のりさん牧師のブログ

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「主のもとに集まったのに」士師記20章1〜16節

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士師記20章1〜16節



 

  一人のレビ人が行ったことはどういう意味があるのでしょうか。19章において、自分が愛していたはずの側女をベニヤミンの地に住むギブアのよこしまな者たちに渡して暴行の後に死なせてしまい、更にはその遺体を12部族分に切り分けてそれぞれに送るということから、この話しは続いています。

 

  このレビ人によって、ダンからベエル・シェバまでのベニヤミンを除く全イスラエルがミツパに集まりました。それには「主のもとに集まった」とあるように、彼のしていることが正当であるという意味なのでしょう。

 

1〜7節

1,そこで、イスラエルの子らはみな出て来た。ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に及ぶその会衆は、一斉にミツパの主のもとに集まった。
2,民全体、イスラエルの全部族のかしらたちが、神の民の集会に参加した。剣を使う歩兵も四十万人いた。
3,ベニヤミン族は、イスラエルの子らがミツパに上って来たことを聞いた。イスラエルの子らは、「このような悪いことがどうして起こったのか、話してください」と言った。
4,殺された女の夫であるレビ人は答えた。「私は側女と一緒に、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。
5,すると、ギブアの者たちが私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと図りましたが、彼らは私の側女に暴行を加えました。それで彼女は死にました。
6,そこで私は側女をつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの全相続地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で淫らな恥辱となることを行ったからです。
7,さあ、あなたがたすべてのイスラエルの子らよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。」

  しかし、彼の言動を見て、このレビ人が自らの愚かさを隠して、ただ一方的に悲惨な目にあったかのように証言しているのがわかります。彼は、自分で側女をよこしまな者たちに与えたことは言わずに、ただ被害を受けたことだけを、ギブアの人々の悪行だけを強調して語っているのです。そして、主のもとに集まったはずなのに、一切、祈ったとも記されていません。

  そして、それを聞いた他のイスラエルの人々も聞いたことを鵜呑みにして、主に尋ねることもなく、それぞれの感情に任せて、ベニヤミンとの戦争に向かおうとしています。

 

8〜10節

8,そこで、民はみな一斉に立ち上がって言った。「私たちは、だれも自分の天幕に帰らない。だれも自分の家に戻らない。
9,今、私たちがギブアに対してしようとすることはこうだ。くじを引いて、向かって行こう。
10,私たちは、イスラエルの全部族について、百人につき十人、千人につき百人、一万人につき千人を選んで、兵たちのための食糧を持たせよう。そしてベニヤミンのギブアに行かせ、ベニヤミンがイスラエルで犯したこのすべての恥ずべき行いに対して、報復させよう。」

  つまり、このレビ人も他のイスラエルの人々も、主のもとに集まったことの意味を虚しくして、主のもとに集まったという大義名分によって自らの怒りや感情を正当化したのです。

  これは、日本の歴史にもよくあることです。古来日本の権力者たちは、勅令を重んじました。それは天皇の権威を傘に自分こそ正義であると他の勢力との差別化を図り、他の民衆に対しても納得させるだけの価値をそこに置いていたということです。

  このミツパでの主のもとに集まったということも、主にお伺いを立てるとか、礼拝をするのではなく、主のもとに集まったことによる、精神的に団結がほしかっただけなのです。

  それが結果的に同胞である「イスラエルの子ら」の中に分裂を引き起こしたのです。

 

11〜16節

11,こうして、イスラエルの人々はみな団結し、一斉にその町に集まった。
12,イスラエルの諸部族は、ベニヤミン部族全体に人を遣わして言った。「おまえたちのうちに起こったあの悪事は何事か。
13,今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ。彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去ろう。」しかしベニヤミン族は、自分たちの同胞イスラエルの子らの言うことを聞こうとしなかった。
14,それどころか、ベニヤミン族はイスラエルの子らと戦おうと、町々から出て来てギブアに集結した。
15,その日、ベニヤミン族は、町々から剣を使う者二万六千人を召集した。そのほかに、ギブアの住民から七百人の精鋭を召集した。
16,兵全体のうちで、この七百人の精鋭が左利きであった。彼らはみな、一本の毛を狙って石を投げても、的を外すことがなかった。

  今日の箇所では、イスラエルの子ら」と繰り返し言われています。それは、同じ「イスラエルの子ら」なのに、主をないがしろにして争うことの悲しさ、虚しさ、愚かさを強調しているためでしょう。

  この出来事は、現代においても教会に適用できます。

  私たちは、主の名のもとにいつも集まり礼拝をささげています。しかし、そのことが本当に主のもとに集まった意味を理解しているのか、それとも人間的な思いで集まっているのかを吟味することが必要ではないでしょうか。

  私たちが現代において、霊的な「イスラエルの子ら」であると言えます。それは、一方的に神様が選び与えてくださった救いのゆえです。

  しかし、与えられたその恵みに胡座をかき、主のもとにある幸を忘れてしまっては元も子もありません。主のもとに集まったならば、そこで主の御心を聞くことが大切だからです。それぞれが自分の基準で、自分の物差し、自分の感情ではなく、神のことばに聞くなら、そこには分裂はありません。

  レビ人も他のイスラエルの人々もベニヤミン族も、誰も、主のもとに集まったのに、主のことばをないがしろにして分裂が起きてしまいました。

 

   今日、私たちはまず神のことばに聞くものとされていることを確認しましょう。人間の考え、人間の感情は真実を知る心を失わせます。しかし、主のみことばに聞いていくことこそ、新しいいのちに与った者にとって、何よりも喜ばしい御国への凱旋なのです。

  今日も主のもとに集まった意味を味わい直し、心からの感謝と賛美をささげてまいりましょう。

 

"多くの民族が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。"
イザヤ書 2章3節