日本メノナイト白石キリスト教会

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◎特集:『語彙研究】新約聖書における「貧しい」 poor についての考察

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画:「山上の垂訓」(カール・ブロック)

 

1. 【新約聖書】でのpoor

① πτωχός [34] 形容詞 「貧しい」        

●語源《πτωσσω うずくまる、ちぢこまる》

(共観福音書20回、ヨハネ4回、パウロ書簡4回、ヤコブ4回、黙示録2回。)

 ※πτωχεύω[1]動詞   πτωχεία[2]名詞  

 

② πένης[1]形容詞 (Ⅱコリント9:9)名詞的用法「貧しい人、貧乏人」 LXX.詩篇112:9引用。

πενιχρός[1] 形容詞(ルカ21:2)「貧しい…やもめ」  

 ●語源《πόνος 労働、苦痛、苦しみ》

 

2.新約聖書において圧倒的に使用頻度が多いπτωχόςが使用されている箇所から「貧しい」を考える。

① 福音書における「貧しい」

 福音書においては、山上の説教のマタイ5:3「心の貧しい者は幸いです。」から始まる。しかし、時系列的に見るならば、ルカ4:18「ナザレの会堂」における主イエスによるイザヤ書の朗読が最初に来ると考えられる。つまり「貧しい人々に福音を伝える」メシアであるご自身をまず旧約聖書から明らかにし、宣言されたということができる。

 ここで使われている「貧しい」は、第一義的には文字通りの生活困窮者であると言える。特にルカ6:20「平地の説教」においては「山上の説教」にある「心の」が使われず、直接的に生活困窮者のことを指していると思われる。しかし、ギリシャ語で「貧しい」を表わす単語が二つある中で、πτωχόςが使用されているのはなぜだろうか。

 πτωχόςの語源は、うずくまる、ちぢこまる(πτωσσω)である(1)。一方、πένηςにおいてはⅡコリント9:9でしか使われておらず、πενιχρόςもルカ21:2(貧しいやもめ)にしか使用されていない。ただし、πένηςもπενιχρόςも語源がπόνος(労働・苦痛)であることにより、「うずくまる、ちぢこまる」が「労働・苦痛」の結果もたらされる状態を表わしていることから、πτωχόςの方が「貧しさ」のレベルが重いことがわかる。バークレーによると、「πένηςは、豊かに暮らしている人の反対側の人々を単純に指している。…πτωχόςは、本当に餓死する危険が内在している情けない貧乏を言う」と解説されている(2)。

 野上綾男師が釜ヶ崎の生活困窮者について、貧しさの極限状態にある人たちにとって、お金は問題解決の手段にならないと語られたことを思い出す。単なる経済的困窮者であれば、お金があれば生活を軌道に乗せて、生活の安定につなげていけるかも知れないが、そこに社会的、民族的な傷が加われば、その傷は簡単には癒せないということだろう。

 そのような貧困の現実を鑑みれば、ここで言う第一義的な「貧しい」とは、手の施しようもなく落ちぶれた状態。その困窮ぶりが生命に関わるほどの窮まった、お金では解決できない状態であると言うことができる。そういう意味で、ルカの福音書に見られる「平地での説教」での「貧しい者」に語られた主イエスの言葉は、非常に強い慰めと励ましに満ちた革命的なメッセージが込められていることがわかる。

さらに、ここに「心の(πνεύματι)」が入ると更にその意味が変ってくる。直訳すれば「霊的に」という意味であるから、ここでの「心の貧しい者」とは経済的、社会的貧困ではなく、霊において苦しみ、うずくまっている状態ということになる。それは、言うなれば神から遠ざかって苦しみ、行き場を失っている人すべてということはないだろうか。それが神との断絶まで含んでいるとしたら、それはもう人間の力ではどうすることもできない。

