日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

●番外編「立ち上がる弟子として」マタイの福音書9章9節

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"イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。"
マタイの福音書 9章9節

 

1.罪人を招くために

  マタイは、十二弟子の一人ですが、もともとの職業はローマの税金を同胞のユダヤ人から取り立てる徴税請負人でした。彼がいつものように収税所に座っていると、主イエスがお通りになり、マタイをご覧になった上で、「わたしについて来なさい。」と招かれました。ご自分の弟子とするためにお選びになったのは、人々から蔑まれている取税人だったのです。この選びには、主イエスならではの基準があるようです。この世の基準で選ぶなら、やる気があって、高学歴の人を選ぶはずです。8章の後半に一人の律法学者がやる気満々で来たのに、イエス様からついて来なさいとは言われませんでした。

"そこに一人の律法学者が来て言った。「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」エスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」"
マタイの福音書 8章19~20節

  主イエスの基準はこの世の基準、価値観とは違っていたからです。主イエスは、義人ではなく罪人を招いて悔い改めさせるために来たからです。

"わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」"ルカの福音書 5章32節

 

2.イエスの弟子となること
  私たちも主の弟子として招かれました。私たちも、やる気のない罪人でした。しかし、主はそんな私たちを愛を持って一方的に選んでくださったのです。ただし、大切なことが一つあります。イエス様に選ばれ、召されているからといって、自動的に弟子とされるのではないということです。それは、マタイが立ち上がって従ったように、私たちも立ち上がる必要があるからです。マタイの召命の記事は、マルコとルカの福音書にも載っていますが、いずれも単純に従ったのではなく、立ち上がって従ったマタイの姿を捉えています。それでは、立ち上がるとは何でしょうか。それは、ルカの福音書の方を参考にするとわかります。

"するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。"ルカの福音書 5章28節

  ルカは、「何もかも捨て、立ち上がって、従った。」と記し、立ち上がったことの説明を添えています。そうです。立ち上がるとは、何かを捨てることなのです。主に従うために何かを捨てることです。ちなみに、他の弟子のペテロとアンデレは網を捨てて従ったと聖書は記しています。ゼベダイの子、ヤコブヨハネは、舟と父を残して従ったと記しています。

"イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
エスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
エスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。"マタイの福音書 4章18~22節

  私たちは何を捨てたでしょう。私たちにとっての立ち上がるとは何でしょう。私たちにとっての網とは何でしょう。また、舟や父とは何でしょう。

  今日のみことばは、イエスの救いとはイエスの弟子になることに繋がっていることを示します。そして、その歩みは決して簡単ではありません。なぜなら、そこにまず自分を捨てるというプロセスがあるからです。イエスは、このあとで弟子から更に12使徒を選んだあとでこう言われました。

"それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。"マタイの福音書 16章24節

  主の弟子となるとき、私たちは座ったままでは従えません。何もかも捨てて、立ち上がるのです。それは、つまり自分を捨てるということです。それは、主イエスの歩み自体がそうだったように、私たちも主の御足跡に従うということです。

 

3.神の愛と霊を受ける

  しかし、弟子たちはこのあと、ユダの裏切りがあり、他の弟子たちも全員がイエスを捨てて迯げました。

"そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。"マタイの福音書 26章56節

  つまり、イエスに従うことは、私たちの単なる努力や頑張りではできないことを表しています。では、どうしたらイエスの弟子となることができるのでしょうか。それは、自分自身の力では無理であることを認めることです。自分自身の弱さを知り、従うことすら神に求めることです。そして、そのようなものをも招いてくださる神の愛に気づくことです。

  弟子のリーダーであったペテロは、死んでもイエスに従うと断言しましたが、結局は「イエスを知らない」とイエスのことを三度も否定してしまいました。しかし、そのとき、それでもなおそういうペテロを憐れむ主の眼差しに出会ったとき、彼は外で激しく泣いたのです。それは、どういう涙でしょう。それは、自分がどれほどの思い上がりでイエスに従うことを考えていたか、どれほど自分自身の力で従おうとしていたか、その無力さを知らされたからでしょう。ペテロは、ここから変えられていきます。それは、ペテロに代表されるように、マタイも他の弟子たちも同じだったと言えます。

  彼らは彼らの罪深さと弱さのゆえに十字架に架けられた主イエスに出会い、死んで墓に葬られたイエスに出会い、その墓から復活されたイエスに出会います。そして、その七週間後に聖霊を受けて新しくされます。

  それは、イエスの弟子とは自分の頑張りや力ではなく、神の霊によって従うものであることを意味しています。そこから初めて、イエスが言われたことばに生きるものとされるのです。そこから、ようやく自分自身を捨て、立ち上がって従うことができるのです。

  あなたも今日、もう一度神の前に、御子を与えるほどの愛を注がれた神のあなたへの真実を知りましょう。御子を十字架に架けて私たちの身代わりにするほどに、私たちを愛しておられるその現実を知りましょう。その愛はあなたを変えます。その愛はあなたを立ち上がらせます。なせならそこには主の御霊が注がれ、あなたがイエスの弟子として、日々自分の十字架を負ってついていくための信仰と希望と愛さえも与えられていくからです。そこから、私たちは立ち上がっていくのです。

 

"この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。"
ローマ人への手紙 5章5~11節


"しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」"
使徒の働き 1章8節