のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「カナン人はただ中に住んだ」

ヨシュア記 16章
1,ヨセフ族にくじで当たった地の境界線は、エリコのあたりのヨルダン川からエリコの泉の東側へ、そして荒野の方へ向かい、エリコから上って山地のベテルに至り、
2,ベテルからルズに出てアルキ人の領土アタロテを過ぎ、
3,西の方、ヤフレテ人の領土に下り、下ベテ・ホロンの地境、さらにゲゼルに至る。その終わりは海である。
4,ヨセフ族、マナセとエフライムは自分たちの相続地を受け継いだ。
5,エフライム族の諸氏族の地域は、次のとおりである。彼らの相続地の領域は東の方、アテロテ・アダルから上ベテ・ホロンに至る。
6,そして境界線は西に向かい、さらに北方のミクメタテに出る。そこから境界線は東に回ってタアナテ・シロに至り、そこを過ぎてヤノアハの東に進み、
7,ヤノアハからアタロテとナアラに下り、エリコに達し、ヨルダン川に出る。
8,また境界線はタプアハから西へ、カナ川に向かう。その終わりは海である。これがエフライム部族の諸氏族の相続地である。
9,そして、マナセ族の相続地の中に、エフライム族のために取り分けられた町々、そのすべての町とそれらの村々がある。
10,ただし、彼らは、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかった。カナン人はエフライムのただ中に住んだ。今日もそうである。カナン人は強制労働に服すことになった。

 

f:id:kinokunizaka66:20180627223113j:image

 

  ヨセフ族は、かつてエジプトの総理大臣を務めたヨセフの子孫であり、ヤコブの子どもたちの中でも、その存在感は突出しています。

 既出のユダ族と並んで、このあとのイスラエルにとって、それぞれ大きな役割を果たすことになります。

  そのヨセフ族は、エフライムとマナセがそれぞれの相続地を得ることになっていました。それは、ヤコブの祝福(創世記48章)が根拠になっています。マナセはエフライムの兄ですが、父祖ヤコブは、あえてエフライムに祝福の右手を置き、エフライムがマナセを上回ることを宣言したのです。

  ところが、この地図を見て分かるように、マナセの割り当て地は、ヨルダン川を挟んで辻向かいではありますが、広い相続地であることが分かります。しかし、エフライムの相続地は、その西側マナセの中に置かれており、広さで言うとマナセの方が上です。

 16章の 聖書本文では、1〜4節がヨセフ族としてのざっくりとした境界線の説明ですが、5節以降はほぼエフライムの相続地の説明であり、マナセのことは、エフライムの取り分けられた町々が、マナセの中にあるという説明だけで、マナセについての言及はされていません。マナセの割り当て地の説明は17章からになります。

  以上のように、マナセに先立つかたちで表されたエフライムですが、一つ気になる記録があることにきがつきます。それは、最後の10節です。

 

10,ただし、彼らは、ゲゼルに住むカナン人を追い払わなかった。カナン人はエフライムのただ中に住んだ。今日もそうである。カナン人は強制労働に服すことになった。

 

  彼らはカナン人を追い払わなかったと言うのです。この記事は何を言わんとしているのでしょうか。このことは、明らかに今後のエフライムにとってマイナスの結果に陥ることを示唆しているのではないでしょうか。確かに、カナン人の存在は、強制労働に利用され、その勢力は弱まっていったことが分かります。士師記1章でも苦役に服したカナン人のことが記されています。また、ソロモンの時代にも、その生き残りが城壁再建に徴用されています(Ⅰ列王9:15〜22)。

  ところが、ソロモンは近隣の国々と穏健な外交を行い、異民族、異教徒との妻を娶るようになってから、それらの妻の宗教に混交する姿勢を取るようになってしまいます。つまり、結局はカナン人たち土着の宗教がイスラエルの中に入り込み、ひいてはソロモン以降、その部下ヤロブアムが北イスラエル王国を築いたときに、金の子牛による偶像崇拝をもたらし、それ以来エフライムを中心とする北王国には一人も主を礼拝しようとする王は起こされませんでした。むしろ、バアルやアシュタロテ、モレクなどの偶像崇拝に陥ったのです。

  この史実を振り返るときに、僅かな罪でも、主の前に清算していなければ、その僅かな罪が国を滅ぼすことになることが分かります。カナン人を侮っていたことで、結局そのカナン人の宗教に侵され、エフライムを中心とする王国のただ中に棲みつくようになったのでした。

   これを信仰者個人に適用するなら、小さな罪だと思って放って置くなら、その罪のパン種がいずれ膨れ上がり、全体を蝕むほどに手がつけられなくなるということが言えるのでないでしょうか。

  だから、どんな小さな罪であっても、それを告白して、神の前に悔い改めることを肝に銘じたいものです。パウロは言いました。

 

"わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませるのです。"  ガラテヤ人への手紙 5章9節

  僅かだと思って侮ってはならないのです。いつも心がけたいことは、神への素直な態度です。自分の罪を認め、神との正しい関係をいつも保つことです。

   今日、あなたは自分には欠けたところがないと思っているでしょうか。あなたの中に罪はないと思っているでしょうか。神の前に、あなたの真実を打ちあけましょう。

 

"もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。"
ヨハネの手紙 第一 1章8~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会