のりさん牧師のブログ

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「新しい契約」マルコの福音書14章12〜25節

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マルコの福音書 14章12~25節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

  レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は有名な作品の一つです。しかし、新約聖書の時代はこのようなテーブル席に、それぞれが椅子に座るスタイルではありませんでした。

18節に「彼らが席に着いて食事をしているとき」という翻訳が、おそらくそのような誤解を招いているとも言えます。ここは、原語的には「横たわって食事をしているとき」と言う意味だからです。当時ユダヤでは椅子席ではなく、寝そべって食事をするのが普通でした。

 

1.過越の食事の準備

"12種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
13イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。
14そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。
15すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
16弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。

 

  弟子たちは全員ユダヤ人ですから、過越の食事をする習慣がありました。ですから、弟子たちの方から、どこでその食事をすべきか提案がありました。しかし、イエスは既にイエスの方でセッティングしてあるということを話されました。あのエルサレム入城で使うロバの時のように、そこに不思議な神の備えがあったのです。

  この晩餐は、のちにパン裂き(聖餐)として、キリスト教会における聖礼典となりましたが、この晩餐、つまりパン裂きの主催者がどなたかということがここで表されていると考えられます。聖餐式を主の食卓とも呼びますが、それは主が開かれる、主の権威における、主の食卓なのです。そこに、罪人が招かれることに、この新しい契約の意味があります。

  私たちも、この主の食卓に招かれていることを再度確認しなければなりません。また、初代教会においては、礼拝の中心がパン裂きであったことを考えると、それは、礼拝そのものもそうです。私が礼拝に来ているのではない。主が招いてくださっているから、礼拝することができるのです。この聖なる招きがあって私たちが主の御許に来ることが許されていることをまず覚えたいものです。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」ヨハネ福音書 15章16節

 2. まさか、私ではないでしょう

17夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。
18そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
19弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」
20イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。
21人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

 

  ここで、裏切りがあることが予告されます。そのイエスのことばに、弟子たち皆んなが、口々に「まさか、私ではないでしょう」と言いました。それは、誰も自分が裏切るとは思っていなかったからです。その中に既にイエスを裏切っていた者はいました。その裏切り者はもちろん、銀貨30枚でイエスを祭司長たちに売ったユダです。しかし、イエスがこの席でこの予告をなさった理由がいくつか考えられますが、その第一の理由は、この場でユダが裏切りの罪を悔い改め、このイエスの弟子仲間に留まることだったと言えます。イエスは良い羊飼いです。羊飼いは羊のために命を捨てようとしているのに、羊の方から群れを去ることは、羊飼いにとって苦痛以外のなにものでもありません。

  「まさか、私ではないでしょう」この言葉を語った中にユダがいたことを、主イエスは悲しまれたでしょう。ですから、イエスの鉢にパンを浸して食べる者、イエスと同じ釜の飯を食べているあなたが、今帰って来ることを待っている主の姿がそこにあるのです。その悲しみは、21節の言葉に表されています。

 

「21人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

 

  人が生まれることは、神の領域であると言えます。しかし、イエスはあえて、裏切ることを選び続けてしまうなら、命が神に与えられて母の胎に置かれ、そこから生まれ出ることすら、初めからなかった方が良かったと言われる。それはユダにいのちを与えた神の嘆きではないでしょうか。このイエスの心の痛みが、益々、過越の子羊としてのご自身を、十字架に向かわせたのではないでしょうか。

 

3. 多くの人のために流される

22さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
23また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
24イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
25まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」"

  

  そのユダの裏切りによって、更にイエスの贖いへの使命は悲しみのうちに高まったと言えます。それは、なおも悔い改めを待つ意味でも、この新しい契約の意味を弟子たちに教える必要があったからです。

  イエスは、悲しみを覚えつつもパンをとって、神をほめたたえました。そして、これから十字架に釘付けにされるご自身のからだとパンを重ねて、弟子たちに取ってたべなさいと命じられ、イエスを信じて、イエスのいのちを自分のうちに受け入れることを願われたのです。

  ぶどう酒もまた同じように分けられ、十字架上で多くの人のために流される屠られた子羊としてのご自分の血を受けよと願われたのです。

   それは、ここにモーセのシナイ契約の成就があり、神を愛し人を愛するイエスと同じ姿に向かわせる永遠のいのちの歩みが、そこにあるからです。それは、神の国まで続く神の救いの恵みです。

 

  私たちはこの救いに招かれているのです。今日、神はあなたを、この祝福の食卓に、この恵みの御座に招いておられます。頑なな心を捨て、悔い改めて新しい契約への招き、主の御声に応えてまいりましょう。

 


1,主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2,主は私を緑の牧場に伏させいこいのみぎわに伴われます。
3,主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。

詩篇23篇1〜3節