のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「パンくずをいただきたい」

"イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
エスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。"
マタイの福音書 15章21~28節
聖書 新改訳2017

 

  イエスがツロとシドンの地方という、ユダヤ人から見れば外国に行かれたときのことでした。カナン人の女の娘が悪霊につかれているので、そのカナン人の女が癒しを求めて、イエスのもとにやって来ました。22節を見ると「叫び続けた」と書いてありますので、かなり切迫した状況だったことがわかります。

  ところが、イエスは「何もお答えにならなかった」と言うのです。しかも、弟子たちもいっしょになって、「この女を追い払ってください」と言って、相手にしないように求めているのです。何という冷たさでしょうか。今までのイエスから考えても、いったいどうしちゃったのかと思うほどに、疑問がおこるイエスの態度です。

  しかし、その理由がイエスから示されます。それは24節の言葉です。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」これはどういう意味でしょうか。イエスは、人種差別をしているのでしょうか。本当にイスラエルのためだけに来られたお方なのでしょうか。いいえ、そうではありません。なぜなら、もしそうであるなら、あえてこの地方を通る理由がないからです。

  だから、イエスはこの女の人の娘を癒すために来られましたが、一つのテストをすることで、本当に大切なことは何かをお示しになるために、あえて冷たい態度をとられたのです。それでイエスは、神の祝福の約束の順番として、まずイスラエル人からだと強調することで、この女の人が、どのような信仰か確かめたのです。

  それでもカナン人の女は言いました。「主よ。どうか助けてください。」しかしイエスは「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と喩えを使って、イスラエル人を後回しにして、小犬であるあなたを祝福することはできないということをお語りになり釘を刺しました。

   すると、ここで今日の表題の言葉が、彼女から出てくるのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」イエスは、その彼女の答えと姿勢をご覧になって「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と仰せられ、彼女の娘を癒されたのです。

   イエスは、彼女を外国人だからと言って差別はしていませんでした。きちんと「婦人よ」と尊敬を表わす言葉で呼びかけています。そして、その信仰を賞賛されました。ここで、弟子たちの様子は記されていませんが、おそらく凄く驚いたと思うのです。弟子たちには、このカナン人の女は、婦人ではなく野蛮人でしかないのです。それはイスラエル人ではないからです。

  だから、イエスの彼女に対する冒頭の態度で納得していたと思うのです。しかし、結果的にカナン人の女は「婦人よ」とイエスに大切にされ「立派な信仰だ」と祝福を受けたのです。ここにイエス様のこの外国をお通りになった目的が示されています。それは、神様が求められていることの最も大切なものは、イスラエル人だという自慢や誇りではなく、また血筋でもなく、神様を心から信頼する信仰だったのです。そういう彼女を獲得するために、イエスは、あえてこの地を通られたのです。

  弟子たちは、その光景を目の当たりにしたのです。イエスが、決して冷酷に人種差別をするお方ではないことを知り、かえって、食い下がってでも祝福を求め続ける信仰の必要を学んだことでしょう。ここに、私たちに対する祝福と教えがあります。

   私たちも、イスラエル人ではない外国人です。でも日本人でも神様の救いを受けることができるということです。しかし、そういう私たちも、クリスチャンという肩書ができてしまったときから、その肩書だけで満足してしまう危険性があります。それは、イスラエル人であるということでカナン人の女性を蔑んでいた弟子たちのようです。

  教会に毎週集っていること、聖書の知識があること、たとえば、クリスチャンホームで育っていることなど、表面的なことで思いあがっているなら、それは間違いです。大切なことは、あなたに、神だけを信頼する信仰があるかどうかです。

   今日、もう一度、主の憐れみによって救われた恵みに立ち返って、私のために、あなたのためにこの世にわざわざ来てくださったイエスを信じ、その愛に応えていく者ではありたいと思います。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16