日本メノナイト 白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎要約「神について」J.I.パッカー/山口昇訳

Ⅰ部 主を知る
1章 神についての研究
① 神を思うことは、心を謙遜にし、広大にすることと同時に、特に、心を慰めるものである。キリストのことを思うとき、あらゆる心の痛みはいやされ、神について黙想するとき、あらゆる悲しみは消え去り、聖霊の力により、あらゆる心の傷は痛みが和らげられる。
神という非常に深い海に飛び込め。(C.H.スポルジョンの言葉より)
② われわれが神に関して学んだ一つ一つを、神の御前で瞑想し、神に対する祈りと賛美へと導かれるようにする。

2章 神を知っている人々
① 神を知っている人々は、神の真理と名誉が、直接に、あるいは暗黙にさらされている状況を敏感に悟り、意思の力の欠如によって、事態をそのままにしておくことがなく、問題を人々に注目させ、それに対して心を変えざるを得なくさせる。
② 自分が神を知り、神が自分を知っていてくださることを心から信じ、また、この関係のゆえに、生きているときも、死んでも、永遠に、神の愛顧が保証されていると完全に確信している人が心の中に持っている平安ほど、すばらしい平安はない。
③ われわれがどれほど神を知らないかを認める。自己評価は、神についての知識や賜物や奉仕ではなく、神への祈りによって、その心にどのようなことが起こるかによってされるべきである。
④ 救い主を捜し求める。主を知ることによって、父なる神を知る。

3章 知り、そして知られる
① 神を知るにはどんな行為が含まれるか。
ⅰ.神の言葉を聞き、それを自分に適用する場合に、聖霊が解き明かしてくださるままに受け入れること。
ⅱ.神のみことばと、みわざが示すままに、神の本質とその属性に注目すること。
ⅲ.神の招きを受け入れ、神が命じられることを行うこと。
ⅳ.神がわれわれに近づいてくださり、、神の交わりの中にわれわれを導き入れてくださることによって示された、神の愛を認め、それを喜ぶこと。
② 神を知ることの強調点「神を知ることは…」
ⅰ.あらゆる人格的存在と直接知りあう場合と同様に、人格的関係の問題である。
ⅱ.知性と、意志と、感情とを含めた全人格的かかわりをもつこと。
ⅲ.恵みに関係のあること。
③ 究極的な分析によれば、最も重要な問題は、私が神を知ると言う事実ではなく、その底にある、もっと大きな事実…すなわち、神が私を知っていてくださるという事実である。

4章 唯一のまことの神
① 偶像に関する真理
ⅰ.偶像は神の栄光を傷つける。
ⅱ.偶像は人間を誤りに導く。
② われわれは、神がご自身について語り、われわれに教えてくださらない限り、神について知ることができない。
③ 聖書の神は、ご自身の御子を通してお語りになった。
ⅰ.主イエス・キリストの人格とみわざを、神の本質と恵みについての究極的真理を示すものとして、いつも見ているか。
ⅱ.神のすべてのご計画がイエス・キリストを中心として、そこに集中していると考えているか。

5章 受肉した神
  ① ベツレヘムで生まれた幼子は、神であった。
   a. ヨハネの証言。ヨハネ1:1~14
   b. ヨハネは、「ことば」がだれであり、何であるか(神としての人格であり、あらゆるものの創始者であること)を我々に示した後に、この「ことば」がだれであるかを示す。
   c. この「ことば」は、受肉した神の子であることが示されたとヨハネは語る。
   d. 聖書がイエスを神の子として宣べ伝えるとき、その言明は、イエスが明らかに神性を持っていることを意味している。
  ② ベツレヘムで生まれた幼子は、人となられた神であった。
   a. 神であり続けながら、人間であることを開始された。
   b. パウロが御子はご自身を無にし、貧しくなられたと言うとき(ピリピ2:7)、彼の心の中にあったことは、神としての力と属性をわきに置いたのではなく、神としての栄光と威厳とをわきへ置いたということ。
   c. 主が御自分を無にされ、貧しくなられたということは、主が自発的に(神の)力を制限されたことであり、困難や、孤独、ひどい取り扱い、敵意、および誤解を忍ばれたことであり、最後には、ご自身の心が迫って来る死を思うとき張り裂けるような苦しみ(単に肉体だけでなく、霊的にも)を含んでいる死をも意味している。
   d. それは、愛される価値のない人間を愛することを意味しており、人間は「キリストの貧しさによって富む者とな」った。

