこそ、キリストが罪のない清い方であることを受け入れることができるし、だからこそ罪人である私たちの身代わりになることができたのです。死刑囚は死刑囚の身代わりにはなれません。イエス様は罪のないお方だからこそ十字架に神の救いがあるのです。イエス様こそ、すべての人の救いを成し遂げるために遣わされた救い主です。マリアが処女であるということにルカがこだわっているのは、この事実こそキリスト教会にとって譲れない大切な教理のひとつだからです。
 だからこそ、御使いガブリエルはそういう神の御子、救い主を身ごもることになったということを「祝福だ」とマリアに告げたのです。「おめでとう。恵まれた方。」まさに、この挨拶が神様からマリアへの祝福の言葉でした。しかも、それは「主があなたとともにおられます」という、これまでもアブラハムにもイサクにもヤコブにも、主が選んだ信仰者たちに神様が語って来た約束でした。
 
2.  マリアの信仰
 ところが、マリアの反応が興味深いです。29節。
「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」
 ここでマリアはひどくとまどったとあります。何にとまどったのか。私ならば、御使いが現れたことにとまどいますが、マリアは「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」とあります。
 私はここで、これまで創世記のアブラハムのところを読んできたという文脈で、この御使いガブリエルの登場と、アブラハムのところに来た、あの3人の旅人が重なります。御使いというと白く輝いているイメージですが、もしかしたら普通の人の姿で現れたのかも知れません。それで、そのお客のあいさつに戸惑ったのではないかと思うのです。
 もしかしたら、このルカの福音書を書いたルカは、創世記のあの場面を意識していたのかも知れません。それはこのあとを読んでいくと、もっとわかってきます。
マリアは御使いガブリエルの訪問を受けて、食パン100枚は作りませんでしたが、御使いが語る言葉を聞きました。30~33節。
「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。』」
 ガブリエルが語ったことは、まず、この出来事は神の恵みだということです。恵みと言うのは、それを受けるに値しない者がいただくことを恵みと言います。その恵みとは、皆さんは既にこのマリアの生涯を知っていますから、その人生が良いことばかりではなかったと思わないでしょうか。それは、生まれてくる息子イエスは、33年の人生をまさに自己犠牲の歩みをし、最後は逮捕されて、鞭打たれ、十字架に磔にされるというリンチを受けたからです。自分の息子が大ぜいの人にいじめられている姿は、絶対に見たくない出来事です。でも御使いガブリエルはマリアに、その人生すべてが恵みだとここで言っているのです。それは、間違いなく、彼女を通して生まれたイエスによって、ユダヤ人だけでなく世界中の人たちが同じように神の恵みを受けるようになるからです。
 先日、アフガニスタンで活動していた医師の中村哲さんが銃撃に合い亡くなりました。彼はバプテスト教会のクリスチャンで、生前このように言っていました。「生きていること自体が与えられた恵みなのだ」と。その言葉通り、中村哲さんは、その恵みを自分のためではなく、アフガニスタンの人々のために用いて死んだのです。その死は、神の恵みを生きた中村さんを通して、リアルに神の恵みに生きる人生の尊さを教えています。
 やはりマリアも、イスラエルの小さな村にいた一人の処女でしたが、全人類の救いのためになくてはならない存在として選ばれた。これこそ、やはり大きな恵みでしょう。
 しかも、そのマリアを通して生まれる子どもこそ、旧約聖書でずっと預言されていた救い主キリストだったのです。
 32節に「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」とあるのは、彼、すなわちマリアを通して生まれる子が、かつてダビデに主が約束されたメシア(救い主)のことであると言っているのです。マリアはユダヤ人ですから聖書を知っています。ガブリエルのこの言葉が、あのダビデ王に約束された聖書のことばのことだとピンと来たはずです。でも、マリアには常識的な疑問がありました。34節
「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』」
 マリアにとって、自分が結婚前の身でありながら、どうしてそんなことが起こり得ようかと正直な気持ちを告白しました。
 するとこの場面が、やはりサラが笑った、あの場面と重なってきます。不妊の女であったサラに「来年には子どもが与えられている」と言われて、サラは笑っちゃいました。そんなことあるわけないでしょと。同じような場面でマリアはどうするか。マリアも笑うのか。いいえ。マリアはこっそり笑うよりも、正直に不安な自分、信じ切れない自分のことをガブリエルに打ち明けました。
これがマリアの信仰その1です。素直に信じ切れない自分を打ち明けること。この素直さが信仰には大切です。信仰者ぶらない。信じていないのに信じている風に振る舞わない。昔、ダビデの時代に、サウルという王様がいました。今、ちょうど水曜の聖書研究会で学んでいるところです。このサウルという王様の言動は一見信仰者っぽいのですが、それがうわべだけであることが、段々とばれていきます。それはサウルにとって信仰とはイスラエルの王様として、民から信頼されるために必要な道具であったからです。自分をよく見せるために使う道具です。
でも、それは信仰を持っているという私たちにも起こりうることではないでしょうか。
 特に信仰歴が長くなるとクリスチャンらしく振る舞うことに慣れてきます。それが真の信仰に裏打ちされた姿なのか、表面的に取り繕っているのか。それは神様しかわかりません。あとは自分で気づかされて、素直に告白するかどうかです。本当はどうなのか。うわべを取り繕ってかたちだけのクリスチャンになっていないか吟味が必要です。大切なのは、このマリアのように不信仰なところを隠さず述べて、神の前にさらけ出すことです。
 そして、マリアの信仰その2は何でしょうか。それは38節です。
「マリヤは言った。『ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。』こうして御使いは彼女から去って行った。」
 マリアは「ほんとうに、私は主のはしためです」と言いました。この言葉は、48節のマリアの賛歌と呼ばれる預言でも使われています。これが、マリアの信仰です。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」と、自らを低く、小さく弱く愚かな者であることを主の前に告白しているのです。マリアはどうしてこのような告白に導かれたのか。もともと謙遜な女性だったとも言うことができるかも知れません。しかし、この37節のガブリエルの言葉に大きな意味があると思います。
 
