のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「聖なる装いをしてひれ伏せ」

詩篇 29篇1~11節

ダビデの賛歌

"力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。
主の声は水の上にあり栄光の神は雷鳴をとどろかせる。主は大水の上におられる。
主の声は力強く主の声は威厳がある。
主の声は杉の木を引き裂き主はレバノンの杉を打ち砕く。
それらの木々を子牛のようにレバノンとシルヨンを若い野牛のように跳ねさせる。
主の声は炎の穂先をひらめかせる。
主の声は荒野を揺さぶり主はカデシュの荒野を揺さぶる。
主の声は雌鹿をもだえさせ大森林を裸にする。主の宮ではすべてのものが「栄光」と言う。
主は大洪水の前から御座に着いておられる。主はとこしえに王座に着いておられる。
主はご自分の民に力をお与えになる。主はご自分の民を平安をもって祝福される。"

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

  私たちは神に礼拝をささげるとき、どのような装いをしているでしょうか。

  以前、「大草原の小さな家」というドラマがNHKで放映されていました。そのドラマの主人公のインガルス一家は、日曜日になると晴れ着を着て礼拝に参加していました。

  恐らく多くの方は、礼拝に着ていく服を備えて主の日を迎えるのではないでしょうか。それは。主を礼拝するとは、自分自身の最善を尽くして、主を愛することを表すという大切なことだからです。

  もし、大好きな人とデートをするというときに、予定していたにも関わらず何の準備もなく、汚い身なりで相手に会ったとしたら、相手の人は自分に対する愛情はその程度かと悲しむでしょう。なぜなら、その服装そのものに私たちの心が表されるからです。だからこそ、身なりも整えるところに、相手に対する愛が図られるのです。

  ですから、主の日に晴れ着で礼拝に参加することは、そういう意味では正しいと言えます。しかし、そのような外見を気にし過ぎる余り、中身が伴っていないにも関わらず、身なりだけで自分は信仰者だと勘違いすることにもなりかねないことを常に肝に命じて置くことが大切です。私たちは表面的、また形式的に陥りやすい弱さを持っているからです。

  さて、聖なる装いについて、その身近なところから見てまいりましたが、実際に私たちは聖なる装いをして、主を礼拝しているでしょうか。ここが、今日のみことばで注目したい問いです。

  この歌を歌ったイスラエルダビデは、「力ある者の子らよ」と、聖なる装いをする者たちがまず力ある者の子、すなわちイスラエルの神の民であることを宣言します。それは、与えられている力がすべて神のものであることを認め、自らは何もないことをわきまえるべきことを命じているのです。そのことを神に栄光を帰すと言います。

  私たちが生きているのではない。神に生かされているのだという事実を事実として認め、へりくだって神の前に平伏す。それが真の礼拝だからです。ですから、そのためには、まず聖なる神の前に、私たちは自らが、その聖なるお方に相応しくないものであることを認める必要があるのです。

  主イエスは言われました。

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」ヨハネ福音書 4章23節
  ここでイエスは「御霊と真理によって父を礼拝する」と仰せられました。それが、真の礼拝者の姿です。その真の礼拝こそ、礼拝者である私たちは 「聖なる装いをして主にひれ伏せ」という言葉に生きることが求められているのです。

  では、やはり晴れ着を着て礼拝するということでしょうか。いいえ、そうではありません。服装を整えることは間違ってはいませんが、本質的なことではありません。

  大切なのは、御霊と真理によって礼拝する。これこそが聖なる装いをしてひれ伏すということなのです。それは、あなたのために十字架にかかり死んで三日目によみがえられたイエスを信じて、聖霊をいただき、真理であるキリストによって、御父の前にひれ伏すことを意味しています。

  もともと罪に汚れた私たちが聖なる御父を礼拝するためには、私たちが聖なるものとされる必要があります。それは、イエス・キリストを信じて、その御子を着るということです。神はその御子という装いを見て、私を、そして、あなたを聖なるものと認めてくださるからです。

  そのとき、私たちは聖なる装いがただ羽織っただけのものであったにも関わらず、本質的にも御子の似姿へと変えられていくことを知らされます。

  それが「力ある者の子」としての祝福であり、また約束なのです。あなたも聖なる父の前に自分の罪が示されているなら、ぜひイエスをあなたの主としてお迎えください。その罪をイエスが十字架で負ってくださったと信じるときに、あなたの中に真の罪の悔い改めが起こり、あなたにも聖霊が注がれ、あなたもまた聖なる装いであるキリストを着せられ、神の民として祝福の歩みが約束されるのです。

  あなたもその祝福の人生をぜひ受け取ってください。神はあなたを力ある神の民に加えようと待っておられるからです。

 

「主はご自分の民に力をお与えになる。主はご自分の民を平安をもって祝福される」11節