2018年7月23〜24日に、苫小牧福音教会(水草修治牧師)での組織神学集中合宿に参加させていただき、学んだことを私(川﨑)なりにまとめさせていただきました。教えの嵐に吹き回されやすい昨今の教会にあって、一信徒としても有意義な学びであると思います。この学びを通して、キリスト者一人ひとりが、ひいては各々の教会が何をどのように信じ、自らをキリストの教会、またキリスト者たらしめているのかを確認することができ、整理できれば幸いです。
⚫️組織神学序説
1.神学とは
「私はこう祈っています。あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。」
ピリピ人への手紙 1章9~10節
パウロはエペソの長老たちとの訣別の際、偽教師の出現を警戒していました。そこで、使徒パウロは彼らに教会を託すにあたり、「神のご計画のすべてを、余すところなくあなたがたに知らせた」(使徒20:27)と言いました。それは、異端は神のことばの一部を偏重するところに生じるからです。聖書を知るためには「木を見て森を見ず」ということにならないように気をつけなければなりません。そのために組織神学は有効なのです。
2.教理・教義・信条
教義の例:「イエスは神のひとり子である」、「神は天地万物を創造された」など。
しかし、これは信徒個々の信仰としてだけではなく、共同体としての教会の聖書に基づく表現です。
●教理とは、教会が神のことばに基づいて理論化した教えです。ポイントは三つ。
①教理形成の主体は信者ではなく教会であること。
②それは神のことばに基づくこと。
③理論化された言明であること。
●教義とは、諸教理のなかで特に重要なものであり、それを信じなければ、教会によって異端と認定されてしまうような教理のことです。
聖書を信じると言うことは大切ですが、それだけでは漠然とし過ぎていて、異端・異説と区別ができないのです。異なる教えと区別するために諸信条が生まれてきました。
3.神を愛するために
神学を学ぶための注意点
①神学の対象である神は霊であるということ。神はモノではなく霊ですから、生ける神を知りたいならば、私たちは自分の心を開いて、神に知られることを受け入れなければなりません。
「神よ私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。」
詩篇 139篇23節
②神は無限の人格であること。だからすべてを知ることはできません。だからこそ、その神が私たちに近づいてくださり、私たちにわかる方法で啓示してくださったことは知ることができますし、知るべきです。
③この霊である神の前にひれ伏し、愛するためにこそ、神学をすべきだということ。知識は人を高ぶらせます。しかし、愛は人を育てます。神学にとって知識は有用ですが、知識とは神を愛するための手段であって目的ではないことを忘れないでいたいものです。
④神を愛することと隣人を愛することとは密接不可分であること。
"神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。"
ヨハネの手紙 第一 4章20~21節
4.聖書啓示の方法と神を愛すること。
①聖書本文に立ち返り、教理が抽出された具体的な歴史における啓示の出来事を味わい直し、神の前で思い巡らす。
②教理成立の歴史的背景を考慮する。
③教理を学んだら、実生活に適用し命がけで生きてみること。
5.キリストを通して神を知る
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」ヨハネの福音書 1章18節
旧約時代にも神は啓示をお与えになったものの、神はその目で見えるように知った者はいませんでした。しかし、父のふところにおられる御子がその父である神を明らかにされたのです。
またイエスはこうも言われました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
ヨハネの福音書 14章6~7節
こういうわけで、私たちが神と神の御旨を具体的に知ることができるのは、キリストを通してであることがわかります。キリストを通してこそ生ける神を知り、キリストを通してこそ人間が何者であるかを知り、キリストを通してこそ聖霊を知ることができ、キリストを通してこそ教会とは何かを知ることができるのです。
6.新説とは、未検証・未確定の説である
神学でも聖書学でも、最新の学説が正しいとは限りません。最新のもの流行のものが正しいという固定概念は、19世紀の進歩主義のせいか、自然科学を学問の理想型とする考え方のせいか。ルネサンス期には、古いものほど良いという思想がありました。文化は段々と頽落してきたという歴史観もあります。
新説とは、最良の説ではなく、まだ十分な検証を経ていない、怪しげな説であるということを意味するのです。
神学や聖書学の学説について、やたらと新しいものに飛びつくことは、愚かしいことです。私たちにとって大切なのは、神のことばである聖書に忠実であるかどうかです。学者は学会で新説を含む学説を発表する必要があるかも知れません。しかし、私たちにとって大切なことは、それが聖書が教えている真理かどうかです。聖書自体が教えている聖書解釈の方法に則って読み取られた聖書の真理にかなっているかどうかなのです。