のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「主を捨てずに主の道を守る」士師記2章

(1) 長老たちがいた間 1〜7節
1,主の使いがギルガルからボキムに上って来た。そして言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの父祖たちに誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたと結んだわたしの契約を決して破らない。
2,あなたがたは、この地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を打ち壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
3,それでわたしも言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となる。』」
4,主の使いがこれらのことばをイスラエルの子ら全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。
5,彼らはその場所の名をボキムと呼んで、その場所で主にいけにえを献げた。
6,ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの子らはそれぞれ土地を占領しようと、自分の相続する地へ出て行った。
7,ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は主に仕えた。

 

  エジプトを出てきたイスラエルの民は、約束の地に着くまで40年もかかったため、世代交代が始まっていました。指導者がモーセからヨシュアに代わったようにです。しかし、そのヨシュアもまた年老いて、その先祖たちのもとへ旅立とうとしていました。

   そのような状況のイスラエル人の中で、次世代の者たちは、どうやら神を愛し、信頼していたのではなく、先輩である長老たちの存在で秩序を保っていたことが7節のことばから明らかにされてます。

  この視点は、私たちにも大切なことを伝えています。教会の中でも、一見まとまっているように見えても、実は神に対する信仰ではなく、人間関係で保たれていることがあるということです。見た目がよくても、霊性が貧しいことが命取りということです。

  イスラエルの民は、ヨシュアをはじめとする霊的なリーダーの存在によってまとまっているように見えていただけで、若い人たちの信仰は育っていなかったのです。

  私たちも気をつけたいものです。信仰の継承の軸は何か。礼拝をかたちだけ守っているとか、上手にお祈りができるとか、奉仕活動をしっかりやってるとか、見た目だけで安心していないでしょうか。

  確かに、信仰は行動に表れるのであるから、見た目で判断することは、ある意味当然です。しかし、私たち自身の霊的洞察も養われていないと、見た目だけの判断で終わってしまい、本質を見落としてしまうことを覚えていきたいものです。

 

(2) 主を知らず 8〜18節
8,主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
9,人々は彼をガアシュ山の北、エフライムの山地にある、彼の相続地の領域にあるティムナテ・ヘレスに葬った。
10,その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。
11,すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。
12,彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした。
13,彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
14,主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪する者の手に渡して略奪されるままにし、周りの敵の手に彼らを売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった。
15,彼らがどこへ行っても、主の手は彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。彼らは大いに苦しんだ。
16,そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。
17,ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それらを拝んだ。彼らの先祖が主の命令に聞き従って歩んだ道から早くも外れて、先祖たちのようには行わなかった。
18,主が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。

 

 イスラエルの民は、リーダーであるヨシュアが死に、他の長老たちも死ぬと、これまでの主の御業を知らず、体験していない世代の者たちだけになってしまいました。

 そして、彼らは主を捨てて、土着宗教であるバアル神に仕えるようになったのです。なぜ彼らはいとも簡単に主を捨てて、偶像崇拝をするようになったのでしょうか。

  ここに三つの理由があると考えられます。

一つ目は、若い世代が、これまでリーダーシップを取っていた人たちを尊敬せずに疎ましく思っていたということです。そうでなければ、こんなにもあっさりと変わるわけがありません。もともとが、先達の信仰を学ぶこともなく、ただ形式的な儀式を守ることで、上手く調子を合わせていただけだったのです。「目の上のたんこぶ」という言葉があります。その人にとって煩わしい存在のことをそう表現します。まさに若い人たちにとって、長老たちの存在がそうだったのです。

  もし、私たちが、そのバトンを受け取る立場であるなら、やはり日頃やっている一つ一つの奉仕や礼拝の意味をしっかり学ぶ必要があります。特に信仰の先輩たちが、なぜこのようなかたちで教会を運営しているのか、その背景も学ぶ必要があります。そして、そのようにして、群れを導き守ってきた先輩のクリスチャンたちを尊敬をもって愛することが求められているのではないでしょうか。

 

二つ目は、実は本当の意味で信仰を持っていなかったということです。そもそも、長老たちを疎ましく思っていたため、彼らの存在だけでなく、その信仰もひっくるめて嫌悪していた可能性があります。

  そのため、全く異質のものなのに、簡単にバアルを拝むようになったのです。これは、大変注意が必要です。

  もし、私たちが聖書を読まず、またその中心的な教理を学ばないでいるなら、人間的な要素で教会を運営しようとするのではないでしょうか。たとえば、仲良くするということは良いことですが、ただ仲良くすることだけを大切にして、神のことばを疎かにするなら、その仲良くしている人たちの悪習慣や、神のことばに反することをも受け入れてしまう可能性があるということです。そうなると、教会という看板を掲げているだけで、サークル活動や仲良しクラブと同じものになってしまいます。

  キリストがいのちを捨てて買い戻されたはずの教会が、キリストの十字架の贖いを抜きにしてはなりません。罪を語ることを避けて人を集めても、そこには救いはありません。なぜなら、罪の解決は聖書において極めて基本的な教理だからです。

  三つ目は、神との出会いを経験していないということです。長老たちのあとを引き継いだ若い世代のイスラエル人たちの信仰が浅かったのは、先輩たちが経験したような神との出会いや、神の業を体験していなかったからだと言えるでしょう。もし、長老たちから、信仰の話を聞くだけでなく、聞いたことを実践しようとしていなければ信仰の成長はないのと同じで、実生活の中でみことばに生きようという努力を祈りつつ、実行しようとしないならば、いつまで経っても神ご自身の素晴らしさや偉大さ、そして、神への親近感、愛を育てることはできません。日頃から、信仰のチャレンジに向かっていくことが大切なのです。なぜなら、そこには必ず祈りがうまれ、祈りは神との交わりを生みます。神との交わりをなくしては、何の成長も期待できません。

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(3)  先祖たちが守ったように 19〜23節
19,しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らは元に戻って先祖たちよりもいっそう堕落し、ほかの神々に従い、それらに仕え、それらを拝んだ。彼らはその行いや、頑なな生き方から離れなかった。
20,そのため、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は言われた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、
21,わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残しておいたいかなる異邦の民も、彼らの前から追い払わない。
22,これは、先祖たちが守ったように、彼らも主の道を守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」
23,こうして、主はこれらの異邦の民をただちに追い払うことをせずに残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。

 

  あらためて、長老たちが守ってきたことの意味を考えて、それが自分の信仰にどのように関わっていて、どのように神を愛することに繋がっていくのか。そのことを再度確認しましょう。

  あなたの目の前には、あえて主は試練を置いています。それは、あなたがまず神を愛するために一歩を踏み出すためだからです。信仰の歩みは形式的律法的になりやすい側面を持っています。だからこそ、はじめからその目的をしっかりと確認する必要があるのです。私たちが救われた目的は、神を愛し、隣人を愛するためだということを確認しましょう。

  その目的を持って歩む時、神のことばに聞くようになり、周囲に惑わされることのない強い信仰を持って、戦うことができます。

  今日も神を愛するがゆえに、神のことばである聖書に聴き、聖書を実践しようと決断しましょう。その祈りがあなたを育て、また次の世代の人たちにまで受け継ぐことができるようになるからです。