6章 御霊があかしします
  ①三位一体の神について、ヨハネは彼の福音書の冒頭部分で、一体の神の中の、二つ
のはっきりとした位格が区別されているという神秘を紹介している。
②我々の主は、さらに新しい助け主の名前を上げている。その方は「御霊」であり
聖霊」である。(よはね14:17,26)
③キリストが御霊の使命を、御父および御子の意思および計画と、どのように関係づ
けているか注目しなければならない。
  ④御霊は、御父によっても御子によっても遣わされるお方。(ヨハネ15:26,16:7)
  ⑤聖霊の働きについて言えること
   a. 聖霊がおられなかったら、この世には、福音も、信仰も、教会も、キリスト教も存在しなかった。
   b. 聖霊なしには、信仰もなく、新生もない―クリスチャンは存在しない。
  

Ⅱ部 あなたの神を見よ

7章 変わることのない神
① 神のいのちは変わることがない。
② 神の性質は変わることがない。
③ 神の真理は変わることがない。
④ 神の道は変わることがない。
⑤ 神の計画は変わらない。
神の御子は変わることがない。
  
8章 神の偉大さ
◎われわれが作り上げるべき、神の偉大さについての正しい考え方を、聖書はわれわれが取るべき二つの段階を教えている。
① われわれが神を小さくしてしまうような、神には限界があるという思想から離れること。
② われわれが偉大であると思っている力や威力と、神の持っておられる力や威力と比較すること。

9章 神こそ知恵ある方
 ①神の知恵は神の全能と結びついている。
 ②神の知恵についての聖書の記述。(ヨブ9:4、12:13、36:5、イザヤ40:26,28、ダニエル20:28)
 ③聖書時代に神の聖徒たちが歩んだ道を定められたあの神の知恵が、今日のクリスチャンの生涯も定めておられる。

10章 神の知恵とわれわれの知恵
 ①知恵はどこから来るのか。「主を恐れることは、知恵の始め」(詩篇111:10、箴言9:10)
 ②われわれが謙遜になり、教えを受けやすくなり、神の聖さと主権の前に立ち、われわれの小さきを認め、われわれの思想に頼らず、われわれの思いを自発的に方向転換するようにならない限り、神の知恵をわれわれのものとすることはできない。
 ③人は神のことばを受けることを、学ばねばならない。
 ④われわれに神が与えてくださる知恵を分析することによって、さらに神の知恵がどんなものであるかが、明らかにされる。
 ⑤神によって知恵を賜物として与えられることの効果は、われわれをより謙遜にし、より喜びに満たし、より敬虔にし、神のみこころに関して目ざとくなり、それを行うのにより堅い決意を抱き、堕落したこの世における我々の人生に満ちている、暗く苦しい事においても、以前ほど苦しまなくなる。

11章 あなたのみことばは真理です
 ①クリスチャンとは神のことばを認め、それに従って生きる者である。
 ②クリスチャンの目は聖書の神を自分の父として仰ぎ見、聖書のキリストを自分の救い主として仰ぎ見る。

12章 神の愛
 ①神の愛を知ることは、まことに地上にいながらにして、天国にいるのと同じである。
 ②「神は愛です」というのは、聖書においては、必ずしも神についての真理の全てではない。
 ③「神は愛です」というのは、クリスチャンにとっては、神についての完全な真理である。
 ④神の愛は、神のいつくしみの行使である。
 ⑤神の愛は、罪人に対する神のいつくしみの行使である。
 ⑥神の愛は、個々の罪人に対する神のいつくしみの行使である。
 ⑦罪人に対する神の愛は、神が罪人の幸福をご自分の幸福とすることを含んでいる。
 ⑧罪人に対する神の愛は、神の御子を彼らの救い主として与えられることによって表された。
 ⑨神が罪人を愛されることは、契約関係において、神を知り、神を喜ぶことによって、その目的を達成する。

13章 神の恵み
 ①人間は、自分自身が神のかたちから堕落してしまった被造物であり、神の支配に反逆し、神の目の前に有罪で汚れた存在であり、神のさばきを受けるに相応しい者であることを自覚していない。
 ②悪を行う者は神からいかなる当然の希望も与えられないどころか、かえって報いとしてのさばきを受けるという、この事実の正しいことを知り、感じない限り、神の恵みに対する聖書的な信仰に与ることはできない。
 ③神に対するわれわれの関係を是正し、神の愛顧を一度失ってから再び得ることは、われわれの力を越えたことである。そして、神の恵みに対する聖書信仰に与るためには、このことを知り、このことを認めなければならない。
 ④恵みは自発的なものであるという性質上、無代価であり、恵み深くなることも自由に出来る方から発したものである。各々の人間の運命を決定するのは、神がその人を罪から救うことを決意されるかどうかにかかっており、そして、これはいかなる場合においても、神がなさなければならない決断ではないということを知り時にのみ、聖書における恵みの概念を把握することができる。
 ⑤恵みは罪の赦しの源、救いの計画としての動機であり、聖徒を保持することの保証である。
 ⑥恵みを受けた人は、今後「良い行い」のために、自分自身をささげるべきであるとういうのが、われわれに示された、神の意思である。

