のりさん牧師のブログ

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◎特集:教父 「ユスティノス」 

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1.生涯
 ユスティノスは、紀元2世紀の教会教父であり、護教教父といわれるキリスト教会最初期の神学者。その生涯の詳細は、主に彼の著作に基づいたものである。ユスティノスは、AD100年、使徒ヨハネが死んだ頃に、北イスラエルに位置するフラウィア・ネアポリス (1)という町で、父プリスクスの子として誕生した。
 ユスティノスは、青年期に種々の哲学に真理を求めた。また、多くのキリスト者の迫害にも遭遇した。その後、回心し、人々をキリストに導き勝ち取るために、哲学者の衣服をつけて行動し、その中でいくつかの著作を書いた。150年頃 ローマに定住し、当時唯一のキリスト教的哲学学校を開設。その校長としてキリスト教を教えた。167年(2) 迄にローマで殉教した。

 

2.背景~キリスト者に至るまで
 ユスティノスが活躍した時代、その思想背景にはギリシャ哲学があった。特に、グノーシス主義思想(3) が盛んであった。彼の青年期も、アテネやローマにおいて、前述のとおり真理の追求に多くの労力を傾けたものであった。その真理の追求とは、フィロソフォス(知恵の愛好者=哲学者)と呼ばれる人々に出会い、学ぶことであった。
 ユスティノスはまず、ストア学派(4) の哲学者のもとで学ぶ。しかし、いつまで経っても神についての学びがないため、催促すると、神については知らないし、そのような知識は必要ではないとされ、ユスティノスはそこを去る。
 次にアリストテレスの流れをくむ逍遥学派(5) の哲学者のもとに学ぼうとしたが、報酬を要求されたため離脱する。金銭にこだわることは知恵を愛する者にあるまじきことだと判断したからである。それでも真理への追求は続き、次にピタゴラス派の哲学者のもとに行くが、幾何学・音楽・天文学などの予備的学問を修めていないという理由で入門を断られる。
 最終的に、プラトン学派で入門を許された。そこでイデアに舞い上がって、自分が賢者になったと思い込み、「神を観る」ことができることに期待をもつようになった。それがプラトン哲学の目的だったからである。
 そのような青年期は、ローマ帝国時代であり、キリスト教は非合法宗教として弾圧されていた。
 ある日、ユスティノスはいつものように思索にふけるべく、地中海を見渡す人里離れた野をめざして歩いていた。ふと気付くと、後ろの方に一人の柔和で上品な物腰の老人が、少し離れて歩いている。煩わされたくなかったユスティノスは、後ろを振り向き、老人を見やるが、その老人(キリスト者であった)は、彼に話しかけ始める。ユスティノスが哲学者だと知ると、今度は魂を探るような質問をはじめた。老人の問いは、ユスティノスをして、人間の作った哲学の不完全性に目を開かしめたのである(6) 。
 後にユスティノスは回顧している。「老人はその他にもさまざまなことを語った。そして別れ際、私に自分の語ったことをよく吟味するよう激励して、去っていった。それ以来、その老人に会っていないが、たちまちにして魂の内に炎が燃え上がった。私は預言者たち、そしてキリストの友への愛に圧倒された。老人の言ったことをもう一度熟考してみた。そして悟ったのだ。キリスト教こそが唯一まことの、真に価値ある哲学であることを 。」(7) 
 以上のことがあり、彼は132~135年にエペソで洗礼を受ける。このように、キリスト者になった後も、ユスティノスは「唯一真実なる哲学」を見出したことを象徴すべく、哲学者の外衣をまとい続けた。事実、彼は異教の哲学者たちへの伝道者となった。

 

3.神学的貢献
 ユスティノスの神学的な貢献として、第一のことは、不信者に対して、キリスト教こそ真の知恵・真理があることを伝える、弁証学的論証法が挙げられる。
 ユスティノスは、153~154年ごろ、キリスト教を擁護する書(護教論・弁明書)を書き上げ、当時の皇帝アントニウス・ピウスに宛てて送り、「真実を重んじ愛するよう」訴えた。それは、キリスト者は犯罪者ではないし、国家の敵でもなく、キリストの教えに従ってきよい生活を送っていることを証して、迫害を止めさせるためであった 。(8)
 第二には、宣教学的視点における貢献である。既存の思想背景を一方的に批判し排除するのではなく、最善を尽くして許容していく中で、その思想・文化にある人々の心を柔らかくし、キリストへと近づけたことは、宣教学的視点において、大きな貢献であったと言うことができる。知識階級のローマ人がキリスト教の意味を理解することができるよう尽力し、生涯をその道に捧げた。ユスティノスは、あえて「キリスト教にしか真理はない」とは言い切らず、キリストを知らないギリシアの哲学者や詩人が真理を語っていることを認めている。
 それはなぜか。ユスティノスは言う。「キリストは神の初子であり、神のロゴス(言葉、理性)です。すべての人はこのロゴスに預かっているのです。」だからこそ、考えたり語ったりすることができると。それは「ロゴスの種が全人類に植え付けられているからです。」それゆえ、真理を語る者はだれでも「その人の内に植え付けられたロゴスの種によって、おぼろげに、真に存在する「神」を観ることができるのです」と言っている。それでユスティノスはこう言っている。「あらゆる人が正しく語られることはすべて、私たちキリスト者のものなのです。」そして、更にこう言い切っている。「たとえ無神論者として思われている人でも、ロゴスによって生きている人はキリスト者なのです。」それで、ギリシャ哲学者の中ではソクラテスのような人がそうだと言う。
 ただし、真のキリスト者との違いも明らかにしている。それは「真のキリスト者は、私たちのために体とロゴスと魂をもって現れたキリストの内に、ロゴス全体を有しているが、彼らはロゴスの一部を見い出し、観想することで真理を習得したものの、キリストであるロゴス全体を知らなかったので、しばしば互いに対立し合っているのです。」とである。
 この解釈には大いに注意が必要であるが、ユスティノスはキリスト教ギリシャ哲学を融合させるかのような宣教により、多くの哲学者だけでなく、教養ある無しにかかわらず、多くのローマ人をキリストに導いたのである。
 
