のりさん牧師のブログ

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◎特集:キリスト教倫理「キリスト者と戦争についての考察」

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序論
 日本では、ほとんどのキリスト教会は平和主義に立つと言ってよい。それは先の大戦における罪、不甲斐なさへの反省と悔い改めの上に立つからである。ゆえに昨今、憲法改正集団的自衛権に関する問題に対して、多くの教会が危機感を覚え、政府の戦争に向かうような姿勢や、軍国主義を回顧するような態度に警鐘を鳴らしてきた。   
  しかし、世界においては、キリスト教国と呼ばれる国が存在し、キリスト教会が後ろ盾となって正義の戦争と称して、世界中に軍隊を送ることを、むしろ正当だとしている状態があるのも事実である。
 特に近年はアメリカが世界の警察と称して、世界中の紛争に首を突っ込み、正義を振りかざして、あたかも桃太郎が鬼ヶ島に鬼退治に行くような独善的な勢いで世界中を巻き込んでいる。しかも、そのような、一見「正義の戦争」と言わんばかりの正義の味方も、実際は民間人を巻き添えにして空爆したり、非武装の民間人だと知っていて、ゲーム感覚で射殺したり、捕虜をリンチしていたことを知ると、益々、「キリスト教国は酷い=キリスト教は惨い=聖書は危ない」と思われても仕方がない。
 そこで、あらためて聖書から、戦争ついてキリスト者はどういう態度で向き合っていくべきかを考えたい。

 

1.「キリスト教国と戦争」
 キリスト教会の歴史の中で、もともとキリスト教国というものは存在していなかった。それはローマ帝国時代にまで遡る。もともとキリスト教会は国家とは別々な存在であったが、ローマ帝国によって国教とされてから教会が国の一部となり、または国が教会の一部になって、教会に権力が入り、政治に、神のために戦うという大義名分が始まった(1) と言える。
  だから、一般にキリスト教国と言われる国は常にその中で「神」を持ち出し、戦争をする大義旧約聖書に置き、そこに教会をも参加させて正義の味方ぶりを演出してきた歴史がある。そして戦争に勝てば、一層自分たちの判断が正しかった。神が味方になったと豪語して、負けた国や勢力について極悪を倒したという優越感で世界にアピールする。結果、恐らくキリスト教国側にいればその高揚感を共有できるであろうし、負かされた側にいれば、憎き十字軍にやられたと憎悪を燃やし復讐を誓うであろう。
 つまりキリスト教国と言われる国や勢力がやっていることには聖書や教会を持ち出し、自らの優越性を主張するために利用しているという面を見ることができる。それは本当に神に喜ばれるキリスト者の姿なのか。そう考えるときに、キリスト教国イコール聖書とはなっていない現実があることがわかる。