14章 さばき主としての神
 ①イエスは審判者である。
 ②審判者は権威を持っている。
 ③審判者は、何が善であり、何が悪であるかを見分ける。
 ④審判者は、真理を見分ける知恵を持っている。
 ⑤審判者は、判決を執行する力がある。
 ⑥新約聖書の答えは、来るべきさばき主に、あなたの現在の救い主になっていただくように求めなさいということである。
 
15章 神の怒り
 ①現代の教会全体に行きわたっている習慣は、「神の怒り」についておろそかに扱っているということである。
 ②われわれの不幸の根本原因は、怒りという思想は、何らかの意味で神にふさわしくないという、心の平安を失わせる疑惑にある。
 ③聖書における神の怒りは、正義を行うための、審判者の怒りであるということ。
 ④聖書における神の怒りは、人々が自分自身のために選ぶことである。
 ⑤ローマ人への手紙における神の怒りは、罪を罰することによる、神の断固たる行為を意味している。それは、罪人に対する神の愛と同様に、三位一体の神の、人格的、感情的態度の表れである。
 ⑥あらゆるところに、クリスチャンの堕落が進行しており、神についての知識から、神でないものを礼拝するようになり、偶像礼拝からますますひどい不道徳へと陥り、その結果それぞれの世代が、「人々の不敬虔と不正」の実を新しく実らせている。
 ⑦イエス・キリストは、われわれの身代わりとして罪を背負って、十字架の上で死んだことによって、「私たちの罪のための、なだめの供え物」となられた。罪人であるわれわれと、神の怒りの雷雲との間に、主イエスの十字架が立っている。
 ⑧神の怒りは、神の完全性の表れであり、われわれはそれについて瞑想する必要がある。その心備えがあるか否かで、われわれの心がどれほど主に向けられているかが、はっきりとわかる。

16章 神のいつくしみと厳しさ
 ①「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(ローマ11:22)パウロは、「いつくしみ」と「きびしさ」という、神のご性質の二つの面に注目するように注意を促している。
 ②神のいつくしみを当然とは思わずに、すべてのことに感謝しなさい。
 ③われわれの人生の大部分が神にとって価値がないにも関わらず、神が忍耐しておられることを考え、その忍耐に驚き、学ぶことができるように、恵みを求めよ。
 ④神の憐れみ深い訓練によって、神のきびしさは、神のいつくしみという背景の中でわれわれと関連を持つということは、そのような背景を抜きにして、ただ神のきびしさの矛先を完全に受けなければならないことから、われわれを守るという意味がある。
 ⑤「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。」(ヘブル12:5)、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)

17章 神のねたみ
 ①神はすべてを要約し、神の御名についての啓示の締めくくりとして、主の御名は「ねたみ」であると語られた。
 ②聖書が語る神のねたみとは。
  a. 擬人的表現:人間生活から得た用語を用いて神を叙述すること。
  b.正当なねたみとは、愛の関係を保とうとする熱意から来るねたみであり、貪欲などの悪意に基ずくねたみとは違う。
c.神のねたみは、この世に対する神の全体的なご計画の光に照らして理解されなければならない。
 ③主の民にとって、神のねたみとは
  a.われわれが神に対して熱心になることを望んでいる。
  b.神のために熱心でない教会を脅かす。


Ⅲ部 もし神が私たちの味方ならば
18章 福音の中心
新約聖書における「なだめ」という語の重要性
 a.神が罪人を義と認めることの論理的根拠についての、パウロの古典的言明。
  b.神の御子の受肉の論理的証拠についての、ヘブル人への手紙における説明。
  c.われわれの主の天における使命についての、ヨハネのあかし。
  d.ヨハネの神の愛の定義。
●その中心に「なだめ」の思想がない福音は、パウロが宣べ伝えた福音とは異なるものである。
②神の怒りは、神の愛と同様に、人格的なものであり、力強いものである。主イエスが血を流されたことが、われわれに対する父なる神の愛の直接的な現れであったように、それはわれわれに対する父なる神の怒りを直接的に防ぐものでもあった。
③なだめについての三つの事実
 ⅰ. なだめは神ご自身のわざである。
 ⅱ. なだめはイエス・キリストの死によってなされた。
 ⅲ. なだめは神の義を現わしている。
キリスト教にとっての中心的事柄について考察する。
 ⅰ. イエスの生涯における推進力
 ⅱ. 神を拒否した者の運命
 ⅲ. 神の平和の賜物
 ⅳ. 神の愛の種々相
 ⅴ. 神の栄光の意味

