のりさん牧師のブログ

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「十字架につけろ」マルコの福音書15章1〜15節

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「この人を見よ」Antonio Ciseri 画

マルコの福音書 15章1~15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

1. ユダヤ人の王

"1夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
2ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」
3そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。
4ピラトは再びイエスに尋ねた。「何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。」
5しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた。

 

  夜が明けて、イエスはピラトのところに連れて来られました。しかし、ピラトはイエスに罪を認めていません。祭司長たちの妬みによって、イエスが連れて来られていることを知っていました(10節)。

  もしピラトのローマの総督としての権威が絶対であったなら、彼の気持ち一つでイエスを釈放できたはずです。しかし、ピラトは多数決を選びました。それは彼の立っている場所は、あくまでローマの属州に過ぎないからです。そこにはローマ帝国をよく思わない人たちが数多く住んでおり、イエスの代わりに釈放することになったバラバのように暴動を起こすものが度々あったのです。

  ですから、ここで多数決を取らなければ、間違いなく暴動が起きると思い、それを恐れたものと考えられます。

  私たちの社会でも基本的に多数決が重んじられています。それは、賛成者の多いことが、その後の安定をもたらすと考えられるからです。しかし、このピラトの裁判を見ると明らかに、イエスがここに立たされていることは、不法であり冤罪です。ですから、必ずしも多数意見が正しいとは限らないことが、ここで分かります。

  私たちは選挙で為政者を選ぶという機会があたえられています。しかし、現在多数を占めている政党や、権力者の政策や思想が全部正しいわけではありません。かつて、ヒトラー率いるナチスは、多数の人々の支持を得て独裁政治を行なったのです。もともとは、決してヒトラーの絶対的な権力で支配していたわけではないのです。あくまで多くの国民の支持を得て政権を得たのです。

  私たちは、たとえ少数意見でも疎かにしてはならないのです。話し合いを積んで、結論ありきの考えではなく、意見を擦り寄せて、誰もが納得いくように努力する必要があるのです。

  特に、この場合は裁判ですから、正しいものは正しい、間違っているものは間違っているとはっきりさせるべき場所です。真実を見ないで、単に人間の感覚で良し悪しを決めてはならないのです。ピラトは裁判官として誤った選択をしてしまいました。それでも、裁判官として、イエスに尋問します。

  イエスは一言だけ、そのピラトの質問に答えました。それは、ユダヤ人の王なのかという問いに対してだけでした。

 

2ピラトはイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは答えられた。「あなたがそう言っています。」

 

  イエスの答えは「あなたがそう言っています」という、イエスの明快な返事ではなく、ピラトの言ったことだと、イエスの意見というよりは、ピラトの質問こそがピラト自身に答えているのだという、イエスの意図だったのかも知れません。つまり、「あなたの言っている通りだ」と言われたのです。

 私たちもこの世にあって、たとえ少数になったとしても「あなたこそ、私の王です」と、自分の言葉で、自分の意思で、明快に告白し続けたいものです。

 

2. 群衆を満足させるために

6ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。
7そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。
8群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。
9そこでピラトは彼らに答えた。「おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。」
10ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである。
11しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群衆を扇動した。
12そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
13すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
14ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
15それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。"


   結局、このピラトの裁判は、群衆の気持ちを引くことが優先であり、裁判の真相は二の次だったということです。

  ピラトのことは、現代でも使徒信条において、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、教会で告白し続けています。それは、イエスの苦しみが、当時のローマ帝国支配下にあった歴史的事実であることを告白しています。しかし、実際にイエスを苦しめたのはピラト自身ではありません。正確に言うと、ピラトだけではないと言うことです。つまり、イエスエルサレムへ入城したとき、「ホサナ、ホサナ」とシュロの葉を道に敷いて大喜びで迎え入れた人々が、いとも簡単に「十字架につけろ」と叫び続けた。その群衆も含めた全員です。

12そこで、ピラトは再び答えた。「では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。」
13すると彼らはまたも叫んだ。「十字架につけろ。」
14ピラトは彼らに言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」

 

 ピラトは、あえてイエスの名を呼ばず、「ユダヤ人の王」と繰り返すことで、群衆にその事実に気づかせようとしているし、もしかしたらピラト自身がそう告白したかったのかも知れません。

12節で再び答えたというピラト。「あなたたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか」と、あくまでその決定は自分には責任がない。人々が選んだことに同意するだけだと、責任逃れの言葉にも聞こえます。事実、判決はイエスを十字架につけることになりました。

 その理由が、群衆を満足させるためだったということに、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と世界中の教会で告白し続けられる、歴史的責任が彼にあったことを示しているのではないでしょうか。

 

15それで、ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。"

 

3.  「十字架につけろ」は、あなたの言葉

  最終的にピラトを含む全ての人が、無実のイエスに「十字架につけろ」と叫んでいたということです。そこには、私もいたし、あなたもいたのです。誰も言い逃れはできません。

  私たちは自分に都合の良い方を選びます。私たちは、自分が傷つかない方に傾きます。何でも丸く収まるように、長いものに巻かれることを優先します。争いがないこと。平和という言葉を使って、和解という言葉を使って、本来はっきり言わなければならないことを横において、白黒をきちんとつけるべきことを後回しにして、人間の価値観で平和でつくろうとするとき、私もあなたもイエスを十字架につけているのです。

  ピラトは、はっきりと決断すべきでした。イエスは何も罪を犯していない。無実であると。釈放を宣言すべきでした。また、それだけではない。「ユダヤ人の王なのか」ではなく、「私の王です」と受け入れるべきでした。

  その曖昧さ。弱さのゆえに、イエスは十字架に架けられたのです。しかし神は神の知恵によって、その十字架に架けられたイエスを、神の裁きによって殺される神の子羊として、イエスを十字架につけた人々の贖いとしてくださったのです。神ご自身が、人の罪ゆえに殺された、このキリストの死を通して、完全なる神との和解を成立させたのです。

  ですから、私たちはこのイエスを信じなければならないのです。このキリストの犠牲が私の罪のためだったと告白して、あなたの全てを神に明け渡すことです。

  「十字架につけろ」はあなたの言葉だったのです。そこに明らかにされた、あなたの神への過ちは大きな罪です。しかし、そこに解決があることも明らかにされています。どうか、イエスをあなたの救い主として、あなたの王としてあなたの心にお迎えしましょう。あなたが捨てた石ころが、あなたの要石となったと聖書は言います。これが神の知恵です。ただ一方的に示された、その神の知恵、神の愛を今日、私の人生に、そしてあなたの人生に受け入れてまいりましょう。

 

"神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。"
コリント人への手紙 第一 1章21節

"主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。
あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。"
ペテロの手紙 第一 2章4~5節

"キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。"
ペテロの手紙 第一 2章24~25節