のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「契約を思い出される神」創世記9章1〜17節

序論
 今日の箇所からは、新しい世界での生き方を学びます。それで今日は大きく二つに区切って読みたいと思います。
  きょうの説教の一つ目のポイントは、(1~7節)前回の礼拝を受けての「神様からの祝福」について聞いていきます。二つ目には、(8~17節)「新しい契約にある恵み」について考えたいと思います。
それでは、1~2節をもう一度読みます。

 

1.祝福のことば
「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」
 ここの神様のことばは8章の21節以降の続きのことばです。しかし、8章21節以降のことばはあくまで神様の心の声でした。それはノアの礼拝を通してなだめられて、ノアを祝福しようとする思いをつづったものでした。そのノアの礼拝による感動がことばになって、この9章に続いているわけです。その第一声は何でしょうか。それは「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」でした。どこかで聞いたことがあるフレーズです。これは前回も触れましたが、天地創造に戻ったかのような思いになる言葉です。
 神様は、人類の再出発を祝福して、まさに再創造したということで、この言葉を語られたのです。しかも、この9章では2回言われています。それは7節です。
「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」
 これはつまり、繰り返しであり、同時に同じ意味の祝福のことばで、大事なものを挟んでいるサンドイッチ構造になっています。ここが一番最初の天地創造とは違うという意味でもあります。神様はノアの礼拝を祝福した。そして、その献身に感動して祝福しました。それも「生めよ。ふえよ」と。だからどんどん子孫を増やしていくことを神様は望まれているし、結婚も出産も神様は祝福されているということです。それで二回も繰り返して言われました。
 でも、この再出発は何かが違います。天地創造のときと違う点は何か。それは罪を持った人間から始まるということです。しかも、今度は一家族から始まります。つまり罪の性質を持った集団からの再創造ということです。ですから、神様は、いい人たちだけが残ったから良かったねと言って、両手離しで彼らに任せはしませんでした。確かに、この2節では「野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。」と言われていますが、それをどのようにするか、その基準を定めておかないとまた混乱が起きてしまうでしょう。
 そこで、神様は契約を結ばれるのです。今日は特別に聖書に見る契約の歴史という図を配りました。左上のエデンの園から始まって、罪が入ったことで死がもたらされました。それで堕落がきわまったために大洪水でのさばきがありました。それがその図の一番下の部分です。そして、今日のところではノア契約のことをお話しています。
 最初の契約、アダム契約をみなさん覚えているでしょうか。それは、園のどの木からでも食べても良いけど、善悪の知識の木の実は食べてはならない。食べると死ぬ。これが最初の契約であり、たった一つのルールでした。しかし、そのたった一つのルールは最初の人アダムに委ねられていました。それを妻や子どもに伝えるかどうかはアダムにかかっていたと言っても良いでしょう。しかし、そのあと悪魔の誘惑があって罪が入り、人間は神のことばよりも自分の考えを優先することになりエデンの園から追い出されました。それで無法地帯で人間は増えていき、しまいには堕落して滅ぼされたのです。それがノアの大洪水です。
 だから残った人たちは良い人たちだから良かったねと言いたいですが、そうではない。罪の性質を持った人たちが生めよ、増えよでどんどん増えたら大変です。そこで、更に神様はルールを設けました。それが3節以降です。
「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。」
 まず食べ物の枠を植物だけでなく動物にも広げました。天地創造以来、食べて良いのは木の実など植物に限定されていました。しかし、ここで神様は動物も食べて良いという許可を与えました。それはどうしてでしょうか。大きく二つのことが言えると思います。それは、洪水後約1年が過ぎて、周囲に食べられる木の実などの植物が少なかったと言えます。畑を作って実りを期待したとしても、とてもすぐに食べられる物はできません。また動物たちが食べる分もありますから、食料不足を補うためだったかも知れません。これはあくまで憶測です。第二の理由は、罪ある人間たちから始まる再出発ということなので、血を流すことの責任、血を流すことの意味。動物のいのちを奪って自分が生きるという、いのちの原理を自覚させるためだったとも言えます。そのことが4~5節に書かれています。
「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。」
 アダムの契約は罪を犯す前に交わされた契約で、原則的なことしか言われていませんでした。そこでカインが弟アベルを殺したときに、アダム一家はどうして良いかわからなかったでしょう。そういう人たちが増えていって、自分の考えで良し悪しを決めていった結果堕落したわけです。だから人を殺しても何とも思わなくなっていた可能性があります。そこで神様は、そうではいけない。人間をはじめとするすべての生き物のいのちは何よりも尊い。そのことをこれから始まる人間社会の大原則にしたのです。それがこのノア契約の特徴ではあります。それはすべての被造物のいのちへの思いやりにも繋がっていきますから、ノアにそれらをゆだねていこうと言われた意味が見えてきます。
 私たちは、いのちを大切にする。それは自分のいのちも他の人のいのちも、そして他の生き物のいのちもです。4節のみことばから輸血拒否をする宗教団体がありますが、その解釈は間違っています。血のまま食べることと輸血を混同してはなりません。むしろ、いのちの危険がある人に対して、自分のいのちである血液を差し出すことこそ、主のしもべの姿です。「人がその友のためにいのちを捨てるという。それよりも大きな愛はない」とイエス様が言われたようにです。イエス様ご自身が、ご自分を犠牲にして十字架で血を流して、その血を私たちに注がれました。その血は永遠のいのちとして、キリストのいのちとして今、私たちのうちにあるからこそ、今こうして救われた者として恵みを受けているのです。
 それで、新しい洪水後の世界では、社会の中で人の血を流す者への責任を問うことになりました。6節。
「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」
 このことばは、個人の復讐を認めているのではありません。「目には目、歯に歯」の本来の意味を告げているのです。このことが更新されてモーセの律法ができるともっと鮮明に書かれています。
「レビ24:20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」
 やられたらやり返すのではなく、やってしまったら同じことをされなければならないということです。ですから、ここから人間社会における刑罰の正当化が始まります。人間社会に神様が与えた権威としての剣のことです。このことについてはまた違う機会に学びたいと思います。
 このように、神様は罪の性質を持った人間たちが正しく治めていけるように、大原則を与えたのです。その原則をもって、生めよ増えよと言われたのです。
 次にその契約の恵みについて見ていきましょう。
9~11節を読みます。

