"1それからイエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造った。垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。
2収穫の時になったので、ぶどう園の収穫の一部を受け取るため、農夫たちのところにしもべを遣わした。
3ところが、彼らはそのしもべを捕らえて打ちたたき、何も持たせないで送り返した。
4そこで、主人は再び別のしもべを遣わしたが、農夫たちはその頭を殴り、辱めた。
5また別のしもべを遣わしたが、これを殺してしまった。さらに、多くのしもべを遣わしたが、打ちたたいたり、殺したりした。
6しかし、主人にはもう一人、愛する息子がいた。彼は『私の息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に、息子を彼らのところに遣わした。
7すると、農夫たちは話し合った。『あれは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる。』
8そして、彼を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。
9ぶどう園の主人はどうするでしょうか。やって来て、農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう。
10あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。
11これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」
12彼らは、このたとえ話が自分たちを指して語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようと思ったが、群衆を恐れた。それでイエスを残して立ち去った。"
マルコの福音書 12章1~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
"「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」"マルコの福音書 12章10~11節
これは、 イエス・キリストが旧約聖書詩篇118:22〜23から引用したものです。
"家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。" 詩篇 118篇22~23節
家を建てる者たちとは、ユダヤ人のことで、神の国を建て上げるために神様によって選ばれ、期待されていた人たちのことです。そのユダヤ人たちは、古来、神様が遣わした預言者たちを侮辱し、迫害してきた歴史があります。
そのことを、このぶどう園の主人のたとえで語っているのです。
このたとえの中で、「ある人」が神であり、「農夫」はユダヤ人たち、すなわち「家を建てる者たち」です。
ある人が自分が経営するぶどう園にしもべを遣わして、収穫したものを受け取りに行かせました。しかし、農夫たちは「しもべの頭を叩き、辱めて」とあるように、ユダヤ人たちは、これまで神から立てられた預言者たちに侮辱を与えて迫害し、ときには殺しました。
それでも神は、ご自身と瓜二つの第二位格の御子を遣わせば受け入れてもらえるだろうと思い、イエス・キリストを遣わしましたが、彼もまた殺されました。
たとえの中では、これを語っているイエスはまだ殺されてはいませんでしたが、このたとえの特徴は、これから起こることの預言が含まれているということです。ですから、すでにこのあとの歴史を知っている私たちにとっては、わかりやすいたとえではないかと思います。
しかし、このたとえを聞いたユダヤ人の指導者たちは、まさに農夫が自分たちのことであると理解して、益々、イエスを殺す気持ちになっていったと考えられます。12節
ユダヤ人たちは、自分たちこそ神の収穫そのもの、神のぶどう園を支配していると自負していました。それは、神によって特別に選ばれていると、自分の功績のように誇っていたからです。
しかし神の御心は、ぶどう園のぶどうの収穫を喜ぶことであり、それを農夫たちであるユダヤ人たちと共有することでした。そのために、このぶどう園の主人である神は、「垣根を巡らし、踏み場を掘り、見張りやぐらを建て、それを農夫たちに貸して旅に出た」のです。つまり、段取りを全て整えて、ぶどう園の管理をユダヤ人たちに任せたということです。
だから、ユダヤ人たちは神の御心に相応しく、任された神の国建設に誠実に、へりくだって関わるべきでした。しかし、収穫のために遣わされた預言者たちを迫害したのです。それだけでなく、神と瓜二つの御子さえも殺して、神の主権を侵し、その罪の上塗りを続けてしまいました。
ところが、この彼らの暴挙さえも、神はご自身の救いのご計画に取り込み、彼らによって殺された御子こそ、その彼らの罪の贖いの子羊とされたのです。
彼らに捨てられた、彼らにとって価値がないとされたその石ころこそ、神によって神の国建設にとって欠かせない礎石とされたということです。ここに神の知恵があります。神の恵みの逆転があります。
"神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。"
コリント人への手紙 第一 1章21節
今、私たちに与えられている救いは、神の知恵によるものです。人々が価値ないもの、すてるべきものとして、見向きもしないもの、または、毛嫌いするこのキリストこそ、私、そして、あなたにとってかけがえのないお方なのです。
イエスご自身もこう言われました。
"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。"
マタイの福音書 7章13~14節
この狭き門であるキリストこそ、あなたの救い主、神の国の礎石、いのちの門です。
今日、あなたを招き、あなたを生かす、そして、もう一度来られて、完成された神の国に招き入れてくださる、このイエス・キリストをどうか受け入れて、ともに神の国の収穫に預かろうではありませんか。
"聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。"
ペテロの手紙 第一 2章6~9節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会