日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎特集レポート「原初史(創世記1章~11章)において、神はどのように描写されているか」

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●序論

 私たちに伝えられているものは、聖書の最初の十一の章において人類創生の全歴史を貫く、世界と人類の起源についての問いの奥深い部分にその根を持っている。聖書の原初史には、初期の段階における人類の諸宗教と聖書を結びつける共通のものが見える。
 問題は、創世記1~11章の個々のテキストが、その他の地域または他の宗教から伝えられてきた個々のテキストと類似性があるということではない。むしろ問題は、創世記1~11章に見られるいくつかの主だったモチーフが、全世界の諸民族の初期の時代に広く見い出されることである。この点において、それらが、人類の歴史における何らかの普遍的なものを表しているということではないだろうか。

 

1.全宇宙の創造者である神
 ユダヤ人の間では、伝統的に創世記はבְּרֵאשִׁ֖ית (ベレシート)と呼ばれる。また「創世記」というタイトルは七十人訳に由来している。それは「起源」を意味するγένεσις (ゲネシス)であり、モーセ五書のうち第一番目に位置する最も重要な書である。それは、神について、神がどんな存在で、私たち人間とどのような関わりがあるのかが、そこに明らかにされているからである。
 まず1章に表されている神は、創世記の名の通り創造の神である。しかも、このときにはまだ主(יהוה)ヤハウェ ではなく神(אֱלֹהִים)エロヒームである。神は心の声か独り言をもって光を造られた(1:3)。以降、同様にそのことばを発して、その他の被造物を創造した。そしてついに人間を、ご自身のかたちに創造された(1:28)とき、独り言でも心の声でもなく「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ…すべての生き物を支配せよ。」と人間に命じられたのである。
 そのように、著者は、創世記第一章の創造物語(narrative)を、天地創造に始まり、族長たちの物語、エジプトからの救済、シナイでの啓示、荒野の導きを経て、約束の地への進入にまでいたる歴史著作の導入部としている。これを祭司文書とするならば、この歴史物語は、エルサレムで行われる礼拝の基礎付けを目標とするものであるが、創造物語はその冒頭で、この道を通じてその民を導いてきた神が、世界と人類を創造し、すべての生物を祝福した神に他ならないことを表現するのである。聖書のこの最初の章では、世界の創造に二つのことが含まれている。一つは、すべての業において常に同じ形で繰り返されることばによる創造であり、もう一つは、個々の創造の業における神のそれぞれ特別の働きである 。

 

①ことばによる創造
 神は、その命ずることばによって世界を創造した。まず「神は…仰せられた」 という文章で命令のことばが導入され「あれ」という命令が発せられる 。続いて「するとそのようになった」と命令の実行が報告される 。そして、締めくくりに、神の判定が「神は見て、それをよしとされた。」と記される 。これに時間的位置づけが加わる。「夕があり、朝があった。」 この時間配列による枠組みは、区分された時間の全体像を指し示す。すべてのことは神の命ずる言葉によって起こる 。

 

②個々の創造の業における神のそれぞれ特別の働き
 神は「区別」 し、「名づけ」 、「造り」 、「祝福」 する。これらの動詞は、次のように個々の創造の業に配分されている。すなわち、「区別」と「名づけ」は最初の三つの業について語られ(3~5,6~8、9~10節)、「造り」は天体(14~19節)に関して語られ、また天蓋と陸生動物(24~25,26節)に関して語られ、創造と祝福は、動物と人間の場合に語られている 。
もしここに、より古い伝承が取り入れられていると想定するなら、いくつかの調和しない事柄が生まれる。このことは、バビロニアの創造叙事詩等に見られる創造の業の順序との一致に示されているが、光の創造が後の天体の創造とどう関係するのか等についても、個別釈義で扱われるべき事柄なのか説明は困難である。

 

2.全人類の創造者である神
 創世記を読むとき、2章4節と5節の間で文章の性格が変化していることに気がつく。新改訳聖書はこの部分で本文を大きく区分することによって示している。第一章は構成の点で、入念に讃歌のような定型句で様式化されていると言うことができる。たとえば、「神は・・・名づけた。・・・夕があり朝があった。」というふうに鍵となる言葉が繰り返しあらわれる。

 

①創世記1章~2章「人の創造物語」
 その言葉を反復させて注意深く用いている箇所が1章27節にある。
「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 この章全体にわたって、神を現わすのに用いられている言葉は限られており、更に厳粛さを与える。しかし、それは「神である主が地と天を造られたとき」(2:4)という言葉以後とかなり違っている。それは、2章4節以後の言葉は物語的であり、簡潔ではあるが際立って生き生きと描かれている。第一章で用いられていた鍵の言葉等は使われていない。「創造した」(ברא)バラーの代わりに「形造った」(יצר)ヤツァルという表現を用いていることはその良い例である。
 神を現わすために用いられている、そのような表現は素朴である。たとえば神は、まるで陶芸家のように土地のちりでかたち造った人間の鼻にいのちの息を吹き込む。またエデンに園を設け、「そよ風の吹くころ・・・園を歩き回られ」、主の声(または音)を響かせるという、まさにそのような表現の変化が始まるところで、神を表す新しい名前、すなわち「神である主」(יְהוָ֥ה אֱלֹהִ֖ים)ヤハウェ・エロヒームという名が現れる。