  だからこそ、そこに神の御子が立っておられる。だからこそ、キリストがその貧しさを自ら負い、十字架にかかって死んでくださった。その贖いの業が「心の貧しき者」を天の御国に近づけたのである。あとは、その救いを用意された神の前に、そのままの自分を認めて、その救いを受け取るだけである。それが福音である。
この箇所の解釈は新聖書注解では、「富の多少ではなく、自分の心の破産状態を知って神により頼む者」という意味があると言われている(3)。W・バークレーも「絶望的なほどの窮乏を自覚し、神においてのみ、その窮乏が満たされることを心から確信している人は幸いである」と言っている(2)。

  ⇒ヤコブ2:5「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。」

 

② キリストのへりくだりを表わす「貧しい」…Ⅱコリント8:9

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

 ここでも、主イエスが実際に金持ちだったか貧乏だったかという話ではなく、ピリピ2:6~8にあるように、主は神としての栄光のお立ち場を捨てて、仕える者の姿をとって来られたという意味であると言える。つまり、へりくだられたということである。

 

③ 「貧しい」と訳されていない唯一の箇所…ガラテヤ4:9

「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」NIV「weak and miserable…」(弱くて惨めな)、新共同訳「無力で頼りにならない」⇒役に立たない、どうしようもない最低な状態を意味していると思われる。

 

④ 黙示録で解き明かされる「貧しい」の意味の深さ

 Rev.3:17「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」

 ⇒ただ貧乏だというよりも、みじめ、哀れ、盲目、裸といっしょに使うことにより、価値のない者を強調している。これまで見て来た新約聖書の「貧しい」πτωχός=poorの使用状況から、ここで使用されている「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」とは、すべて「貧しい」に置き換えることができる言葉であると言うことができる。ここにマタイ5:3で言われる「心の(霊的な)」が付加されることによって、霊的にみじめで、哀れでまずしくて、盲目で、裸の者でというふうに、「貧しい」に含まれるより具体的な意味が伝わってくる。

 

⑤ マタイの福音書における「貧しい」で繋がるエピソードの連続性

  Matt5:3~Matt11:5~Matt19:21~Matt26:9~Matt26:11

  前述したように、主イエスのメッセージは革命的であった。それは「貧しい者」が天の御国に入るという、当時の常識を根底から覆すことであったからである。バプテスマのヨハネはヘロデに捕えられたとき、イエスが本当にメシアなのか、弟子を通してその真意をイエスに尋ねた。答えは「貧しい者たちに福音が伝えられている」ことがその証拠であった。それでは、その貧しい者とはだれなのか。

そこに現れた金持ちの青年は、自らを完璧だと思いつつも確信がないため、永遠のいのちを得ていると主イエスからのお墨付きを期待した。しかし、彼はイエスよりも高い場所に自分を置いていることに気がつかず、全財産を手放すチャレンジに悲しみながら去ってしまった。そのあと、ナルドの香油の事件があり、ベタニヤのマリアの行為に憤慨する弟子たち。しかし主は、彼女の行為を喜ばれた。それは主への油注ぎであり、そのために聖別して、主への愛を具体的に表わしたからである。「貧しい人たちに施しができたのに」という弟子たちの言葉は、そのまま自らに返って来る。その言葉には貧しい人たちに対する愛はなく、また主に捧げようとするマリアのような主への愛もなかったが、主にいのちをかけているという自信があった。しかし、十字架を目の当たりにして、その自信は打ち砕かれた。ペテロは復活の主に三度も「わたしを愛するか。」(ヨハネ21:15)と問われ心を痛める。
彼らは体験をもって自分の貧しさを知った。そこで真の油である聖霊の注ぎを受けることになる。

 

出典:

(1) 「新約ギリシャ語辞典」(岩隈直著)山本書店P.415    

(2) 「新約聖書ギリシャ語精解」(W.バークレー著)日本基督教団出版局P.310

(3)「新聖書注解新約1マタイの福音書」増田誉雄著(いのちのことば社)P.91

 

文責:川﨑憲久

 

新約聖書における「貧しい」の使用例と私見についてのリンクはこちらから。

https://drive.google.com/open?id=1vfHfhzObBTXOGs_4nJbsKKdrbLhPa_Pc