日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎特集:教父「ヨアンネス・クリュソストモス」

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1.生涯
 ヨアンネスは4世紀の神学者コンスタンティノープル大主教キリスト教会最大の説教家として知られる。聖書解釈学者としては、アレクサンドリア学派の比喩的、思弁的解釈を退け、アンティオキア学派の伝統を踏まえて字句通りの解釈を主張した。聖餐を重要視したことから聖餐博士の称号をもつ(1) 。
クリュソストモス(κρυσοστομος)とは名前ではなく、ヨアンネスの死後につけられた(2) 「黄金の口」を意味する尊称である。 
344年、または349年にアンテオケで、ローマ帝国近衛軍人の父親と母親アンテューサの間に生まれた。しかし、母アンテューサが二十歳のとき、父親は死に、それ以降はアンテューサによって献身的に育てられた(3) 。
ヨアンネスは18歳で洗礼を受け、聖書と神学を学んだ。371年頃教会の聖書朗読者となるが、隠匿生活を志し、荒野の洞窟に2年間、聖書の言葉を瞑想しつつ過ごすが、厳しい禁欲生活によって健康を害してしまった。その後、町に帰り381年に執事に任ぜられ、386年に司祭となった。そのあとアンテオケの説教者となり説教者としての名声を博した。
 397年、ヨアンアネスは意に反してコンスタンティノポリスの総主教に選ばれ、398年その任に就いた。彼はコンスタンティノポリスの陰謀や圧力には屈しなかった。首都の道徳水準を引き上げようとするヨアンネスの努力は強烈な反対に合った。皇后エウドクシア、ヨアンネスを厳しすぎるとした地元の聖職者たち、首都に迎えられたアンテオケの聖職者たちを妬んだアレクサンドリアの総主教テオフィロスらが協力して、ヨアンネスに反対した。
 彼らは403年のオーク会議でヨアンネスを罷免し、皇帝もそれを承認し追放した。しかし、コンスタンティノポリスの市民は、ヨアンネスを支持して暴動を起こしたため、皇帝は驚き、翌日にはヨアンネスを呼び戻した。
 ヨアンネスの説教は一見無愛想とも言える勇敢なものであったが、皇后エウドクシアはそれに腹を立て、再度ヨアンネスを亡き者にしようとした。皇帝は彼に教会の公務から退くように命じたがヨアンネスが拒否した。ところがある日、ヨアンネスが洗礼を行うために求道者会を開いていたときに、彼は兵士らによって連行された。このとき多くの受洗予定者らが負傷した。この追放命令は、407年9月14日にヨアンネスが死ぬまで続いた。彼の死後遺骨は438年になってようやく使徒教会に埋葬された。

 

2.背景
 当時のキリスト者にとっては、名説教家の説教を聴くことが一種の娯楽となっていた。その中で教父と呼ばれる人々の大多数は司教であり、説教する機会を多く持っていた。聖書の連続講話、洗礼志願者の信仰教育のための連続講話、典礼の暦に沿った祝祭日・主日のための説教、葬儀説教といった多くの形式の説教がたくさん残されている。長さもまちまちで、20分くらいのものから1時間以上かかっただろうと思われるものもある。
 そのくらい、当時の教父のだれもが説教に力を注いでいたことがわかる。しかも、説教の内容が、キリスト者としての生き方について相当厳しいことが語られていた。
 3世紀以前には既に教会は財産を持ち始めていたが、教会を維持するパターンを変えたのは4世紀からの並外れた教会成長であった。自主的な献金が依然として教会収入の重要な部分を占めていたが、コンスタンティヌス以後は、政府補助による寄付金が収入の大部分を占めるようになり、初期においては、これらの収入は主教にのみ割り当てられ、乱用される結果になった。つまり、ローマの国教となって保護され、国家と歩調を合わせるようになってから、教会は様々な部分でキリストの香りを失っていったのである。
 
3.神学的貢献
 ヨアンネスは、黄金の口と賞賛されたほどに、語られてきた多くの説教は現存するだけでも数百はあるという。その説教はギリシャ語聖書の意味に対する洞察と、聴衆への適用能力において優れており、説教学において不朽の貢献と言われている(4) 。
 
