のりさん牧師のブログ

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「聞き従うかどうかを知るため」士師記 3章

(1)新しい地での試み(1〜4節)

1,次が、主が残しておかれた異邦の民である。主がそうされたのは、カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるためであり、
2,ただ、イスラエルの次世代の者、特にまだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためであった。
3,すなわち、ペリシテ人の五人の領主たち、またすべてのカナン人、シドン人、そしてヒビ人である。ヒビ人は、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテにまで及ぶレバノンの山地に住んでいた。
4,これは、彼らによってイスラエルを試み、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうかを知るためであった。

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  新しい地でのイスラエル人たちの歩みは、華々しいものではありませんでした。長い出エジプトを体験して、多くのことを学んだように見えたイスラエルですが、実際には、その年月の間に世代交代があり、これまでの信仰の歩みは全く若い世代には受け継がれなかったのです。

  そこで主は、三つの理由で彼らを教育されたのです。一つは、「カナンでの戦いを全く知らないすべてのイスラエルを試みるため」(1節)でした。二つ目は、「まだ戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるため」(2節)、三つ目は、「モーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうかを知るため」(4節)でした。

  私たちの信仰の歩みにも、必ず試練があります。その試練は決して楽なものではありません。その試練の中には、「神がおられるならどうして?」と思うようなこともあります。しかし、私たち、先に神の民とされた者にとって、やはり、この地上における苦しみは、単なる災難ではなく、また単なる苦痛ではないということです。

   神はその中において、私たちが、それを神からの「試み」であることを知り、この世における「戦い」をまず知り、そして、その試練としての戦いの中で、「神のことばに聞き従う」か。そのことを神はご覧になっておられるのです。

  それは、この呪われた地とされた世で、神の民としてどのように生きるかが問われているということです。神を知っている者として、更には神によって既に救いを得ている者にとって、神を知らない民の中に立たされて、同じ苦難を味わうとき、その信仰の姿勢、その生き方がどうなのかが試されるということです。つまり、どんなときにも神のことばに聞き従うかが問われているのです。

 

(2)三人の士師(5~30節)

①オテニエル
5,イスラエル人は、カナン人ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、
6,彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた。
7,こうしてイスラエルの子らは、主の目に悪であることを行い、彼らの神、主を忘れて、もろもろのバアルやアシェラに仕えた。
8,主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡されたので、イスラエルの子らは八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。
9,イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。
10,主の霊が彼の上に臨み、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出て行くと、主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡されたので、彼の手はクシャン・リシュアタイムを抑えた。
11,国は四十年の間、穏やかであった。こうして、ケナズの子オテニエルは死んだ。

 

②エフデ
12,イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。そこで主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。彼らが主の目に悪であることを行ったからである。
13,エグロンはアンモン人とアマレク人を彼のもとに集め、イスラエルを攻めて打ち破った。彼らはなつめ椰子の町を占領した。
14,こうして、イスラエルの子らは十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。
15,イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主は彼らのために、一人の救助者を起こされた。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデである。イスラエルの子らは、彼の手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送った。
16,エフデは長さ約一キュビトの両刃の剣を作り、それを衣の下、右ももの上に帯で締め、
17,モアブの王エグロンに貢ぎ物を携えて行った。エグロンはたいへん太った男であった。
18,貢ぎ物を献げ終わると、エフデは貢ぎ物を運んで来た者たちを見送り、
19,彼自身はギルガルのそばの石切り場のところから引き返して来て、こう言った。「王様、私はあなたに秘密のお知らせがあります。」すると王は「今は、言うな」と言ったので、そばに立っていた者たちはみな、彼のところから出て行った。
20,エフデが王のところに行くと、王は、屋上にある彼専用の涼しい部屋に一人で座していた。エフデが「あなたに神のお告げがあります」と言うと、王はその座から立ち上がった。
21,このとき、エフデは左手を伸ばし、右ももから剣を取り出して、王の腹を刺した。
22,柄も刃と一緒に入ってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。エフデは小窓から出た。
23,エフデは廊下へ出て行き、屋上の部屋の戸を閉じた。このようにして、彼はかんぬきをかけた。
24,彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来た。彼らが見ると、屋上の部屋にかんぬきがかけられていたので、彼らは「王はきっと涼み部屋で用をたしておられるのだろう」と思った。
25,しかし、いつまで待っても、王が屋上の部屋の戸を一向に開けようとしないので、しもべたちは鍵を取って戸を開けた。すると、なんと、彼らの主人は床に倒れて死んでいた。
26,エフデは、しもべたちが手間取っている間に逃れ、石切り場のところを通って、セイラに逃れた。
27,到着すると、彼はエフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。イスラエルの子らは、彼と一緒に山地から下って行った。彼がその先頭に立った。
28,エフデは彼らに言った。「私の後について来なさい。主はあなたがたの敵モアブ人を、あなたがたの手に渡されたから。」そこで彼らはエフデの後について下り、モアブへ通じるヨルダン川の渡し場を攻め取って、一人もそこを渡らせなかった。
29,このとき彼らは約一万人のモアブ人を討ち取った。そのモアブ人はみな、頑強で、力のある者たちだったが、一人として逃れた者はいなかった。
30,こうして、モアブはその日イスラエルの手に下り、国は八十年の間、穏やかであった。

