のりさん牧師のブログ

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「勇士であったが…」士師記11章1〜25節

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※エフタが述べるイスラエルの歴史的説明については、地図を見ながら読むと理解しやすいです。

 

  世間は家柄や学歴や、その血統で人を判断するものです。聖書でも「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)と言われています。

  エフタについての情報も勇士であるということで十分であったはずです。しかし、1節ではあえて、「勇士であったが、彼は遊女の子であった」と追加情報を提供しています。

  そして、その父親ギルアデの不始末で生まれた子として、ギルアデ一家から追い出されてしまいます。

  恐らくエフタは長子であったと思われます。律法によれば嫡出子でなくても、長子は相続の権利を持っていたからです。

 

"ある人が二人の妻を持ち、一人は愛され、もう一人は嫌われていて、愛されている者も嫌われている者もその人に男の子を産み、長子が、嫌われている妻の子である場合、
その人が息子たちに財産を受け継がせる日に、長子である、その嫌われている妻の子を差し置いて、愛されている妻の子を長子として扱うことはできない。
嫌われている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の取り分を彼に与えなければならない。その子は父の力の初穂であるから、長子の権利は彼のものである。"
申命記 21章15~17節

 

  しかし、ギルアデとその家族は、エフタに相続させないために、家を追い出すことで体裁を整えようとしたということです。エフタは、家を追い出されて、トブの地に住むことになり、そこにはならず者が集まっていました。そこは、社会的に枠からはみ出た者たちの住処だったのです。

 

  そんなおり、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきました。そこでリーダーのいないイスラエルにとって、やはり遊女の子であっても勇士が必要になったのです。ギルアデの長老たちは、一度追い出したエフタを連れ戻そうとします。

   この場面は一見、ギルアデの長老たちの行動は都合よく思えます。彼の賜物、その能力を認めながら、ギルアデ一家は彼をならず者と同じレベルにまでおいやっておきながら、状況が悪くなると、手のひらを返して連れ戻そうとする。しかし、ここで彼らは主の前に契約を結び、その契約によって前進することを選択します(8〜11節)。

  ここにの契約の民イスラエルらしい側面を見ます。人間的な恨み辛みに立つのではなく、主に間に立っていただき、「主の前に(11節)」契約を交わして、リセットして前に進む。このことは、現代のキリスト者においても大切な視点であり態度ではないでしょうか。

  このあとエフタは、アンモン人の王に使者を遣わしてイスラエルの歴史を振り返り、イスラエルの立場がイスラエルの神、主にあって正当であることを告げます。非常に端的に正確にイスラエルはアンモン人から土地を奪っていないことを誠実に語ります。あくまでイスラエルの神、主によってアモリ人を追い出したその地をアンモン人であるあなたがたが取ろうとしていると、アンモン人たちの不正を指摘したのです。

  この説明を見ても、エフタが勇士であり、また士師としてその知識も豊かであったことが明らかです。士師とは、その名の通り、武力や戦術における勇士でありつつ、民の上に立ち師として、民に教える素養も必要であったからです。

   決して遊女の子であることで、何も劣る者ではなかったのです。

  主は心の貧しい者を顧みられます。先の申命記庶子に対する律法も、その一面が表されていると思います。

   今日、主は遊女の子であったエフタを連れ戻し、士師として召し出されました。そして、それは人間的な恨み辛みによってではなく、主の前における契約の中で聖別され、主の働き人として用いられたのです。

  私たちも勇士として召されている一人ひとりではないでしょうか。しかし、その出身はイスラエルの民ではなく、世界的に見れば極東の日本人です。契約の民ではありません。しかし、神は御子キリストによって隔ての壁を打ち壊し、イスラエルがうけるはずだったアブラハムの契約にある祝福を異邦人にも与えてくださったのです。  

   今、私たちはキリストにあって、信仰の民イスラエルとされたのです。人間的な方策ではなく、神が御子にある新しい契約によって、そのことを実現してくださったからです。

  今日、もう一度、私たちが立たされている祝福を味わいましょう。そして、エフタがそうだったように、語るべきことを語り、為すべきことを為す者として、イスラエルの神、主によって用いていただこうではありませんか。

 

"あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。
あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。"
エペソ人への手紙 5章8~9節
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