日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

「最初の日本人宣教師 乗松雅休」

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 『乗松雅休について』        

 

序論
  乗松雅休は、日本最初のプロテスタント宣教師として知られる。しかし、多くの日本人はおろか日本のキリスト教会において、その名を知る人は多いとは言えないだろう。その理由として、乗松がプリマス・ブレズレン派という小さなグループに属していたことが挙げられる。しかも、この群れは「恥はわれらに、誉れは神に」をその行動の標としていたため、自らの行動の功績を公にすることを好まなかった。
 しかし、1970年代半ばに、日本基督教団小田原教会の大野昭牧師が、雑誌「福音と世界」で無名の乗松を紹介したことを発端として、乗松の朝鮮 (※1)における働きがクローズアップされるようになっていった。
 1921年1月に、乗松が57歳で天に召されたときに、彼の朝鮮伝道でキリストに導かれて伝道者になった二名のうち金太熙(キムテヒ)が葬儀の席でこのように述べた。
イエス・キリストは神様であるのに、人とおなりなされた。この愛に励まされて乗松兄は朝鮮の人を愛しました。世の中に英国人になりたい人たくさんあります。米国人になりたい人たくさんあります。けれども乗松兄は朝鮮の人になりました。この愛はいかなる愛でありましょうか。」
 当時、多くの朝鮮人にとって日本人は無慈悲な征服者であり、憎悪を抱いて当然の敵であったにもかかわらず、「朝鮮の人になりました」と言われた乗松の生き方は注目に価する。

 

1. 出生から献身
 乗松雅休は文久三年7月12日(1863.8.25)に愛媛県松山市で生まれた。幼名を虎太郎といい、父親は忠次郎(松山藩士)、母親は定子の一男三女の三子として生まれた。
 勝山小学校、松山中学校を卒業し、明治十三年に上京して松山藩久松家の学生長屋に入り、その後、神奈川県庁に就職する。このとき乗松が下宿した家の女性が、日本最初のプロテスタント教会である横浜海岸教会の熱心な信者であり、その女性に連れられて教会に行って以来、乗松は熱心に求道を続け、24歳で洗礼を受けた。
 当初、乗松はその女性の誘いには消極的であったが、明治19年4月27日に郷里で父親が死んだことを機に、積極的に教会へ行くようになった。このとき、横浜海岸教会にはリバイバルが起こり、青年伝道者が起こされるように、連夜の祈祷会が催された。乗松は、友人の首藤新蔵とともに職を捨て、明治20年秋、伝道者となるために明治学院へ入学した。恐らく、このまま学びを続ければ、彼は明治学院の母体であった日本基督教会の教職になっていたであろう。しかし、乗松は卒業を前にして、明治学院を中途退学したのである。

 

