のりさん牧師のブログ

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「何を論じあっていたのか」マルコ9章30〜37節

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マルコの福音書 9章30~37節

30さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。
31それは、イエスが弟子たちに教えて「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる」と言っておられたからである。
32しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。
33一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」
34彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。
35イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」
36それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。
37「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」"

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

  前々回、イエスはペテロ、ヤコブヨハネだけを連れて山に登られ、そこでイエスの衣が真っ白に輝き、モーセとエリヤと会って話す場面がありました。

  そのとき、天から声がして何ということばが語られたか覚えておられるでしょうか。

 それは、「これはわたしの愛する子、彼の言うことを聞きなさい。」でした。そして、そのことばの意味として、神の御子であるイエスのことばを弟子としてしっかり聞くようにということであったということです。

  ところが、今日の箇所において、このように書いてありました。

 

「30さて、一行はそこを去り、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。31それは、イエスが弟子たちに教えて『人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる』と言っておられたからである。32しかし、弟子たちにはこのことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」

 

  イエスがご自身の十字架刑による死と復活について語られたにも関わらず、弟子たちは、そのことばを聞いていながら、理解ができなかったというのです。しかも、そのことを師であるイエスに尋ねることを恐れていたというのです。

  それは、どうしてでしょうか。それは恐らく、前回言われたことをもう一度言われたくなかったのではないでしょうか。前回は、口をきけなくする霊につかれた息子を、イエスの弟子たちは治すことができなかったとき、イエスはこう仰せられました。

 

"イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」"
マルコの福音書 9章19節

「いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」ということばは強い意味をもっていることばです。しかし、イエスがこのように言われたのは、彼ら自身の人間としての弱さや無力さに対してではありませんでした。逆に自分はできるという高慢に対するイエスの叱責だったのです。

  しかし、彼らは今回も、そのプライドを傷つけられることをおそれたのでしょう。なぜなら、イエスがご自身の最期のことを真剣に語られているタイミングで、彼らの関心事は、「この中で、誰が一番偉いか」だったからです。

  この高慢な心がある限り、またイエスに叱責されることは免れないでしょう。彼ら自身がそのことを自覚していたので、誰もイエスの質問に真正面から答えることができませんでした。

  しかし、ここでのイエスの質問がとても興味深く、面白いです。

 「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」

  イエスはわからなくて質問したのでしょうか。そうではありません。全てお見通しでありながら、彼らが自分たちの間違いを認めて、イエスに告白することを、待っておられたのです。イエスは神の御子であり、神ご自身ですから、まさに神としてのご性質として、この問いに表されています。

  かつてアダムとエバが罪を犯して隠れていたとき、園を歩き回られる神は何と言われたか。それは、「あなたはどこにいるのか」でした。

 また、カインが弟アベルを殺したとき、こういう声を聞きました。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と。

  これは全て神は神ご自身が、彼らの居場所や心がわからなくて質問しているのではありません。アダムが、またカインが自分から告白することを待っていたということです。

  同様に、彼ら自身の口から、自分がどれだけとんちんかんなことを語り合っていたのかを告白して、その間違いから立ち直ることを期待されていたのです。

  ですから彼らは叱責を恐れていたのかも知れませんが、イエスはきわめて優しく、言葉では理解できないくらい愚かな彼らに理解しやすいように、小さな子どもを抱きかかえて言われるのです。

 

37「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 

 人の前に立ちたいなら、まず仕える者とならなければならないこと。それは、人を見下す姿勢ではなく、このような無力で愚かだとされている子どもを受け入れることができなければ、イエスをも、また父なる神ご自身をも受け入れてないことと同じだと、子どもという視聴覚を用いて教えられたのでした。

  それは、自分が立派だとか、自分は偉いと思っているうちはできないことです。自分自身が何よりも無力で愚かであることを認めなければ、この子どもたちを受け入れることはできません。なぜなら、神は。そのへりくだった心と態度の者を神の国に相応しい者として招いておられるからです。

  それは、旧約聖書の時代から一貫している神の招きだからです。セツとその子エノシュも、モーセもギデオンも、何と言ってもイスラエル民族も、その弱さ、頼りなさ、小ささのゆえに、そこに神の栄光が現されるために選ばれているのです。(Ⅰコリント1:26〜29)

 

  今日、あなたはこのイエスの招きにどう答えるでしょうか。イエスはあえて問われます。

「何を論じ合っていたのですか。」

今日ためらわず、イエスに心のうちすべてを明け渡しましょう。主はあなたを神の国の国民とするために招いておられます。

 

"神よ私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。
私のうちに傷のついた道があるかないかを見て私をとこしえの道に導いてください。"
詩篇 139篇23~24節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会