19章 神の子たち
 ①クリスチャンとは、神を自分の父として持っている人である。
 ②神の子とされることは義認よりもまさっている。
 ③クリスチャン生活の全体は、子とされることから理解されなければならない。
  ◎山上の説教における、われわれの養子としての歩みについて
   a. 子とされることは、クリスチャンの行状の基礎として、現れて来る。
   b. 子とされることは、クリスチャンの祈りの基礎として、現れて来る。
   c. 子とされることは、信仰生活の基礎として現れている。
 ④われわれが神の子とされている真理
  ⅰ. 神の恵みの偉大さを示している。
  ⅱ. クリスチャンの希望の素晴らしさを示す。
  ⅲ. 聖霊の働きを理解する鍵を与える。
  ⅳ. 「福音の聖さ」の意味と動機とを、示す。
  ⅴ. 確信の問題に対して見通しをつけるために必要な手掛かりを与えてくれます。
 ⑤神はわれわれを謙遜にし、われわれを教え、われわれを真にご自身の子どもとしてくださる。

20章 あなたはわれらの導き手
 ①多くのクリスチャンにとって導きは長年にわたる問題である。
 ②聖書には神が導きを与えてくださるという、明確な約束が含まれている。
 ③御霊は、みことばが定めている限界の枠の中で導かれるのであり、その枠を超えることはない。
 ④導きについて、御霊を消してしまういくつかの落とし穴
  ⅰ. 考えようとしないこと。これは誤った敬虔さ。聖書が絶えず「考えよ」と言っているのに、それに従わない。
  ⅱ. 先のことを考えようとせず、二者択一的な行動の長期的な結果を判断しようとしないこと。
  ⅲ. 忠告を受けようとしない。忠告を聞くことをしないのは、自負心と未成熟のしるし。
  ⅳ. 自分自身を考えようとしないこと。
  ⅴ. 自分の魅力を低く見ようとしないこと。
 ⑤聖書が特に教えていることは、神の導きに従うことによって、普通の場合、神に従わなかったなら逃れたかも知れない混乱や苦しみに出会わせられるということ。
 ⑥われわれの神は、回復させるだけでなく、われわれの間違いや愚かさをご自身のご計画の中に取り入れ、それらを、われわれにとって益としてくださる方である。
 
21章 これらの内なる試み
 ①福音の真理にまったくかかわりのある働きであっても、それらの真理を、誤った適用をもって語るなら、なお間違った方向に行き得る、ということ。
 ②クリスチャン生活の初期段階においては、大きな感情的喜びがあり、目覚ましい摂理の働きと、驚くべき祈りの答えと、彼らの最初のあかしのわざに対する直接的な結果が見られる。このようにして、神は彼らを励まし、彼らを「いのち」の中に確立させてくださる。
 ③もしクリスチャンが神のことに無関心になり、再び堕落して故意の罪を犯すようになるなら、心の喜びや平安が少なくなり、魂の不満足はますます顕著になっていくことは事実である。
 ④神は、われわれの極めて愚かな失敗の中から良いことを引き出すことのできるお方である。
 ⑤われわれは、自分自身に対しても、神に対しても、現実的な者としていただくためにも、神が必要である。

22章 神の十分さ
 ①聖書におけるすべての道はローマ人への手紙に至り、聖書によって与えられるすべての見解は、ローマ人への手紙から最も良く知ることができ、ローマ人の手紙の使信が人々の心に入っていくとき、何が起こるか予想がつかない。
 ②パウロは、福音を通してあなたが神について知っていることを思い、それを自分に適用するように言っている。自分の問題の中から上を仰ぎ、福音が示している神を見よ。福音による考え方によって、感情的な考え方の誤りを正せ。
 ③神は主権を持った守り主であり、契約の恵みによって、恐れの中からの自由と、戦うための新しい力とを、決定的に与えてくださるお方である。
 ④神は、われわれに対して忠実であり十分である。神が与えてくださる以上のものは必要としない。
 ⑤パウロの強調点
  ⅰ. 神の選びにおける恵み
  ⅱ. さばきにおける主権
  ⅲ. キリストの仲保者としてのわざが有効であること。
 ⑥神の愛は全能の力を持っており、その核心において、妨げられることのない祝福をもたらすための全能の目的を持っている。
 ⑦キリストによって神を知った者は、真の自由と、真の人間性を見出したのである。

 

(文責:川﨑憲久)