2. プリマス・ブレズレンへ
 その原因は、イギリス人宣教師H.ブランドとの出会いである。このH.ブランドはプリマス・ブレズレン派 の宣教師である(※2)。
 プリマス・ブレズレンは、19世紀初期にイギリスのプリマスで始まった信仰運動である。この群れは、聖書だけに絶対的な権威を認め、制度や儀式にとらわれず、職業的教職制度を認めず、お互いを兄弟(ブレズレン)と呼び合い、熱心に伝道した。祈りによって孤児たちを養い育てたアイルランドジョージ・ミュラーや、讃美歌「いつくしみ深き」を作詞したジョセフ・スクライヴェンもこのグループである。この運動はイギリスばかりでなく、アメリカ、カナダ、アフリカなど世界各地で起こったが、特にプリマスで始まったブレズレン運動によってできた勢力をプリマス・ブレズレンと呼ぶ。しかし、このプリマス・ブレズレンという呼び名は、外部からつけられたものであり、プリマス・ブレズレン派の信者は、そのような一教派的な扱われ方を嫌う。
 当時、横浜海岸教会にはユニテリアンや自由主義神学の嵐が起こり始めており、プリマス・ブレズレンもそのような教えの嵐の原因の一つとなっていた。   
横浜バンドの中心的働きをした植村正久は以下のように諸教会に対して注意を呼びかけている。
「今やドイツ派偏理的のキリスト教徒はその機関たる真理によりて、得意の神学を拡張せんことを務め、ユニテリアンまたこれに嗣ぎ来たりて、講壇に雑誌に、その宗旨を弘めんことを図れり。これと同時にキリスト教徒中最も頑固なるプレモス・ブレズレンの徒また入り来たりて、その奇僻なる教義を説き他派教徒の中にその種を蒔きて、大いに収穫するところあらんとす」
 このような背景があり、日本基督教会の青年たちの内の一群がブランドと会い感化されプリマス・ブレズレンへ転じていったのである。その中に乗松雅休もいた。当時、神学生だった乗松も他の先輩信徒も、ブランドの「丸腰」「手弁当」で日本に来たというスタイルに引き込まれていった。それは、ブランドに惹かれたというよりは、固定化した制度によらず「祈祷と霊感」をもって宣教する姿勢に影響を受けた。それは当時の日本基督公会として始まった横浜バンドを初めとする日本のキリスト教会への反発があったと言える。それは公会主義=無教派主義=信条敬遠主義と言わざるを得ない傾向をそもそも持っていた中にあって、結局は教派主義的傾向に傾いたことで、それは熱心な青年信徒にとっては許しがたく、そこに現れたプリマス・ブレズレンのような非制度を前面に掲げる群れが新鮮に映り、タイミング良くその受け皿になったということである。
 以上のことから、日本橋教会の長老たちと乗松自身も一斉に退会し、「丸腰」「手弁当」スタイルの伝道の旅が始まったのである。
 明治22年(1889年)10月。日本橋教会を離脱した一団は、初めてブランドとともにパンを裂いた。現在でもブレズレンでは聖餐を「パン裂き」という。主の食卓に集う信徒は共に主にある兄弟姉妹であり、信者間においては誰をも「先生」とは呼ばず、牧師、教師などの教職も存在しない。ブランド宣教師もプリマス・ブレズレン的には宣教師ではなく「宣教者」であり、呼称は「ブランド兄」である。


3. 国内伝道
 日本橋教会を離脱した乗松雅休は、明治23年を京浜間で過ごし、その後、紀州、大阪、京都、九州等で伝道し、明治28年には越後を根拠として、北越、信州に伝道し、燕町では投石、コップ、ランプの粉砕などを受ける迫害に遭っている。同年8月にはその地を訪ねたブランドも投石で負傷し警官が出動する事件が起こった。ところが、その時投石した青年のうち石黒林作は、のちにバプテスマを受けてキリスト者となったのである。
 明治29年には、乗松は北海道小樽まで来たこともある。それは白洋舎の創設者である五十嵐健治が北海道で入信したことが伝えられたからである。この五十嵐健治と乗松雅休は、主にある兄弟としての交わりを続け、五十嵐は後に、乗松の納骨のために朝鮮に同行するほど固い絆で結ばれていた。また五十嵐自身とその一家も、プリマス・ブレズレン(日本においてはキリスト同信会)の働きを担った。
 以上のように明治20年代は、乗松にとって休まることのない伝道の時であった。前述のブランド負傷事件について触れている記録は以下の通りである。
「八月十四、十五の二晩、燕町にて炭屋の土間を借りて福音を伝えた。十五日の晩、子供がランプの周囲に居てランプを吹き消し、つければ又消し、段々と騒がしくなり、始めから警官二名出張して居り、時々制止してくれたが仲々聞かず、遂に乗松兄話を中止して余等戸外に出て帰途についた時、群衆が石を雨霰の如く投げ《チャンチャン坊主殺せ、殺せ》《川へ投げろ》と叫びつつ小高村の境まで追いかけて来た。町中の大騒ぎとなり、後ろの方では訳も分からず、あるいは火事と間違えて駆出す者もあるような事であった。ブランド兄は肘に負傷せられ出血を見るに至った。漸く小高村の乗松兄の家に着いて主に感謝をささげた。」
 