 

③シャムガル
31,エフデの後にアナトの子シャムガルが起こり、牛を追う棒でペリシテ人六百人を打ち殺した。彼もまた、イスラエルを救った。

 

  イスラエル人たちは、カナンの民たちに悩まされるとき、ようやく「主に叫び求め」ました。そこに、主は士師を送る。このパターンはこのあとも続いていくわけですが、この士師記を読んでいて、その繰り返しにうんざりさせられていきます。これでもかこれでもかと、イスラエル人たちは、同じことの繰り返しで、全く、心から主の民として新しく心を入れ替えることはありませんでした。

  今日の箇所でも、短い間に三人の士師が起こされ、イスラエルの叫びに答えるかたちでイスラエルを治め、イスラエルに平穏が訪れます。しかし、「イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った」と、平穏な中に置かれるとまた彼らは主から離れるのです。

   ここから、私たちの罪は、苦難の中よりも平穏な日常の中に起こりやすいということが言えます。アダムとエバも荒野ではなく、エデンの園で罪を犯したことや、ダビデも戦いの中ではなく、王宮でのんびりしていたときに、女性の裸を見て情欲に満たされました。

  私たちも、神から与えられている平穏な日常にこそ、神のことばに聴き続ける必要を覚えます。

  また、イスラエル人たちは、苦難が起こると主に叫び、主はその叫びによって、彼らに助けを与えます。

  私たちにとっても、このことは実に大切な実例として神は聖書に書き残していると思います。それは、神は罪人の私たちをよくご存知の上で、しかし、叫び求めさえすれば、必ず応えてくださるお方だということです。あまりにも都合よすぎるのではないかと、この士師記から思わされますが、実はそのような愚かに見えるイスラエルの姿は、他でもない読者である私たちの姿を映し出しているのです。しかし、神はとことん、彼らの叫びにお答えになる。その神の誠実さを私たちは知らなければなりません。

  最後に、エフデの働きと彼に従ったときに体験させられたイスラエル人たちの信仰の戦いにおける勝利について考えてみましょう。

  神のイスラエルに対するミッションは、どんなときにも神のことばに聞くかということでした。そのことによって、どんな祝福があるのか。それを、彼らはエフデの言うことに聞き従うことで、味わうことができたのです。

  彼らは一万人ものモアブ人たちを打ち80年も穏やかに過ごし、さらにはエフデが死んだ後も、まだ彼らが叫ぶ前から主はシャムガルを起こしてペリシテ人の手から、イスラエルを救ってくださったことは、士師記の中でも実は珍しいくだりです。彼らが苦難の中で叫ぶことなしに、既に次の士師を起こしてイスラエルが守られる。

  そこには、やはりイスラエル人たちが、「イスラエルの子らは、彼と一緒に」(27節)、「そこで彼らはエフデの後について下り」(28節)とあるように、立てられたリーダーである士師に従い、彼を通して表された神のことばに聞き従ったときに起こる神の祝福があることを示していると考えられます。

 

  私たちも今日、様々な試練の中に置かれているかも知れません。でも、それは神が私たちを困らせようとして許しているのではないのです。

  そこで私たちが、神のことばに聞いてどう行動するかが問われているのです。特に、神に立てられたリーダーについて行くとき(神のことばに聞いていく)、想像を超えた神の祝福があることをここから学ぶことができます。 

  今日も主はあなたを祝福しようと待っておられます。目の前にある苦難は単なる苦痛で終わるものではありません。その中であなたが神に叫ぶのがどうか。そして神のことばに聞くかどうかを主は待っておられるのです。

  ためらわず主に叫びましょう。都合よすぎるとか、叫んでも聞いてくれないとは考えず、まず神に叫びを聞いていただき、そこから語られる神のことばを聞いていこうではありませんか。

 

"私は声をあげて主を呼び求める。すると主はその聖なる山から私に答えてくださる。セラ"
詩篇 3篇4節

 

"いにしえから天の天を御される方に。聞け。神は御声を発せられる。力強い御声を。"
詩篇 68篇33節


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