 
2.「聖書は正義の戦争を支持するのか」
 しかし、ここであえてこの問いをしたい。自分の愛する者が危険にさらされているときに、敵のいのちを奪うことをためらって、愛する者のいのちを失わせても平気なのかと。弟子ペテロは師であるイエスを守ろうとしたが、その剣を収めるようにイエスによってたしなめられた。これが、個人レベルであると同時に国レベルで起こった場合、現実問題として、どのように判断すべきなのかが問われる。
 キリストはこう言っている。ヨハネ15:13
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
 この言葉から三浦綾子の著書「塩狩峠」を連想させられる。乗客のいのちを救うため、暴走する汽車を止めるために線路に身を投じた主人公の姿を。しかし、もう少し危険の種類を深めていくとする。たとえば愛する者が強盗に襲われるとか、または殺されそうになっている場合、愛する者を守るためにいのちをかけて敵を打ち倒すこともまた愛することではないのか。
 私は、目の前で、もし家族に危害が及ぶとしたら、不当にいのちが狙われたり辱められたりするとしたら、私自身がたとえ救いを失って地獄に行ったとしても、家族を救いたいと思うだろう。こういう考え方は、その正否を問うよりも、感情的に指示する人は多いのではないか。恐らく、この考え方の延長上に「正義の戦争」があるのだと推察する。
  しかし、これが国レベル、軍隊になると益々論点がぶれて来る。それはたとえ防衛戦争であったとしても、その判断をするのはその国の首長、または軍隊の長であり、実際にいのちを捨てて戦うのは兵士だからである。そういう兵士を従えて、自分ではなく兵士にいのちを懸けさせるには、平時から高い給料を与えたり、愛国心や指導者への忠誠を誓わせて士気を高めておく必要がある。そうなると、兵士一人ひとりの動機よりも組織としての一体性を保つ人間的手法が優先してしまい、信仰、希望、愛からかけ離れた決断をすることにならないだろうか。
  しかしカール・バルトは悪がはびこることを阻止するための抵抗とやむを得ない場合の武力による制裁を認め(2) 、カルヴァンも同様に合法であるとする(3) 。
  ここに考え方として、クリスチャン個人として国家を捉え戦争を考えていくのか、国家に置かれている教会に属する国民として戦争を考えていくのかにおいても、その視点の違いで導き出される答えも違ってくると言えるのではないか。
  そこで必要なのは聖書的な教会観で見ることであると考える。それは私たちがキリスト者として自分(個人)がどう考えるか以前に、神は私たち(集団・群れ・教会)をどう見ておられ、どう扱われるということを聖書に聴いていくことである。つまり集団から個を捉えていく考え方である。それは、聖書は旧新約一貫して共同体的信仰を教えているからである。救いは個人の信仰告白が求められるが、バプテスマはキリストとの結合と同時に、それは教会との結合も意味する。そして、群れにおいて定期的に集まり礼拝をささげるところに、個人が救われつつ集団として神への献身が問われるのである。
  それに基づいて、教会は歴史的にも集団としての共通した信仰告白に力を注いできた。その場合、バルトやカルヴァンの立場に説得力を見出す。それは狂暴化する国家に対する蔑視や批難で終わらず、自らもその一員としてのキリスト者であるという連帯性と責任感を意識させるものだからである。
  ゆえに国の指導者が聖書に聴いて、そこにキリストご自身を模範として自らの歩みを振り返る信仰者であることが望まれるし、信仰者でない場合においても同等の判断によって国を治めることを教会は祈り求めていく必要がある。それは、その指導者だけでなく国民も同様に、利己主義ではなく、地球規模での互いの平和を望み、神に委ねる生き方を選びとっていくときに、神が働いて事を行わせてくださるのである(ピリピ2:13)。それは究極的には神の国の建設に繋がる業である。ただし旧約聖書の聖絶の箇所(4) から、またダビデなどの信仰者が戦争によって敵に勝利していく姿から、現代でも自分たちの求める正義のため平和のために、犠牲も厭わないで武力によって制圧することに平然と賛成することは果たして正しいことなのか。聖書に書いてあるのだから、その目的のためには人を殺しても、それは神のためだと言えるのだろうか。しかし、聖書全体を見た時に、そして旧約聖書の律法も預言をも成就するために来られたイエス・キリストが示された視点で見るときに、人のいのちを大切にすることの大切さを学ぶ(5) 。また昔、日常的に行なっていたことを現代にそのまま適用することの危険も学ぶ。
  たとえば、旧約聖書の信仰者たちが多くの妻を持っていたことを取って、現代の私たちも一夫多妻を肯定できるだろうか。それは当時の文化の中では当たり前に行なわれていたことが記されていることであって、神の御心ではないことが、ダビデの家族に見るようにその顛末を見ると明らかである。そこに待つものは不幸である。それは戦争についても同様の視点で捉えることはできるのではないだろうか(6) 。

 

3. 「キリストに倣う生き方にある価値」
 次にイエスはどうであったかについて考察したい。イエスの殺人についての基準は、人に愚か者と言うことですでに殺人の罪を犯しているという、実行犯ばかりか、相手に腹を立てるなどの感情自体が殺人に等しいという基準である (7)。また自分の敵を愛し、迫害する者のために祈れと言い、神の完全を弟子たちに求められた。そこにはもはや武器を所持し、それを前提とした戦いを肯定する思想はない。
 かつてエデンの園には剣は必要とされず、人間の食べ物も草や木の実であった(8) 。しかし人間は罪を犯して園を追い出された。その際、神はいのちの木への道を守るためにケルビムと炎の剣を置いた。それ以降、カインはアベルを殺し、憎しみ、妬み、暴力、殺人の歴史が始まり、その中で国家が生まれ(9) 、戦争が起こるようになった。つまり集団対集団の争い、殺し合いである。
 キリストがゲッセマネの園で祈ったあと集団が押し寄せる。彼らの手には、剣と棒があった。それは集団の権力と暴力を象徴している。それが丸腰の、たった一人の男を捕えるためにである。
 そのときキリストご自身は、「剣を取るものはみな剣によって滅びる」(マタイ26:52)と言われた。それはキリストが逮捕されたのを見て、弟子のペテロが師であるキリストを守ろうとして敵の耳を切ったときに発した言葉である。それはどういう意味だろうか。それは武器を取るならば必ずその報復を受けてしまう。それは自分が用意したもので同等の報復を受けることであり、これは創世記9章に見られる、いのちには血を要求するという命令にも合致する。だからキリストは相手と同じ土俵で戦うのではなく、自分で報復せずに神に全てのさばきを任せなさいというキリストの姿勢ではないだろうか。
  どうしてキリストは防衛のためでも剣を取ることを拒まれたのか。それは「正しくさばかれる方」である神に任せたからであると弟子ペテロがその手紙の中でも証言している(Ⅰペテロ2:22~23)(10) 。
 このキリストの姿勢は不当な攻撃を受け、死に至ったとしても、それは神に喜ばれることであり、すべてのさばきの主権は神にあるということを認めること。これが戦争や暴力に対する聖書の究極的な姿勢ではないだろうか。
  キリストは言われる。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9)
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」マルコ8:34~35
 キリストが求められていることは、後に来る完成した神の国を先取りした姿勢であり、視点である。現在は、いまだこの世の権力が支配しており、神の国が完成したとは言い難い。だから、一時的に、その権力を認めつつ、やがて訪れる完成した神の国を見据えた信仰が求められる。

