のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●番外編:「神の宮の門口に立ちたいのです」ルカの福音書23章

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 今日、注目したいのは、ルカの福音書23章39~43節の場面です。それは他の福音書には記されていない、イエスといっしょに十字架にかけられた二人の強盗の場面です。皆さんもご存知のように、今、みことばの光で読んでいるマルコには、初めは二人ともイエスをののしっていたことが記録されています。しかし、最後の最後に、そのうちの一人が救われたという感動的な場面です。


 おそらく、回心した方の強盗は、十字架の上のイエスの姿に触れていく中で変えられたと思われます。

  これまでの彼の人生の中で、いつが一番幸せだったでしょうか。だれもが、その母親から生まれ、どういう生い立ちかはそれぞれ違うでしょう。しかし、あるときから、彼は強盗をして生活するようになっていきました。同じ強盗仲間もいて、人から奪ったもので生活し、それはそうなってしまったというか、そういう自分を受け入れるしかないです。決して幸せではありませんでした。しかし、ローマ軍に捕まりある意味、彼の人生で最悪のときに、彼にとっての幸せが始まったのです。一見、このゴルゴタの丘に立てられている強盗の姿は、だれが見ても不幸です。またある意味、自業自得と言われてもしょうがない場面です。
 しかし彼は人生の最後の最後に、すべての人が必要としている救いを手にしたのです。しかも、彼のことばに感動します。42節
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
 何と控えめな姿。さっきまでののしっていたとは思えないほど、彼の心はイエスに釘付けになったのです。つまり、くだけた言い方をするなら、イエスが大好きになったのです。そのイエスに思い出してもらうだけで幸せですと言っているのです。
 私たちは、今日、彼の姿を学びたいと思います。彼こそぶどう園で遅くなってから雇われた労務者です。あとから来たにも関わらず、ペテロなどの十二弟子よりも先に、ある意味、御国の祝福に与ったのです。彼は、死ぬ寸前まで強盗でした。しかし、イエスに出会って、永遠のいのちを得たのです。


 イエスの十字架は、罪人を滅びから救う力を持っています。そして、その救いに与った者は、自分を誇るものを一切持っていません。この強盗がその代表です。この福音を私たちはここで刻まれ、そして遣わされて行きます。だから、自分の頑張りで進むのではありません。ただ彼の信仰を学びたいです。そして、この強盗のように、さっきまで福音に否定的だった人間をも救う力を持っている十字架を私たちも述べ伝える。その使命に与っている恵みに感謝して、遣わされていきたいと思います。

 

"まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。"詩篇 84篇10節


 主よ、あなたに思い出していただくだけで十分幸せです。