4. 朝鮮伝道
 1896年12月に、乗松は単身で朝鮮に渡った。これが日本人による海外宣教の記念すべき第一歩であった。
 なぜ乗松はこの時期に朝鮮へ渡ったのか。それは、その二年前、同信会の一人の信徒が朝鮮へ行き、彼を通して朝鮮の事情を聞いたことがきっかけであった。その話しによると、ある朝鮮の青年が日本でキリスト教を信じて帰国すると間もなく、禁令を犯したかどで死刑に処されたということだった。
またそれに加え、当時日本に亡命していた朴泳孝(パクヨンヒョ)との出会いも大きな要因となった。朴は朝鮮近代史における開化派 のリーダーの一人で、政争に敗れ失脚し、日本に亡命したのであった。乗松は、この朴からも朝鮮の実情を聞いたと考えられる。ある記録によると1895年朝鮮の皇后閔妃(ミンピ)が日本の暴徒によって寝殿で虐殺され、朝鮮国の体面が踏みにじられた事件があり、その事件に乗松は非常に心を痛め、「もっと深く神との交わりの中で、朝鮮の人々が神の愛を知ることによって、真の幸福の生活に入るのでなければ、このような問題の解決にはならない」と感じたようである。
この事件後に、日本による朝鮮植民地化は急速に進み、それに反対する朝鮮人の抗日運動も激しくなっていった。そのような背景の中で、乗松は朝鮮半島に上陸したが、乗松の伝道にとって多くの困難が障壁となった。言葉の壁、文化・習慣の違い・経済的困難など多くの障害があった。しかし、乗松が朝鮮人に伝道する上で最大の障害は、乗松が日本人であったことである。
しかし乗松はソウルで朝鮮語を学び伝道し、三年後に一時帰国後、同じ同信会の佐藤常子と結婚し、1900年の夏にソウルの南郊外にある水原(スウォン)というところに住み、以降そこを拠点として伝道を進めた。日本から訪問したある信徒は、当時の乗松一家の様子を次のように伝えている。
「衣服も、食器も、住宅も、悉く朝鮮式であるのみならず、その頃4~5歳の由信さんが、朝鮮語の他に語らざるを見て、乗松兄は愛するお子さんに朝鮮語のみを教え、日本語を教えなさらぬを知りて驚けり。これ乗松兄が朝鮮伝道の祝せられたる理由の一つと思えり。」
 当時の日本人は、朝鮮人に日本語を語ることを強要し、自分からは朝鮮語を学ぼうとしないのが普通であったので、乗松のしたことは当時の日本人の常識を超えていたのであった。 このような乗松の宣教姿勢は豊かな実を結び、水原や京城だけでなく、朝鮮各地に信じる者の群れが起こされ、朝鮮人伝道者も誕生していった。ただし、乗松一家は宣教のための資金があるわけではなかったので、経済的困難は実に厳しいものであった。4人の幼い子どもを抱えて、おからで飢えを凌ぐこともあった。
 1904年、妻常子が4人の子どもを残し召された。その死因は定かではないが、貧困と無関係ではなかったと思われる。その後、同信会の加藤和子と再婚し家庭の安定を取り戻した。
 1910年、日本は朝鮮を強制的に併合し、日本人による植民地支配は本格化していった。しかし、キリストの愛に支えられた乗松の宣教は豊かに実を結び、多くの人々がキリストを信じ、立派な会堂も与えられた。1912年の記録では、水原で400人近い参加者による大きな集会が持たれ、この集会で49人がバプテスマを受けている。1914年、乗松一家は、朝鮮を引き上げ帰国する。理由は、長年の貧困と闘いながらの伝道生活は彼の健康を大きく損なってしまったからである。乗松の朝鮮宣教への思いは変わらなかったが、続けられるからだではなかったのである。当時、一人の日本人が去れば喜ばれた朝鮮の地であったが、乗松の送別のときは、多くの朝鮮の人々が感謝と誠の涙をもって乗松とその家族を見送ったという。
 1921年、乗松は57歳で天に召された。彼の遺言により骨は水原に埋葬された。そこには今も、韓国キリスト同信会水原教会が建っている。1979年、その水原教会献堂式が行われた。その時、同信会信徒で詩人でもある李烈(イヨル)の詩が朗読された。
「(抜粋)…私たちは、豊臣秀吉の日本を憎みます。伊藤博文の日本を憎みます。彼らは武力で我が国を踏みにじり、手練手管 で我が民を籠絡 しました。しかし、かの名もなき乗松の日本を愛します。彼は、暗闇に閉じ込められた我が国に、真の光を証しするために参りました。絶望の底で、ためいきをつく我が民に、いのちのみくにを望み見させました。…」

