のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「ただ神を愛する」

"1 さて、パリサイ人たちと、エルサレムから来た何人かの律法学者たちが、イエスのもとに集まった。
2 彼らは、イエスの弟子のうちのある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。
3 パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わずに食事をすることはなく、
4 市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。
5 パリサイ人たちと律法学者たちはイエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」
6 イエスは彼らに言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
7 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』
8 あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです。」
9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、
12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。
13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」"
マルコの福音書 7章1~13節
聖書 新改訳2017

 

   私たちは、自分の信仰生活が形骸化しやすい弱さを持っています。

   初めのうちは熱心であっても、毎日、毎週、毎月など続けることが、ことごとくかたちばかりになる傾向があります。

   たとえば、毎日のデボーションはどうでしょうか。お祈りも聖書通読も習慣的となって、マンネリ化して、祈りのことばも、主の祈りをお題目のように唱えていたり、聖書も、みことばに聴く思いというよりは、字を見てるくらいの習慣的になって、せっかくの主との交わりがつまらないものになっていることがあるのではないでしょうか。

  それは、当時のユダヤ人指導者たちも同じでした。しかし、彼らはそのような形式的な信仰生活に何の問題意識もなく、それを表面的にしっかり守ることで、信仰深さを主張していたのです。

  本来は主から受けるべき報いを、自分自身に受けて、人々から賞賛されることに快感すら覚えていたと思われます。しかも、親に対する子としての責任も、神への偽りの献身を理由に放棄していたのです。

   しかし、主イエスは、そのような彼らの偽りの信仰姿勢を見抜き、悲しまれたのです。

  私たちはどうでしょう。毎日とりあえずかたちだけやってるデボーション、毎週とりあえず出席している礼拝などを、その本質を見失って、表面的な事実に安堵し、しかも誇っているとしたなら、このユダヤ人指導者たちと同じなのです。

  イエス様が私たちのために十字架にかけられ死なれて、墓に葬られて、3日目によみがえられたことを受け入れ、罪を悔い改め、そのイエスの血潮のゆえに赦されていることを私たちは喜んでいるでしょうか?

   主は言われます。

「彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから」7節

「このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。」13節

  私たちの問題の中心は、神のことばを無にしてしまい、自分のことばに置き換えて、それを神のことばと錯覚して主張することです。

 しかし、もし、私たちがその問題に気がつき、悔い改め、みことばに真に聴いていくなら、やり直すことができます。 主が求めておられるのは、神を心から愛する愛です。なぜなら、神がまず私たちを愛し、私たちのためになだめの供え物としての御子をお遣わしになったからです。その愛を受けたあなたは、神のみことばの前に無力であることを認め、聖霊の助けに委ねることが求められています。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」マタイ5章3節

  私たちは、神のきよさの前に、全く立ち得ないものであることを認め、それでも赦してくださる、その神の愛にへりくだって応答しようとするとき、聖霊の助けによって、心から礼拝する者へと変えられていくのです。