日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎特集「剣を取る者は」マタイ26章52節についての考察

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序 論
 人間の歴史は戦争の歴史であり、そこに宗教が必ず関与している。特に聖書の歴史も人と人の争い、戦争を避けて説明することはできない。そこで、その最小単位であるキリスト者個人が武器を取ることに注目しようと思った。聖書はキリスト者が武器を取ることについて、どのような答えを持っているのか。イエスが語られたことばからそのことを調べたいと思わせられた。それで、マタイの福音書26章52節に記されている「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」に着目し、このイエスのことばを書き残して、著者は何を言いたかったのか考察する。

 

本 論
Ⅰ.翻訳比較(ギリシャ語、日本語、英語)
 本論文の釈義上問題となるような箇所は見当たらなかったが、「剣」を納める場所について、新共同訳が「さや」と訳出している。並行箇所ヨハネ18:11を見ると「剣」を納めたのがθήκη(さや)であることが示されているため、新共同訳の翻訳作業において「さや」と確定したことが推定できる。UBS5版もネストレ28版も「さや」を意味するθήκηは使用していないため、これは新共同訳の意訳であることがわかった。

Ⅱ.本文批評
本テキストにおいて、UBS5版はネストレ28版と何の違いもなく、他にも異本がないと判断し、このまま釈義を進めるものとする。

Ⅲ.問題の提示
①「剣」μάχαιρα の語彙研究
 新約聖書における「剣」μάχαιρα は、福音書のイエスの逮捕の場面に集中している。μάχαιρα を構成しているμάχη は「争い」を意味する名詞であり、聖書全体では、実際的な戦争における武器として400回以上も言及しているほかに、象徴的な意味で、戦争、争い、苦痛、暴力、神のことばなどを表現するために用いられている。マタイにおいては、本テキストの場面と10:34に限定して用いられている。

②ペリコーペ分析
 本テキストの並行箇所を見ると、マタイとマルコは、ほぼ同じ内容を記しているのに対し、ルカ、ヨハネは違った角度からこの場面を描いている。特に、ヨハネによれば剣を取った弟子はペテロであることがわかり、ルカによれば剣で打とうと思ったのはペテロだけではなく、イエスの周りにいた弟子たちもそうであったということがわかり、またペテロによって耳を切られた大祭司のしもべがイエスによって癒されたことがルカにより明らかにされている。

③文脈の検討
エスは、彼らの武器に対抗するだけであれば、神に祈願し、ローマ帝国の大軍にまさる天の御使いを配下に置き、それを撃ち滅ぼす力を持っていることを明言した。しかし、イエスはその力をあえて用いない道を選択したのである。その理由の一つとして旧約聖書の預言成就のためであることがイエスの言葉からわかる。それは、このまま捕えられて十字架に架けられることを意味していると考えられる。そういう意味で、ここで剣を振るうことは、聖書の預言の成就に逆らうという意味において相応しくないと考えられる。
 マタイの福音書における26章の役割としてわかることは、イエス旧約聖書で預言されていたメシアである数々の証拠の中で、イエスの弟子たちを含めて、当時の多くのユダヤ人たちがそうであったように、ダビデのような地上における政治的、この世的な王とは全く異なった姿のメシアとしてイエスが現わされたということである。つまり、この世の価値基準では到底受け入れられない王の姿である。この視点が本テキストを読み解くときにも必要であると思われる。

④問題の提示のまとめ
(1)イエスがここで剣を取ることをやめさせた他の理由は何か。
(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用することは正当であったのかどうか。
(3)本テキストとマタイ10:34とはどんな関連性があるか。

Ⅳ.  マタイ26:52の文法分析
以上の提示された問題の答えを読み解くために、イエスが語られた26:52の文法的な分析を行う。

①ἀπόστρεψον:「もとに納めなさい」 
 もともと語幹のστρέφω 自体に、「変える、返す、戻す」という意味があり、それに前置詞ἀπό が接頭辞として着く事により、イエスの弟子に対するこの命令には、公に取り出された武器としての剣を目に触れないように、片付ける、仕舞う、その状況から離れさせる意図があったと推察できる。それはつまり、その場で剣を用いることをイエスが認めていないということである。

②οἱ λαβόντες μάχαιραν:「剣を取る者は」
 λαβόντες は、動詞λαμβάνω の不定過去分詞能動態であるが、ここでは冠詞οἱ を伴う名詞的用法複数形であり、そこに「みな」(πάντες)が伴うことで直接的には、そこに居合せた剣を持つすべての人について言及していると言える。