結論
「神にとって不可能なことは一つもありません。」
アブラハムにも、あの旅人の姿をした主はこう言いました。「主に不可能なことがあろうか」
 ここでもあのアブラハムの場面と重なります。神に不可能はない。それは、神は全能であるという宣言です。あのアブラハムにかつて語られたエルシャダイ(全能の神)という神の名前を思わせる、神の聖なるご性質に関わる宣言です。この宣言の前にマリアは自分の弱さ、小ささ、それだけでなく罪深さを知らされ、そういう自分が浮き彫りにされたのではないでしょうか。
ここが信仰者として最も大切なことです。聖なる神の前に自分の汚さがわかること。愛である神の前に愛のない自分が明らかにされること。義なる神の前に嘘偽りの多い醜い自分がはっきりと照らされることです。そして、それを隠さず認めて、主の前に告白することです。
あなたはどうでしょうか。立派な信仰者として自分をアピールするでしょうか。自分がこれだけのことをやってきましたと、豪語するでしょうか。自分は大丈夫だと言うでしょうか。それとも、神の前に罪深い自分を認めて、私は主のはしためですとへりくだって、しかも、主のみことばの通りになることを願うでしょうか。
 これから、もう一度来られる主は、このマリアのようにへりくだって罪を認めて、神のことばにより頼む者を招いています。今日、ここに来ている皆さんが、主に招かれ、呼ばれて来ている一人ひとりです。ぜひ、マリアのように低くなって主の恵みを受け取ってください。そうするならば、あなたの人生がどれほど神の恵みで満ちているかが見えてきます。不幸に思える歩みに見えても、そこに不可能を可能にすることのできる全知全能の主が立っておられるのです。
 
祈り
「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」
愛する天のお父様。御子イエス様は、処女マリアを通して罪穢れのない姿でご降誕くださりありがとうございます。それによって、私たちの真の救い主として十字架で身代わりの死を遂げてくださいました。そして、その死から三日目に復活させてくださり、今もなお、父の右に立ち私たちのために執成していてくださり感謝いたします。その主がもう一度来られると約束があります。どうか主よ。このマリアのように、自分の信仰を飾らず、またあなたの前にへりくだって、あなたのお言葉通りになることを願うものとならせてください。どうか、私たちの心を点検してください。あなたからのお招きに信仰をもって答えていくものとならせてください。

「福音を文脈化してはいけない」水草修治牧師の神学ノートより。https://ameblo.jp/caelnouta/entry-12552592896.html

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。」(1コリント9:20,21)
ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです。」(使徒20:21)

 

 宣教に関して「コンテクスチュアライゼーション」という英語があります。コンテクストは文脈ですから、「文脈化」です。「福音をある文化の中に住む人々に伝えるにあたっては、福音を、その人々の文化にコンテクスチュアライズしなければならない」と語られます。けれども、聖書に照らすと、もう少し丁寧に考えるべきです。 

