のりさん牧師のブログ

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「イエスは…見ておられた」マルコの福音書12章38〜44節

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"38イエスはその教えの中でこう言われた。「律法学者たちに気をつけなさい。彼らが願うのは、長い衣を着て歩き回ること、広場であいさつされること、
39会堂で上席に、宴会で上座に座ることです。
40また、やもめたちの家を食い尽くし、見栄を張って長く祈ります。こういう人たちは、より厳しい罰を受けます。」
41それから、イエス献金箱の向かい側に座り、群衆がお金を献金箱へ投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちがたくさん投げ入れていた。
42そこに一人の貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
43イエスは弟子たちを呼んで言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。
44皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」"
マルコの福音書 12章38~44節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1.献金は献身

  献身者という言葉があります。現代のキリスト教会では、一般的に狭義においては、カトリックだと司祭や修道士など、プロテスタント教会では牧師や宣教師などの神と教会に仕える専任者である教師のことを指すと思います。

  イエス在世の当時では、やはり「律法学者たち」(38)などの宗教指導者がそうだったと言えます。神の律法を教える教師であり学者ですから、みんなから「先生(ラビ)」と呼ばれ、ユダヤ社会においては一目も二目も置かれていました。

  今日のイエスのお話は、二種類の人たちの献身の違い、つまり一見献身者と言われる律法学者よりも、みんなから見下され、実際にも貧しく乏しい、(当時の常識ではむしろ祝福されていない)やもめの方が神に喜ばれる理由は何かということです。

  いくら祈りが上手で、服装もそれらしく整え、教師らしく振舞っても、そこに神への献身がないなら、その振る舞いは自分に対する称賛や栄誉を求めているだけであり、それを神は喜ばれないということをイエスは語られているのです。

  それよりも、むしろ貧しく、無力で、社会的にも価値がないと思われている人でも、生活費の全てを神にささげるような、献身を神は喜ばれるということです。

  エスは、やもめがささげるところを献金箱の前に座って見ておられました。(41)

  このやもめは「持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れ」ました。それは、つまり自分のいのちを神に預けたということです。そのお金が明日の命を繋ぐ食べ物を買うためには必須だったはずです。しかし、彼女は命を繋ぐのはお金ではなく神であることを、この献金という行為を通して告白したということです。

 

2.献身には痛みが伴う〜イエスの眼差し

  そこには、大きな心の痛みがあったでしょう。献身とは何の痛みもなくささげることだと言うのを時々聞きますが、それは間違っていると言わざるを得ません。本当の献身には必ず痛みが伴うものです。アブラハムがイサクをささげるときに心に痛みを覚えたように、またイエスご自身も十字架にかかる前に、苦しみ悶えて父なる神に祈ったように、献身者にはいつもささげる痛みがあるのです。

  しかし「律法学者たち」には、そんな痛みを覚えることとは程遠く、ただ人から誉められたい、いい人だと思われたい。立派な先生だと尊敬されたい思いで、神に全てをささげている振りをしているとイエスは指摘しているのです。

  イエスは、やもめに対してだけ見ておられるのではありません。この律法学者たち、パリサイ派の人たち、ヘロデ党の人たち、サドカイ派の人たちをも、そして、現代の牧師たち、またクリスチャンである私たちをも、いつも、どんな信仰か、その献身はどんなものかをご覧になっているのです。

  それは監視の目ではありません。ひとりひとりを憐れむ目です。イエスは、いつも群衆をご覧なっては「かわいそうに」思われたと福音書に記されています。それは、上から目線の「かわいそうに」ではなく、内臓が揺さぶられるほどに心が痛んでいることを表現しているのです。

  シモン・ペテロがイエスのことを三度、知らないと言った時、そのペテロを捉えていたのは、逮捕されつつも、失敗してしまったペテロを憐れむ主の眼差しでした。


"主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。"ルカの福音書 22章61節

 

3.へりくだって主のもとへ

  今日、主イエスはあなたのことも、その眼差しでご覧になっておられます。あなたは神に何を差し出そうとしているでしょうか。それは、自分にとって痛くもかゆくもないものを封筒に入れて、献金と書くような献身でしょうか。それとも、自分の身を削る思いで、あなたにとっての最善を尽くした献身でしょうか。

  大切なのは、格好つけず、まず神の前に裸の自分を認め、そのままで自分自身が献金箱に入る信仰です。本来なら、私たち自身をささげなければならないのです。それをお金や奉仕で表すことが信仰生活であり礼拝生活です。

  やもめが投げ入れたのはお金ではありません。やもめ自身だったのです。

  今日、あなた自身を神に投じましょう。人にではなくイエス様に、そのままの自分を明け渡して、その献身がかたちだけではなく、また人に見せるものでもなく、ただイエス様の眼差しがあることを覚えていこうではありませんか。

  イエスが求めておられる献身者は、心の貧しい者だからです。

 

"「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。"
マタイの福音書 5章3節

 

"キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。"
ピリピ人への手紙 2章6~8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会