4.思想
 ヨアンネスは、一人のキリスト者として、言葉と態度においてぶれることなく、一貫した歩みをした人物である。首都コンスタンティノポリス大主教となっても驕ることなく、他の指導階級の人々のような贅沢や毎晩の遊興に染まることなく、聖潔に努めた。特に彼が移り住んだ司教館が、前任者による華美な調度品に溢れていたところを全て撤去し刷新したが、彼のそのぶれない姿勢、信仰は宮廷に対しても向けられ、その反感を買い宗教的、政治的圧力を加えられても怯まなかったのである。
 ヨアンネスがコンスタンティノポリスの司教に任ぜられたとき、首都コンスタンティノポリスには、大勢の異端者が群れをなしていた。彼は早速、異端者の一掃に乗り出した。ヨアンネスは一般の人々に対しては物分りが良かったが、異端者に対しては頑固で、冷酷だったと言われ、イエスを十字架にかけたユダヤ人に対しても攻撃的であった。説教の中でも、時折、激しくユダヤ人に対して攻撃し、排斥することが語られていたという(5) 。
 また彼は、自分の不運に屈することがなく、自分のことよりも人のことを心配し、慰め励ましている。特にオリンピアスという女性信徒に宛てた17通の手紙にヨアンネスの信仰の姿勢、キリスト者としての立ち方、その思想を知ることができる。
「私はあなたの悲しみの傷を癒し、暗い雲を追い散らしたいのです。落胆してはいけません。恐れなければならないことはただ一つしかありません。それは罪です。私は繰り返しあなたのために歌い続けます。陰謀、憎悪、侮辱、告発、追放、抗争といったものは一時的なものに過ぎません。魂には何の危害も与えることはできません。禍が最高潮に達するとき、神は一挙にすべてを平穏に戻し、思いも及ばない平安へと導いてくださいます。」
「あなたは神の巧妙さがわかりますか。神の英知がわかりますか。人間に対する神の愛と配慮がわかりますか。心を動揺させず、心を乱さないでください。あらゆることで神に絶えず感謝し、賛美し、祈ってください。倒れた人々を立ち上がらせ、迷った人々を導き、躓いた人々を安心させ、罪人を変容させ、古くなったものを新しくすることが主にはおできになるからです。」
 以上のようにヨアンネスは、聖職者や為政者などの指導階級に対しては厳しく、庶民に対しては深い憐れみをもって対していたことがわかる。


5.知的・霊的遺産
①多くの説教集
 彼の「立像をめぐる第二の講話」は、「何を話し、何を語りましょうか。今この時は涙の時であり、言葉の時ではありません。嘆きの時であって、語りの時ではないのです。熱弁ではなく、祈りが必要です」という言葉で始まる。この説教は、四世紀末のアンテオケにおける市民暴動を背景としている。社会の混乱と対立を嘆き悲しみつつ、慰めのメッセージを伝えている。「ですから落胆せず、嘆くこともせず、逆に今この苦しみを恐れることもしないようにしましょう。自らの血をすべての人のために流すことを拒まず、その肉とともに血までも分かち与えた方が、われわれの救いのために何を拒むでしょうか……」
 また説教の中から名言として知られているものもある。
「明日の朝にしようなどと言ってはならぬ。朝が仕事を仕上げて持ってきてくれるわけではない。」
 また、復活祭説教のひとつは、今も尚、東方正教会において復活大祭典礼の一部に取りいれられている。
著書に『司祭論』『彫像について』などがある。

②東西教会に今も尚影響を与え続けている存在
 クリュソストモスの祈り(クリソストムの祈り):聖公会祈祷書
「いまこの共同の祈りに心を合わせて祈る恵みを与えてくださった主よ、
あなたはみ名によって心を一つにする我々二人または三人に、
み心にかなう願いを遂げさせてくださると約束されました。
どうか私らの願いをかなえて良しとされ、今の世では主の真理を悟り、
後の世では永遠の命の恵みにあずかることができるようにお願いします。
アーメン。」

 

【脚注】

(1)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(2017年10月18日閲覧)
(2)一方、人々が聖イオアンを「金口」と呼ぶようになったのは、ある時説教中に聴衆の一婦人が「心霊の師、いや金口なるイオアン、あなたが堀られる聖教の井戸はあまりに深く私たちの短い知識はその底に達することができません。」と叫んだ事に由来するとも伝えられている。(出展:正教時報聖人伝一覧2017.10.19閲覧)
(3)ファーガソン, E, 「カラーキリスト教の歴史」(いのちのことば社, 1979) p.191
(4)ファーガソン, E,前掲書, p.191
(5)教皇ヨハネ・パウロ2世は、このヨアンネスの言葉からユダヤ人に対して取ってきた厳しい態度を謝罪した。ヨアンネス自身も自分の欠点を認めており、自らの虚栄心について、嫉妬心について、激しやすさについて告白している。(出展:小高毅「父の肖像」ドン・ボスコ社, 2002)

【参考文献】
ハーレイ,H,ヘンリー,聖書図書刊行会編集部訳『聖書ハンドブック』聖書図書刊行会, 1984年。
『カラーキリスト教の歴史~クリュソストモス』いのちのことば社, 1979年。
小高毅『父の肖像‐古代教会の信仰の証し人』ドン・ボスコ社,2002年。