 パウロは、ユダヤ人に福音を伝えるために、彼らに無用なつまずきを与えないために豚肉を食べないことなどユダヤの律法を守る生活をしました。また、ギリシア文化圏に属する人々に福音を伝えるためには、彼らと同じものを食べました。つまり、福音を伝える器であるパウロの生活の仕方を文脈化したのです。ハドソン・テーラーが清の時代の中国人に福音を伝えるために、辮髪(べんぱつ)にしたというのも同じです。

 他方、パウロは、自分が伝えた福音のメッセージは、相手がユダヤ人だろうとギリシア人だろうと同じだったと言明しています。すなわち、「神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰」です。人は正義の審判者である神の前に有罪であるから悔い改める必要があり、十字架で私たちの罪を背負って死んでよみがえられた主イエスを信じなければならないということです。つまり、パウロは伝道者である自分の生活の仕方はコンテクスチュアライズしましたが、福音のメッセージはコンテクスチュアライズしなかったのです。

 現代日本の文化の中に生きている人たちに、知恵を尽くして工夫をして伝道することは良いことです。けれども、「新しい福音理解」とか「現代日本人にマッチした福音理解」「日本的キリスト教」などといって、福音のメッセージの内容をすり替えてはいけません。「神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰」は時代も文化も超えて不可変のメッセージです。(日々のみことば2019年11月号に掲載)

 

「契約があらわすキリスト」ロバートソン著

第10章 モーセ―律法の契約(アウトライン)
 
序論 モーセとの契約は、キリスト教界の歴史において議論を起こしてきた。
 古代マルキオン主義(旧約聖書の権威を否定)を受け継ぐものは現代にも息づいている。
→聖書解釈の歴史において息の長い問題のひとつ。
 
1.現代の聖書批評におけるモーセ契約の位置づけ
モーセ五書文書資料の起源と展開に関する歴史的批評的観点からの議論が続いているが、   
 近年の様式史批評研究によって、五書がモーセ時代のものであることが主張されるよう 
 になっている。この点について、二つの議論の展開を以下に示す。
 
 ①五書文書資料とヒッタイトの条約(五書文書資料とヒッタイトの宗主権条約との関係 
  を認める研究が増えている)
ヒッタイト帝国の古代文書の中から条約の文言が見つかっている
→その資料のうち重要なものはBC1400~BC1200まで遡る。
 《条約形式に用いられる必須要素》を確認することができる。
 a.征服側の君主たることを宣言する前文。
 b.宗主側のこれまでの慈悲行為に力点を置いた歴史的序文。
 c.こころからの忠誠を求め、特定の行動を定めるために、詳しく記された条文。
 d.臣下と宗主それぞれの神の神殿に、複製された条約文書を正式に保管するべきことを  
定めた条項。
 e.多くの場合無生物に対しておこなわれる証の要請。
 f.契約厳守を求め、のろいと祝福がもたらされることを述べる文。
 
モーセ契約と驚くほど似ている。(申命記の概略とヒッタイト条約形式の古典的かたち)
申命記全体が、モーセの時代には既に現在のかたちになっていたことを認めざるをえな
 い。
 
 ②五書資料と「申命記史家」(もうひとつの学派が、申命記が現在のかたちになった時代
  をほぼ千年ほど後代にしようと試みている)
マルティン・ノート→申命記からⅡ列王記までひとつのかたまりであり、現在のかた  
 ちになったのは、捕囚期のことであるとしている。
 
👉しかし、ヒッタイトの古典的契約形式が発見されたことで、現代の聖書学に、ひとつの 
 重要な流れが加わった。
 
2.モーセ契約の神学的な重要性
モーセ時代の神との関係は、律法関係ではなく契約的な関係の上に築かれている。
ヒッタイトの条約形式:法的条項が働く歴史的文脈が意識されていることが、モーセ時代を理解するうえで基礎的事象である。~律法はつねに契約の広範な概念に対して副次的なものである。
→律法の契約が啓示された時代の歴史的文脈を知ることで明確にされる。
アブラハム契約から出エジプト》既に契約関係に入れられていたイスラエル国家は、神によるエジプト捕囚からの解放という歴史的事実を通して、イスラエルの主としての神と出会い、契約が与えられた。
∴契約は律法に優先する上位概念である~外的な法的条項を定めることは、契約の結びつきを確かなものとする一つの手段である。
 
3.モーセ契約の特徴
  (民とかかわりあうために、神が取ったほかの手段とどのように異なっているか。)
               