 

②創世記6章~8章「ノアの洪水物語」
 この箇所において描かれている神は、異なった神の名を用いる文章からなるパッチワークとなっている。6:5~8、7:1~5、8:20~22では、神の名は主(יְהוָ֥ה)である。しかし、1節のうちに神と主(יְהוָ֥ה)の両方が登場する7:16を除いて、他のところでは神(אֱלֹהִ֖ים)である。その上、7:1~5で神がノアに語ることは、奇妙にも、6:9~22で神がノアに語っている言葉の繰り返しである。反復は古代の物語のテキストではごく当たり前のこととはいえ、矛盾でもありうる。ノアは、6:19で、どんな種類の生ける被造物も「それぞれ二匹ずつ、雄と雌とを」彼と共に箱舟に乗せるように語りかけられている。しかし、7:2では、主はノアに、犠牲として用いることのできる「すべてのきよい動物の中から雄と雌、七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌、一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌、七つがい」を彼と共に箱舟に乗せるように命じている。7:4では、再び主がノアに「四十日四十夜、地上に雨を降らせ」と警告をするが、これは7:12で起こったこととして記述されている。しかし、7:24では、神は「水は、百五十日間、地の上に増え続けた」とき、ノアのことを心にとめる 。
神の命令は命を意味し、その命令に従うことは、命の獲得を意味している。ノアと、その家族とすべての生き物は、その家族ごとに箱舟から出て、新生した大地における新たに授かった生へと入っていく。ノアの犠牲奉献は、多くの洪水物語に見られる特徴に合致している。それぞれシュメール、バビロニアギリシャの洪水物語の主人公であるジウスドラも、ウトナピシュティムも、デウカリオンも、洪水の後に犠牲を捧げる。それは、古代世界において、生死に関わる危険を切り抜けた者の当然で自然な反応である。救済を祝って、救い主に捧げられる犠牲には、救済に対する感謝と、新たに始まる生における救い主への信頼との双方が表現されている。原初の物語においては、宗教史全体において基本的な犠牲の二つの動機が現れている。すなわち、カインとアベルの犠牲は祝福をめぐるものであった。ノアの犠牲は、救済をめぐるものである。それは、死ぬほどの危険の中で守られた者の捧げる犠牲である。犠牲は、救いと祝福を与えられる神に捧げられる 。
 「主(יְהוָ֥ה)は、そのなだめのかおりをかがれ…」(8:21)という表現は、定式的なものだと言われている。それは「ギルガメシュ叙事詩」でも同じような文脈に見られ、イスラエルでは、後期の時代に至るまで、犠牲奉献の用語であり続けた。そこで言われているのは、神が恵み深くノアの犠牲を顧みたということである。
 
3.原初史における聖書と他の資料
 原初史において、神の描写は他の歴史資料に類似する点が多く、特にギルガメシュ叙事詩は、驚くほど創世記の記事に似ている。類似点は以下の通り。


①両方において、洪水が人間の罪に対するさばきであった。
②1人の人が警告を受け、舟を造って救われたこと。
③両方ともとどまったところを山とし、二羽の鳥のことを書き、二番目に放った鳥が帰らなかったと言っている。
④両方とも救われた者たちの礼拝と、彼らに対する祝福を語っている。


相違点は以下の通り。
①義なる神の高貴な概念と粗野な多神教思想。
②罪の観念が違う。主なる神は罪を裁くが気まぐれではない。
③聖書では、事実が慎みをもって、高貴な神学と道徳的内容をもって記録されているが、バビロンの記事は、神話と迷信に覆われ、道徳的な内容の多くを失ってしまった核だけが残っている。

●結論 

神は創世記1~11章において、全人類の神(אֱלֹהִים)である主(יְהוָ֥ה)として啓示している。原初史において、多々ある資料で類似することも含めて、罪とそれに対する責めを全人類が負っていることが示されていると考えられる。しかし、1~11章で「堕落と救い(祝福)」が繰り返されている祝福の完成型として、神は罪の負い目から人類を解くために完全なる救いを用意された。その具体的な救いの計画と業を12章以降のアブラハムにおける契約の中に、そして、そこから始まるイスラエルの歴史を通して啓示されたのである。

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1.Westermann, Claus, 山我哲雄訳『創世記Ⅰ』(教文館, 1993)p.34
2.創世記1:3,6,9,11,14,20,24,26節
3.同上
4.創世記1:3,7,9,11,15,24,30節
5.創世記1:4,10,12,18,25,30
6.創世記1:5,8,13,19,23,31
7.アブラハムに対して:創17章, モーセに対して:出25章。
8.創世記1:4,7
9.創世記1:5,8,10
10.創世記1:7,16,25
11.創世記1:22,28
12.Westermann, Claus,前掲書,p.35
13.日本語訳聖書では明確になっていないが、NEBでは、7:24を時を表す副詞節に訳し、8:1を主節としている。したがって、神は洪水開始の後、150日してノアのことを考えたということになる。→大野恵正訳『創世記 ケンブリッジ旧約聖書注解』(新教出版社,1986),p.6
14.Westermann, Claus,前掲書,p.150~151
15.ヘンリーH. ハーレイ『聖書ハンドブック』(いのちのことば社, 1984),p.80