4.思想
 ゆえに、ユスティノスの思想の特徴は、キリスト教徒として初めてギリシア思想を真っ向否定せずに、キリスト教思想的視点を重ねしようとし、特に当時のギリシア哲学の用語でもあった「ロゴス」(9) と、ヨハネ神学にある「ロゴス」(10) を乖離させず結びつけたことにある。ユスティノスに先立ちアレクサンドリアフィロン(11) もユダヤ教徒としてユダヤ教思想にロゴスを取り入れ、「神はロゴスを通して自らを表す」と唱えた。ユスティノスはフィロンと異なり、キリスト教徒としてイエス・キリストこそが完全なロゴスであると考えた。イエスを「普遍的・神的ロゴス、純粋知性、完全な真理」であると言っている。
 またユスティノスが残した著作に見られるスタイルは、ギリシア人に対してキリスト教思想を解説し、誤解や偏見をなくそうとする姿勢(これが護教論的といわれている)が根本にある。当時の一般的なキリスト教観と対話する形をとっている。
 さまざまな哲学諸派を遍歴し、最後にプラトン哲学を学び、キリスト教信仰に導かれ「人間の魂は本質的にキリスト教的なものである」として、キリスト教こそが唯一の真理であると考えた。そして古代の哲学はその真理にいたる前段階であると考え、それらの中に断片的に真理が存在するのは、その中にある「種子的ロゴス」のせいであると考える。(種子的ロゴス論)つまり、古代からある様々な哲学は真理の一部が示されていてその正体は、イエス・キリストそのものであるという事を解き明かされたという事になる。

 

5.知的・霊的遺産
 以下著書「弁証論」より抜粋。
①福音がエルサレムから全地に広がっていった。それゆえに平和を作り出すことができる。福音がわれわれを変えてしまった。かつては戦争を好んでいた。
しかし今は世界のすべての場所で、剣を鋤に、武器を農具に替えた。今は敬虔と正義の種を蒔いている。信仰や希望や兄弟愛の土壌を耕している。これらのことを我々は十字架につけられた救い主を通して、父なる神から教えられた(ユスティノス『第一弁証論』 23)

②クリスチャンの隣人の首尾一貫した生活という証しに動かされて、暴力や強圧的な生き方から離れていった人たちの実例を、我々は数多く示すことができる。その人たちはクリスチャンの知人が、人から傷つけられるときも奇妙なほどの忍耐を持っているのを見たのだ。またクリスチャンが自分たちとどんな商売の仕方をするのかを身をもって知っていた。キリストが教えられたように生活していない人は、たとえその教えを口にしていても、事実はクリスチャンでないことを、知らなければならない。
(ユスティノス『第一弁証論』 16)

③みことばによって真理を知らされたのちの我々は悪霊を捨て、今は、御子を通して(知るようになった)唯一の神に従って生きている。以前は肉欲を楽しむ者だったが今は自制にのみ喜びを見いだす。まじないのわざを用いていた我々が、今は天地創造の恵みの神に自分を献げる。他の何にもまして富と財産を集めることに夢中であった我々が、今は持てるものを共有財産につぎこみ、だれであろうと困っている人たちと分かち合う。以前は互いに憎み合い、殺し合い、同じ種族に属さない者に対しては、習慣が違うということで善意を示そうとしなかった。だがキリストが来られたのちは、他の人たちと食事をともにし、敵のために祈り、理由もなく我々を憎む人たちと和解しようと努めている。それは、彼らもまた、キリストの公正な戒めに従って生きるようになって、我々と同じものをいただく喜ばしい希望を我々とともにすることができるようになるためである……キリストの教えは簡潔であり、明確だった。キリストは哲学者ではなく、その言葉は神の力だったからである。(ユスティノス『第一弁証論』14)