モーセ契約は、神の意志を具体化したかたちにまとめたという点に特徴がある。
・物理的に書物としてはっきりと示された。
・外形的なかたちで、正式に秩序だてられまとめられた。
・聖書:出エジプト34:28、申命記4:13、9:9、11→石の板に刻まれた。
・「律法」とは、神の意志をまとめて外形化したもの。
→律法の契約と特徴づけられる。
   ↓
 「わざの契約」と混同してはならない。
「わざの契約」は神と罪のない人間との間で結ばれたもの。
「律法の契約」は罪あるひとに対して与えられたものであるので代理贖罪が欠かせな
い役割を担う。
・神はイスラエルアブラハム契約におけるめぐみの約束によってエジプトから贖い 
 出したからこそシナイに集めた。
→「律法の契約」はそれ以前の契約の延長上にあり、決して以前の契約を無効としない。
 ∴「律法の契約」は神が「あがないの契約」の豊かさを次第にあきらかにしていく中で紐 
 解かれた新しい段階を示すもの。
 
 ◇特徴を持つモーセ契約を、聖書神学の考え方のうちに位置づけるために見るべき三点。
(あがないの歴史における律法の契約の位置づけ)
 ①あがないの計画全体との有機的結びつき
 ②あがないの計画全体との発展的結びつき
 ③イエス・キリストのうちにある完成
 
①あがないの計画全体との有機的結びつき
有機的な関係
→それぞれが孤立し区画化された関係ではなく、いのちあふれる生きた相互関係。
・律法はあがないの歴史を通じてつねに存在していたことをまず認める必要がある。
 
a.モーセ以前の契約においても律法は重要である
・アダムはひとを救う子孫が生まれるという約束を、いさおなしく与えられたが、その子孫が来るまでは、いのちをつなぐため額に汗して働かなければならない(創世記3:19)
・ノアは恵みに満ちた契約の核心的な部分として、人を殺すものに対する処断について神のみこころの宣告を受け取った。(創世記9:6)
アブラハムに対する「約束の契約」では、父の家を出て、心を傾けて主に従い、主の前を歩かねばならなかった。~こののちの出来事もまた律法の契約が存在していたことを示している。→割礼が証印の定めとして、それを表している。
b.律法はモーセ以後の契約すべてにおいても重要である
イスラエルにおける恒久的な君主制は、ダビデ契約の制定によって最終的に実現する。
→「彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる」
 (Ⅱサムエル7:14)
●律法の契約の定めがキリスト者に意味を持ち続けていることを示す証拠
(1)キリスト者は、いくどとなく神の律法を守ることによって、完全な祝福の状態に至るべきと勧められる。
→「みことばを行う人になりなさい。…」(ヤコブ1:22)
(2)義をおこなうことなく生きるキリスト者は、神によって懲らしめを受ける。
→「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから」(ヘブル12:6)
(3)キリスト者は、おのれのなしたおこないに応じて裁かれる。
→救いはキリストがなしたわざへの信仰のみによって与えられるが、裁きは、人の働きに応じて行われる。
 
②あがないの計画全体との発展的結びつき
a.モーセ契約はそれまでのあらゆる契約以上に進展している
(1)モーセ契約は民を国家としてまとめている。
(2)モーセ契約は包括的である。
(3)モーセ契約はひとを謙遜にする。
(4)モーセ契約は予型として重要性を持っている。
b.モーセ契約はあとに続くものに比べれば不十分である
・新しい契約のもとでは、律法の働きかたの特徴はその内的な性格にある。
→啓示が進展することで信仰者の実体験も進展する。聖霊によって。
パウロは新約の信仰者たちに、モーセ契約制定にまつわる三つの象徴を解釈している。
(1)モーセの顔の輝きの象徴について。
 ・モーセの顔の輝きはあくまで消え去りつつある輝き。
(2)モーセの顔の輝きが失われていったことの象徴について。
 ・栄光が去りつつあることをイスラエルの民に見えないようにするためだという意見。
(3)モーセの顔のおおいについて。
 ・モーセの顔の栄光が消え去りつつあることを隠すものであり、栄光がまぶしすぎるか
 らではないという考え方を強力に支持していることがわかる。モーセ契約は栄光に満ち
 たものだったが「新しい契約」はさらに栄光に満ちている。(出エジプト34:29~35)
 
イエス・キリストのうちにある完成(キリストは律法を破棄するためではなく、成就するために来られた)(マタイ5:17)
a.山上の垂訓においてイエスが新しい律法を与えるものであるとあかす。
b.変貌の山においてイエスモーセよりも偉大な栄光の姿に変わった。
モーセは律法の仲介者であり、神の家のしもべとして働く。
→キリストは、律法のみなもとであり、子として神の家を治める。
c.キリストにあっては、律法による罪の告発の力はすべて失われた。
→キリストがすべての義を成就した~律法の契約はイエス・キリストのうちに完成した。