のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「神の雷鳴~主の声」詩篇29篇

ダビデの賛歌

Psa. 29:1 力ある者の子らよ。主に帰せよ。 栄光と力を主に帰せよ。
Psa. 29:2 御名の栄光を主に帰せよ。 聖なる装いをして主にひれ伏せ。
Psa. 29:3 主の声は水の上にあり 栄光の神は雷鳴をとどろかせる。

主は大水の上におられる。


Psa. 29:4 主の声は力強く 主の声は威厳がある。
Psa. 29:5 主の声は 杉の木を引き裂き 主は レバノンの杉を打ち砕く。
Psa. 29:6 それらの木々を子牛のように レバノンとシルヨンを 若い野牛のように 跳ねさせる。
Psa. 29:7 主の声は 炎の穂先をひらめかせる。
Psa. 29:8 主の声は 荒野を揺さぶり 主は カデシュの荒野を揺さぶる。
Psa. 29:9 主の声は 雌鹿をもだえさせ 大森林を裸にする。 主の宮では すべてのものが「栄光」と言う。


Psa. 29:10 主は 大洪水の前から 御座に着いておられる。

主は とこしえに 王座に着いておられる。
Psa. 29:11 主は ご自分の民に力をお与えになる。

主は ご自分の民を 平安をもって祝福される。

 

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1.聖なる装いをして

 主への礼拝は、すべての栄光と力を主に帰すことです。主は天地創造の業から、ご自身の力と栄光をその被造物の中に現わして来ました。そして、私たち人間も神によって創造された神の作品なのです。ですから、私たち自身もまた、神の力と栄光を現わすために造られたことがわかります。

 この詩篇記者は、天地万物を創造され、支配しておられる主のその偉大さに驚嘆し、恐れおののいて「ひれ伏せ」と命じています。しかも「聖なる装いをして」です。この「装い」とは、栄光の輝きの光のことであり、別訳では「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」とこの「装い」が主にかかっているのです。ですから、「聖なる装い」をするとは、主ご自身の聖なる輝きをいただいて、私たち自身もまたその栄光を帯びつつ礼拝しなさいということでしょう。

 私たち人間はみな罪を持っていますから、そのままではきよい神の前に出ることはできません。しかし、一つだけそれを可能にする方法があります。それは、神の栄光をその歩みと十字架の贖いによって現わされたイエス・キリストを信じることです。私たちは、罪を悔い改め、イエスを信じることで聖霊をいただき、その聖霊によってキリストご自身を着る者とされました。ですから、聖なる装いであるキリストによって、私たちは真の礼拝をささげることができるのです。

 

「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」ヨハネ4:23

 

2.主の声は

 続いて詩人は、雷鳴の轟きの中に神の姿を見ています。つまり全能の主の前に無力さを味わった詩人が、その雷鳴の力強さ、威厳を覚えてひれ伏すのです。その力強さ、威厳とは、目の前で具体的に、レバノン杉を引き裂き、打ち砕く。しかも、その木々を荒々しい野牛のごとく跳ねさせ、その打ち砕かれたレバノン杉は炎を上げて燃え出し、その炎の穂先はメラメラとひらめくのです。

 また、それは荒野を揺さぶるため、妊娠中の雌鹿は月足らずで出産するほどにもだえるということです。そのそれぞれの自然現象においても、神殿ではその轟きに主の臨在を覚えて「栄光」と言って、ひれ伏します。それは、それらの出来事がまさに主の声によって私たち人間が与えられる衝撃に通じるからです。

 主のことばには威厳がありますが、しかし、その声自体に、まず力強さと威厳があるからこそ、私たち主の羊は、その声を聞き分けるのです。

 

人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」マルコ1:22

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」ヨハネ10:27

 

3.王座におられる主

 最後に礼拝の対象である神の臨在とその支配の確かさが、「とこしえ」に変わらないことを宣言します。しかも、その主の前にひれ伏す者たちに対して、神ご自身の力をくださると言うのです。そして、主の民として、平安をもって祝福し、その王座こそ神の御国における主の力と栄光の現われなのです。

 この真理は新約にまで貫かれており、私たちが日々祈る「主の祈り」にも見い出せることです。

 

 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」

マタイ6:10

 最終的には、キリストの再臨と最後の審判によって、神の国が完全に確立するそのとき、神の完全なご支配が始まり、神の栄光と力が、その御国に溢れるのです。

 私たち一人ひとりもまた、この御国に招かれています。あなたが真の神を知り、聖なる装いを通して、神の祝福に与り、神の国の国民として歩むことを願っています。

 ぜひ、自分の弱さや貧しさを認めて、キリストという聖なる装いをし、主の声を聴く者とされましょう。その声だけで羊である私たちは力づけられ、平安と祝福が溢れるものとして益々造りかえられるからです。

 

御名の栄光をに帰せよ。ささげ物を携えて、御前に来たれ。聖なる装いをして、にひれ伏せ。」歴代誌第一16:29