のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「血の復讐をする者から」

ヨシュア記 20章
1,主はヨシュアに告げられた。
2,「イスラエルの子らに告げよ。『わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。
3,意図せずに誤って人を打ち殺してしまった殺人者が、そこに逃げ込むためである。血の復讐をする者から逃れる場所とせよ。
4,人がこれらの町の一つに逃げ込む場合、その人はその町の門の入り口に立ち、その町の長老たちに聞こえるようにその事情を述べよ。彼らは自分たちの町に彼を受け入れ、彼に場所を与える。そして彼は彼らとともに住む。
5,たとえ血の復讐をする者が彼を追って来ても、その手に殺人者を渡してはならない。彼は隣人を意図せずに打ち殺してしまったのであって、前からその人を憎んでいたわけではないからである。
6,その人は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいはその時の大祭司が死ぬまでその町に住む。その後で、殺人者は自分の町、自分の家、自分が逃げ出した町に帰って行くことができる。』」
7,彼らはナフタリの山地のガリラヤのケデシュ、エフライムの山地のシェケム、ユダの山地のキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンを聖別した。
8,ヨルダンの川向こう、エリコの東の方ではルベン部族から台地の荒野のベツェルを、ガド部族からギルアデのラモテを、マナセ部族からバシャンのゴランをこれに当てた。
9,これらはすべてのイスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のために設けられた町である。すべて、誤って人を打ち殺してしまった者がそこに逃げ込むためであり、会衆の前に立たないうちに、血の復讐をする者の手によって死ぬことがないようにするためである。

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  イスラエルには「逃れの町」が定められていました(民数記35:2〜34、申命記19:1〜13)。それは、故意にではなく過失で誰かを死なせてしまった場合に逃げ込むことが許されている町のことです。このヨシュア記の記述は、以前モーセに既に命じていたことの再確認だと言えます。

  この「逃れの町」は、決して過失だから罪に問われないのではなく、過失であっても必ず裁判には、かけなければなりませんでした(6節)。

   ですから、裁判を行う前に「血の復讐をする者」から命を守るために設けた制度なのです。聖書記者も一貫して、過失致死罪の犯人を「殺人者」と何度も繰り返しています。人を殺した者は、故意であっても過失であっても、それは殺人者なのです。ただし、意図せずに犯してしまうこと、全く怨恨の理由もなく殺してしまった者に対しては、神はそういうアクシデントを想定して、故意で犯行に及ぶ者とは別にしました。

  いずれにしても、この逃れの町の制度には、神の救いの型が表されていると言えます。

  一つは、血の復讐する者と繰り返されている言葉です。この血の復讐する者とは、原語ではゴーエール・ハーダームと言います。ゴーエールは贖う者という意味があり、血を流すことによって罪の赦し、つまり贖いがあることを言っているのです。

  しかし、殺人者は逃れの町に入ることで、その罰から免れ、逃れの町にいる間はいのちが保証されるのです。それはある意味、逃れの町という保護施設です。そういう意味では、本当の自由はありません。それは、やはり自分の罪によって、そこに留まらなければならないからです。

  ところが、この保護施設も、あることが起こるとで、そこから出られると聖書に書いてあります。それは何でしょう?

  それは、その時の大祭司が死ぬことです。その時の大祭司が死ぬことによって、殺人者は自分の町に帰れるのです。

   ここに、罪からの救いについて、大変大切なことを語っています。それは、殺人者が自由になるためには、大祭司が死ぬ必要があるということです。大祭司の死によって、殺人者は出られる。そのことを贖うと言います。

  血の復讐をする者は、血の復讐、つまり血の代償を求めてやって来ますが、それは結果的に大祭司に着せられ、その死によって殺人者は解放されるのです。

  私たちの主イエスは、この血の復讐をする神ご自身ですが、罪の滅びから免れさせる逃れの町でもあり、同時にその死を通して、私たちを自由にしてくださる偉大な大祭司だと言うことです。神は、このヨシュアの時代に「逃れの町」そして「血の復讐をする者」を通してのちに来るキリストを指し示していたのです。

   あなたも今日、罪を悔い改めてイエスを救い主として受け入れるなら、あなたは救われます。なぜならキリストが、あなたのために罪を贖う逃れの町、大祭司としてあなたを招いているからです。

   

"こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。"
ヘブル人への手紙 2章3節
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