④日曜日には町や村に住んでいる人々がみな集会をする。使徒の書いた者や預言者の書の一区分を時の許す限り読む。朗読が終わると、座長は説教、教えのうちにこれらの尊いことにならうようにとの勧告や教訓をする。この後にわれらはみな起立して共通の祈りをささげる。祈り終わると、すでに述べたようにパンとぶどう酒を持って来て、それを感謝し、会衆は「アーメン」と答える。その後、聖別されたものをおのおのに分かち食する。欠席している者には執事の手を経てこれを家に送る。富裕な者と志ある者は彼らの自由な意思に従って献金し、座長がこれを保管して孤児、寡婦、獄にある者、外国人などすべて困窮している者の用に供する。(ユスティノス『第一弁証論』65~67)

⑤同第二巻~キリスト教への批判とユスティノスの反論
a 神々を礼拝しないキリスト教徒は無神論者である。
 <反論>ギリシャ古代のすぐれた著述家も『神々は人間の考え出したものにすぎず、それを礼拝する人間よりももっと悪徳に満ちて邪悪だ』と言っている。
b 復活などというのは不合理だ。
 <反論>神がすべての人のからだを無から創造したのであるから、人が死んで撒き散らされても、神は彼を再び創造するというのは合理的だ。
c キリスト教徒は不道徳だ
 <反論>むしろ酒盛りや乱交をするギリシャローマの異教徒の方が不道徳である。
d キリスト教徒は皇帝礼拝を拒否して社会の絆を破壊する
 <反論>たしかにキリスト教徒は皇帝礼拝をはじめ被造物礼拝はしないが、帝国に対して忠実な民である。


◎以上のように、著作によってその弁証法だけでなく、使徒ヨハネの没後100年ほどの時代にあって、当時のキリスト者がどのように信仰生活を営んでいたのか、どのように礼拝し聖礼典を執行していたのかを詳細に知ることができることは、現代を生きる私たちにおいても有益である。
 このほかにも、『ユダヤ人トリュフォンとの対話』 -(ユスティノスの信仰を持つまでの歩みについての証しを示す著作)が現存しており、ユスティノスの思想と生き方が変えられていく様子がわかる。

 

⑴現在はパレスチナ自治区ナーブルス。
⑵生没年については、100~162、165、167等諸説ある。
地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つで、物質と霊の二元論が特徴。
⑷「ストア」はストイックの語源である。この名から分かるように、基本的には、欲望を厳しく節制して人格の完成と心の平穏を追及した思想。言いかえれば、自制心により人間としての内面を充実させることで、知的、道徳的な賢者になることを目指した思想。また運命論的でもあり、不幸が起きるのは制御出来ないから、あくせくと外の世界の事象に心をくだくよりは、この世で何があっても動じない心(アタラクシア)という真の宝を得るという考えでもあった。
⑸逍遙学派とは、アリストテレスが創設した古代ギリシアの哲学者のグループであり、彼の学園であるリュケイオンの学徒の総称。
⑹話は、フィロソフィアとは何か。幸福とは何か。といったことに進み、老人は答えた。「フィロソフィアとは真に唯一存在する方の知識であり、幸福とはそのような知識と知恵の報いです」それはユスティノスがこれまで出会ってきた哲学者からは教えられてこなかったものだった。
⑺詳細は『ユダヤ人トリュフォンとの対話』第二章~第八章参照。
⑻「第一弁証論」はキリスト教についての偏見や誤解を一掃することを目的としており、「第二弁証論」は短く情熱的な著書で、皇帝の不正に対する抗議である。
古代ギリシャでは、言葉というだけでなく概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想等の意味がある。
キリスト教でのロゴスとは神のことば、天地を創造した神の御子としてのイエス・キリストを意味する。
(11)(紀元前20/30年? - 紀元後40/45年?)ローマ帝国ユリウス・クラウディウス朝時期にアレクサンドリアで活躍したユダヤ人哲学者。豊かなギリシア哲学の知識をユダヤ教思想の解釈に初めて適用した。ギリシア哲学を援用したフィロンの業績はユダヤ人には受け入れられず、むしろ初期キリスト教徒に受け入れられ、キリスト教思想のルーツの1つとなった。

 

【参考文献】
ハーレイ,H,ヘンリー,聖書図書刊行会編集部訳『聖書ハンドブック』聖書図書刊行会, 1984年。ヘマー,J,コーリン『カラーキリスト教の歴史~殉教者ユスティノス』いのちのことば社, 1979年。水草修治『古代教会史ノート⑥2世紀の護教家たち~水草牧師のメモ帳』苫小牧福音教会,2010年。小高毅『父の肖像‐古代教会の信仰の証し人』ドン・ボスコ社,2002年。柴田有, 三小田敏雄訳『キリスト教教父著作集 第一巻』教文館, 1992年。