③ἐν μαχαίρῃ ἀπολοῦνται:「剣で滅びます」
 ここで剣を取る者が「剣によって」(ἐν μαχαίρῃ)滅びることが説明される。新約聖書においてἀπολοῦνται は、その他の用例としては、失う、滅びる、救いに漏れるなど、文脈によって訳し方が異なるが、マタイにおいては17回用いられ、そのうち3回がイエスを殺害することについて用いられている。(マタイ2:13~18、12:14、27:15~23)

Ⅴ.マタイ10:34と26:52の関連性の分析
 10章との繋がりを考慮すると、26章の「剣」が字義通りの武器としての剣というだけでなく、分裂や争いなど、それら一切が罪から起こる結果として象徴的な意味での「剣」でもあるという可能性を示唆していると考えられる。そのように、10章と26章には「剣」、「滅び」という言葉において、関連性があると考えられる。それが著者マタイの視点で配置され、マタイの福音書として、イエスがメシアであり神の国の王として十字架に向うという、一貫した姿勢が描かれている。その十字架こそ神の国建設におけるイエスの、王として果たすべき務めだったからである。また同時に、10章でイエスが言われた「剣」に象徴される苦難に対して、弟子たちが26章でどうなったのかが明らかにされている。結果的に弟子たちは全て逃げてしまい、弟子として求められていた使命を果たせなかった。それによってイエスがお一人で、その「剣」が指し示すところの苦難を負われた事実に、イエスのメシアとして来られた目的である十字架の意味が見えてくる。
 以上のように、マタイの視点は26:52においても、イエスの贖罪を意識した意味を含んでいる可能性があると考えることができる。

 

結 論
 本研究において提示した問題についての結論として以下のようにまとめる。

(1)イエスが弟子に剣を取ることをやめさせた理由
 ①武力は、イエスがメシアとして建設する王国には相容れない方法である。
 ②武力がなくても神の計画は遂行される。
 ③武力に訴えるものはむしろ滅びる。

(2)イエスの弟子が防衛のために武器を使用すること  
 本論文の研究範囲において、その正当性が認められないことは、前述の理由から明らかである。

(3)本テキストとマタイ10:34との関連性
 本研究を通して得た以下のことを理由として、その関連性を完全に否定することはできないと考える。
 ①本テキストの「滅びる」というイエスのことばが、直接イエスの十字架の贖罪性に言及しているかどうかに
ついては、釈義においてそれを断言できるほどの証拠を得ることができなかったが、弟子たちが負い切れなか
った「十字架」という「剣」(苦難)と、また剣を取る者たちが受けるべきἀπόλλυμι 「滅び」をイエスが負
われたことを示している二重の可能性があること。
 ②10:34の「剣」を本テキストにおける「剣」に重ねることで、本テキストの意味が単に倫理的な事柄だけを言っているのではなく、マタイのテーマであるメシアなるイエスによる神の国建設にとって不可欠な十字架、復活、教会、終末に焦点が合わせられていくと考えられること。

 

適 用
エスは、ご自身をこの世に投じ「争い、分裂、暴力」としての剣を取る私の身代わりに滅びる者、失われる者となってくださった。キリスト者は、その十字架の犠牲に表された神の愛をまず受け取る必要がある。また、キリスト者は、その愛に押し出されて、御霊の与えるみことばの剣に日々聞き、教えられ、砕かれつつ備える者とされていかなければならない。キリスト者にとっての剣とは神のことばであると適用できるのではないだろうか。キリスト者はイエスがそうされたように、暴力としての剣ではなく御霊の与える剣である神のことばに立つ平和を選択することがまず求められていると推察する。ゆえにイエスは、ご自分で報復せずに神に全てのさばきを任せるという姿勢を表した(Ⅰペテロ2:23)。ここから、もし私たちが不当な攻撃を受け死に至ったとしても、すべてのさばきの主権は神にあるということを認めることが大切であると考える(マタイ6:33)。
 キリストが求めておられることは、後に来る完成した神の国を先取りした姿勢であり視点ではないか。現在は、神の国は到来したが、広がりつつもいまだ完成したとは言い難い。だから、一時的に、世の権力を認めつつ、この地に御国が来るように、御心が天で行われるように地でも行われるように祈りながら、やがて訪れる完成した神の国を見据えた信仰が求められると考える。

 

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文責:川﨑 憲久