マルコの福音書16章
2,そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
3,彼女たちは、「 だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」 と話し合っていた。
4,ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。 石は非常に大きかった。
5,墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、 右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
6,青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、 十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。 あの方はよみがえられました。ここにはおられません。 ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
8,彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、 気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。 恐ろしかったからである。〔彼女たちは、 命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。 その後、イエスご自身が彼らを通して、 きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、 日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕
11,彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、 と聞いても信じなかった。
13,その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、 彼らはその話も信じなかった。
15,それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、 すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
16,信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、 信じない者は罪に定められます。
17,信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、 わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
18,その手で蛇をつかみ、 たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、 病人に手を置けば癒やされます。」
19,主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、 神の右の座に着かれた。
20,弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。 主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、 確かなものとされた。〕
1. 彼女たちは
これまで表舞台には出て来なかった女性たち。しかも、様々なエピソードについては、度々出てきてはいましたが、特にこのマルコの福音書では名前は殆どと言ってよいほど明らかになっていませんでした。しかし、他の弟子たちが皆逃げてしまってから、そこに実は彼女たちの存在がずっとあったことに、マルコは気づかせようとしているのではないでしょうか。
15章40節では、他の男の弟子たちはどこへ行ったのやら不詳ですが、女たちは「遠くから見ていた」と記録されています。しかも、41節では、これまでの彼女たちの様子が記されているのは、驚くべき事実です。
ここに、イエスの死から復活にかけての神の大きな恵みと、私たちに対する死から復活への大きな意味を見出すことができます。
パウロは「罪の報酬は死です」と言いました。それはまさに私たち人間が聖なる神の前における状態のことです。そのくらい、私たちの罪の性質は神との和解を阻んでいました。その死を待つものの姿は、死に対する恐怖と絶望のゆえに、心もからだも縮こまった状態でした。その姿自体が、死人と同じでした。しかし、神はイエスを通して、絶望から希望を、闇から光を、死からいのちを与えてくださったのです。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
ここの「貧しい」とは縮こまっているという意味です。罪の中で身動きとれず、また世間からも見下され、蔑まれ、自分ではどうすることも出来ずに縮こまって、とことん貧しくなってしまっている状態のことです。しかも「心の」とは、神と繋がるために与えられている霊がもはやぼろぼろの状態です。
その人は幸いだ、祝福だとイエスは言われた。それは、そう言われたイエスご自身がその貧しき憂い、生くる悩みをつぶさに舐められ、その身に負ってくださり、そのイエスに信頼し従ってくる者を救ってくださるからです。この女性たちの存在は、これまで虐げられてきた多くの女性たちに、そして、社会的に弱い立場にあった人たちに希望を与えたことでしょう。
2. 主のそばにいたい
その彼女たちが、イエスの遺体が納められた墓で見たものはなんだったでしょうか。
それは、墓に着く前から心配していた、墓の穴を塞いでいる大きな石でした。
3,彼女たちは、「 だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」 と話し合っていた。
女性たちは、その石が動かせないかも知れない状況でも、イエスの墓に行くことをやめませんでした。その大きな石はどうなっていたでしょう。それは4節です。
4,ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。 石は非常に大きかった。
まず見たものは、既に石が転がしてあった事実です。そして、二つ目には、その転がされていた石が非常に大きかったという事実です。ここに、女たちを通して、神の救いの深さを覚えさせられます。
それは、まず第一に神は彼女たちの素朴な愛を受け入れてくださっていたことです。彼女たちは、イエスが復活されたことは信じていなかったようです。しかし、石がどうであってもイエスが納められている墓に行きたいというイエスへの愛があったことがわかります。いつまでも残るものは信仰と希望と愛ですが、その中で最も大いなるは愛であるとパウロが言ったように、彼女たちの弱さのうちにあるまっすぐなイエスへの愛を神は尊ばれたのではないでしょうか。ですから、二つ目の神の救いの深さとして、彼女たちの心配であった石が退けられていたことです。彼女たちは死からよみがえられたイエスのことをまだ理解できていない状況にあって、神は一つひとつ、彼女たちの心配事を解消して、目の前の霧が晴れるように、彼女たちの信仰の窓を開いてくださっているのです。そして、三つ目は、転がしてあった石がどれほど大きく自分たちには無理なものであったことへの確認です。
女性たちは決して強くありません。当時も社会的に弱い存在として扱われてきました。ですから、初めから墓の石を自分たちで転がそうとは考えておらず、「 だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と言って、自分たちの無力さを認めていました。それは、まさに心の貧しい者の態度であり、それでも墓に行きたいという彼女なりの信仰があったと思われます。その彼女たちに、神は通常の石でさえ動かすのが無理であった石が「非常に大きかった」現実に向き合わせることで、神の救いが100%神の一方的な恵みであることを示しているのではないでしょうか。
3. あるがままの私を
イエスの復活は、死を打ち破る勝利のしるしであり、私たちの希望です。私たちにとって、罪の報酬として死は避けられないものであり、それはとても人間には動かせない非常に大きな石でした。ですが、神はその非常に大きな石を取り除けるように、死んだイエスを墓からよみがえらせることによって、私たちの前に立ちはだかっていた死と滅びを退けて、信じる私たちをも、そのよみがえりに預かる者とならせてくださったのです。
ですから、私たちも今置かれている状態の中で、そのままの自分。あるがままのイエスへの愛をささげようではありませんか。女たちは弱い自分を認め、しかし、イエスのそばにいたいという素朴な愛によって、私たちに必要な姿勢を教えてくれました。
今日も、よみがえりの主を、今置かれている、あるがままの信仰で充分です。その信仰でイエスに従ってまいりましょう。そうすれば、女たちから心配事であった石が退けられていたように、あなたの心配事も一つひとつ取り除けられて、今まだ信じ切れていなかった霧も晴れていくことを味わうことができるからです。イエスは確かに復活され、今も尚、信じる者たちの中に住んでくださり、同時に天の父なる神の右におられて、天の父のタイミングで、この地上にもう一度来られます。
あなたの主であるイエス様を愛する歩みを始めましょう。
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。ヨハネの福音書14:23
主よ。このままの姿であなたを愛します。どうか、私の不信仰という大きな石を取り除けてください。私のあなたへの愛を開かせてください。よみがえりの主よ。あなたのそばにおらせてください。