のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「湖の上を歩くイエス」

"それからすぐに、イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた。
そして彼らに別れを告げると、祈るために山に向かわれた。
夕方になったとき、舟は湖の真ん中にあり、イエスだけが陸地におられた。
エスは、弟子たちが向かい風のために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らのところへ行かれた。そばを通り過ぎるおつもりであった。
しかし、イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
そして、彼らのいる舟に乗り込まれると、風はやんだ。弟子たちは心の中で非常に驚いた。
彼らはパンのことを理解せず、その心が頑なになっていたからである。
それから、彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着き、舟をつないだ。
彼らが舟から上がると、人々はすぐにイエスだと気がついた。
そしてその地方の中を走り回り、どこでもイエスがおられると聞いた場所へ、病人を床に載せて運び始めた。
村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、人々は病人たちを広場に寝かせ、せめて、衣の房にでもさわらせてやってくださいと懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。"
マルコの福音書 6章45~56節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

  パンの奇蹟でお腹を満たされた弟子たちは、更なるイエスのミッションに出合います。

  イエスはいつものように、天の父と交わるために山に向かわれたが、弟子たちは先にガリラヤ湖を舟で渡っていました。

  もともと漁師であるため、舟は得意中の得意の弟子が多かったはずですが、向かい風が強くて「漕ぎあぐねいていた」とマルコは記しています。

  そこに、イエスが来られるのですが、何と湖の上を歩いて来たのです。これには、弟子たちも驚き、恐怖を覚えるほどでした。

  ここに、イエスが弟子たちに伝えたかったことを三つ捉えることができます。

  一つ目は、イエスのことばです。弟子たちが向かい風で困り、更にイエスが湖の上を歩いて来られる姿を見て恐れているところに、まずイエスがなさったのは、みことばを与えることでした。それは、弟子たちにどれほどの安心を与えたことでしょう。しかも、イエスは「わたしだ。恐れることはない」と言われました。これは、イエスが「わたしはある(エゴー・エイミ)」であり、神ご自身であることを宣言されたことです。だから、「恐れるな」ということばが確かなのです。私が語る「恐れるな」は、ある意味、何の保証もありません。しかし、イエスの「恐れるな」には、ご自身が神であるゆえに起こっている問題に対しては恐れてはならないということなのです。しかし、ここで彼らが学んだ恐れは、問題に対してよりも、イエスの神性に対してだったのではないでしょうか。そのことについては、私たちも、常に恐れを持ち続けるべきだと思います。

  二つめは、弟子たちが乗っていた舟に一緒に乗るということでした。なぜなら、イエスは、弟子たちに対することばだけでなく、その存在をもって、その問題の渦中に共におられるお方だからです。これは、弟子たちにとって、ことばとともに、どれほどの安心を与えたことでしょう。これは、私たちにおいても同じです。主は私たちの外にいて、遠巻きに見ておられる神ではありません。私たちの問題の渦中に共におられ、その苦しみ、叫びをともに味わってくださる友だということです。

  三つめはなんでしょう。それは、イエスのこのミッションの中にある、本当の目的があるということです。弟子たちの訓練がもともとの目的ではないことがわかります。

「そばを通り過ぎるおつもりであった。」

  この記事は、その証しです。つまり、イエスの本来の目的が、その先にある、ゲネサレの地にある人々への宣教であり、そのあとに続く十字架への道、そして十字架であったからです。その目的を弟子たちにと共有することが、弟子たちへの大切なメッセージでした。

 

   弟子たちは、パンの奇蹟で、イエスが全能の神であることへの恐れよりも、自分にとって便利な存在、努力しなくても食べ物が与えられるという安易な御利益信仰に陥っていたのではないでしょうか。

  しかし、イエスは、そういう彼らに、湖の上を歩き、「わたしはある」(ヤハウェ)であることを宣言することによって、本当の安心とともに、同時に神に対する恐れを与えたのです。そして、そのお方がいつも、どんなときも共におり、問題の渦中に立っていてくださる主であることを明確に示されたのです。

  その上で、本来の目的である、ともに宣教に向かうことに導かれておられるのです。

   あなたにとって、イエスとはどんなお方でしょうか。便利な役に立つ存在でしょうか。困ったときにだけ、助けてくれるマグマ大使ドラえもんでしょうか。

   主は、確かに私たちの友となってくださったお方です。命を捨てて私たちの身代わりに十字架にかかられた、私たちの友だと言ってくださいました。しかし、それが、私たちの神に対する恐れを失わせているとしたら、大きな勘違いです。神は侮られる方ではないからです。

   今日、私たちはイエスがまず神であり、恐れをもって近づくべき方であることを覚えましょう。その上で、そのような偉大なお方が、ちっぽけな私たちの個々の問題に関わってくださり、その渦中におられて、その問題を解決してくださる、私たちの友となってくださったお方であることを受け入れましょう。

  その神であり、また友である主と、私たちは、思いを一つとされて宣教へと遣わされるのです。