 

結論
 現実的には、すべての人が主の弟子としてキリストの姿に倣おうとしない限り戦争は起こり、暴力も止まないと言える。しかし、それが完成するのはキリストの再臨後である。だから、その暫定的解決手段として神は、たとえクリスチャンでないにしても行政を行う指導者に権威を与えて、その権限で罪が蔓延せず、暴力がはびこらないように監視、警戒、防衛することを許している(11) 。それは、キリストの初臨において神の国が既に来ていると同時に、いまだ完成に向かっているという神の国、または救いが緊張状態にあることを意味している。
 最終的には、やがてキリストが再臨され神の国が完成するときまで、この世の為政者に任された権能としての剣が正しく扱われるように執成していく必要を覚える。またすべての人が真の神を知り、キリストの十字架の恵みのゆえに、キリストに倣う者とされていくことを祈り、伝え、責任感をもって、政治・社会情勢を注視しつつ関わり続けることが、キリスト者一人ひとりに与えられている使命であり、最善ではないだろうか。
 これからもキリスト者として聖書を通して考えていくべき点は、軍事力の是非と警察力の是非。国家機密の取り扱い。政府を起点とする憲法改正論議の正当性。再び獣化する国家権力に対する教会の姿勢と具体的な行動。
 世の終わりまで、教会はこの現実と向き合いつつ、祈りを怠らず絶えず神の御心を求めていくものでなければならない。

 

まとめ
キリスト者はキリストに倣い、第一義的に神の支配に置かれていることを認め、剣ではなく非暴力を第一に求めるように努める。(12) 
キリスト者は、キリストの再臨まで、神の国の「すでに」と「いまだ」の緊張状態にあることを認め、完全な神の国支配下にあるという絶対的平和主義もしかり、同時に神の国の予備的な期間としての、この世の暫定的な権能を認め、正しく治められるよう執成していく。(13) 
③ 為政者が暴走することを阻止するために、平和的手段によって抵抗する権利があり、どのように行使していくかを常に考え、心得ておく。(14) 

 

                                                   (文責:川﨑憲久)

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(1)AD.380年ローマ皇帝テオドシウス一世によってキリスト教ローマ帝国の国教とされたが多くの問題が始まったと言ってよい。第一に司教の任免権を皇帝が持ったことである。第二に、他宗教を禁じたため不信者も表面的な洗礼を受けることによって教会に加わり、そこに政治的、社会的地位・権力によって発言力を持つ者が増えることで、徐々に信仰から外れた判断、常識が教会全体に浸透していったことである。
(2)バルト,カール, 天野有訳『国家の暴力について』(新教出版社,2003)
(3)カルヴァン,J, 渡辺信夫訳『キリスト教綱要第四篇改訳版』(新教出版社, 2011)p.546
(4)ヨシュア6:17
(5)創世記9:6, 出エジプト20:13,
(6)ダビデは神殿建設を願ったが、戦争で多くの血を流したために主は許されず、その嗣業はソロモンに譲ることとなった。Ⅰ歴代誌28:2~3参照。
(7)マタイ5:21~22
(8)創世記1:29
(9)創世記11章
(10)「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」

(11)ローマ13:1~7、Ⅰペテロ2:13~15参照。
(12)マタイ5:21~24、38~48、26:52、ローマ12:19~21、Ⅰペテロ2:18~23
(13)ローマ13:1~7、テトス3:1、Ⅰペテロ2:9~18
(14)使徒5:27~42、25:1~26:32