 

5. 神に栄光を帰す歩み
 私が乗松雅休を知ったのはごく最近のことである。それも私がブレザレン出身であったにも関わらず、知ったからと言って、さほど興味を持っていなかった。ところが、この学びを通して初めて具体的に乗松雅休を調べ、その歩みを知っていく中で、多くの感動を覚えさせられた。特に宣教史における乗松雅休の果たした役割は大きいと言わざるを得ない。
 第一に、明治期のキリスト教会において、当時のスタンダードを捨ててプリマス・ブレズレンに転向したことは、当時の教会世相を反映していると言える。
特に横浜バンドと言われる旧日本基督教会から乗松が離脱する背景には、外国資本に依存する日本の教会事情があった。発言力を持つ外国教会の教派色が公会主義に水を注し混乱を招いていた。明治学院に入学し献身を志していた乗松は、教派にとらわれない公会的なスタイルが崩れていたそのときに、ブレズレン派の宣教師ブランドと出会い、ブレズレン派のある意味自由な、既存の制度にとらわれない在り方に傾倒していく。今となってはブレズレン派の特徴は、プロテスタント教会の中にあって個性的にしか映らないが、当時のキリスト教会にとって、その存在は脅威でもあった。
 それは既存の教会、教派への挑戦でもあり、教派主義や自由主義神学が伝わってくる中で、ある意味原理主義的傾向が強いブレズレン派は若いキリスト者にとって、彼らの主張と絡み合って、ちょうど良い受け皿となったのだろう。その熱い信仰が直情的に、彼を朝鮮伝道へと押し出していったことは十分理解できる。
 第二に、乗松の時代を見越した宣教スタイルである。当時の日本は韓国を属国として支配しようとしていたし、事実支配していた。それだけに、乗松の宣教は苦労の連続であった。組織制度化された教派と違い、ブレズレン派は組織的な支援がない。その中で、乗松の宣教とその生活ぶりは私のブレズレン時代の宣教師や伝道者の生活をも彷彿させる。しかし、その貧しさを背負った宣教が韓国の人々の心を主に向かわせたのである。なぜならば、その姿こそキリストの姿であったからである。当時の日本のキリスト者事情は、士族や華族などの社会的身分の高い層の人が多かった。聖書翻訳も当時の知識階級に合わせた文語訳が主流であり、昭和の終戦後まで口語訳は出版されなかった。それに比べて韓国は、下層の人々でも読めるハングル語聖書が早くから出版されており、乗松の宣教姿勢と一致する。
 乗松は韓国の貧しい人々に伝道し、まさに自ら韓国人となって貧しい者のために来られたキリストを述べ伝えた。その姿勢が前述の李烈の詩の続きにも表れている。
「彼は…韓服を着、韓国語を語り、藁葺の家で、我が民の中でも一番貧しい人のように暮らし、我が国を、自分の国よりも、自分の子どもよりも、もっと愛しました…」
 乗松雅休は韓国人をひたすら愛しキリストを述べ伝えた。その働きが今もなお韓国の人々に賞賛され続けていることは、今日まで日本が韓国に犯してきた罪の歴史の中にあって、時代を見越すべく乗松を通して現された、地味ながら一際輝く神の栄光ではないだろうか。 

(文責:川﨑憲久)
 

※1:本稿では、歴史的文脈を考慮しつつ、参考文献に準じ「朝鮮」、「朝鮮人」という表現を使用する。
※2:プリマス・ブレズレン:日本において戦前より宣教活動していたものとしては、東京と大阪にあるいくつかのキリスト集会、そのほかハーバード・ブランドが実質的指導者として興したキリスト同信会がある。


【参考文献】
大野昭『最初の海外伝道者 乗松雅休』(キリスト新聞社,2000)
中村敏『日韓の架け橋となったキリスト者 乗松雅休から澤正彦まで』(いのちのことば社,2015)