 

2.契約の恵み
「さあ、わたしはわたしの契約を立てよう。あなたがたと、そしてあなたがたの後の子孫と。また、あなたがたといっしょにいるすべての生き物と。鳥、家畜、それにあなたがたといっしょにいるすべての野の獣、箱舟から出て来たすべてのもの、地のすべての生き物と。わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」
 この契約の特徴の一つは、いのちを大切にすることが中心であることは先程言いました。それは全ての生き物をひっくるめてのいのちであります。この9~11節の契約の言葉にも、ノアと家族だけでなく、すべての生き物も含めての契約を立てると書いてある通りです。だから、人間は責任を持って、動物のいのちも気遣って食べなければなりません。また気遣って殺して服を作らなければなりません。その上で、神様はもう洪水で滅ぼすことはしないと言われました。
 しかし、現代はもうすでに絶滅した動物が多く存在することを私たちは知っています。そして更に絶滅危惧種も多く存在していることも知っています。それは、人間による乱獲から始まり、人間による公害、開発によるもの。また外来種による在来種の駆逐によるものです。自然界の生態系を壊しているのは人間です。それはいのちを軽んじるところが出発点になっている。それをこのノア契約を通して知ることができます。
 それで神様は、契約を人間とすべての生き物との間に結ぶに当たって「虹」を与えました。12~14節。
「さらに神は仰せられた。「わたしとあなたがた、およびあなたがたといっしょにいるすべての生き物との間に、わたしが代々永遠にわたって結ぶ契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現われる。」
 契約が口先だけで終わらず、かたちとして記憶されるためにしるしとして虹が与えられました。
虹のことを英語でレインボーと言います。それはレイン(雨)とボー(弓)の合成になっています。雨のあとに現れる弓という意味なのでしょうか。旧約聖書の原語であるヘブル語では、虹も弓も同じケシェトという単語が使われます。旧約聖書の中で稲妻が神の矢として比喩的に用いられている箇所があるので、神の怒りがおさまって、その弓が置かれた状態が虹に表されているという説もあります。
 いずれにしても、神様の怒りが止み、祝福がそこに表されていることをまず覚えたいと思います。虹を見て、神様との平和、そこから来る平安(シャローム)を覚えて、特別な気持ちにさせられるのは、聖書を信じている人の特権だと思います。
子どもたちが小さい頃に聖書かるたをよくしました。その読み札のことばを今でもよく覚えています。「虹は平和のお約束」ぜひ、今日、メッセージの全てを忘れても、この言葉はぜひ覚えて帰ってください。「虹は平和のお約束」
 ここに神様のノアたちに対する祝福の御心が溢れています。契約を交わすだけでなく、それを思い出すためのしるしとして虹を与えてくださったからです。しかし、それだけではありません。今日の箇所から、大きく三つの恵みを受け取りたいと思います。
  それは、まず「契約」という恵みです。9節以降7回も使われています(最初は6:18)。先週の祭壇とか全焼のいけにえと同じように、この契約という言葉もノアの箱舟のお話の中で初めて使われています。それは、特に罪を持った人間たちが社会を築いていく中で必要なことだからです。
  現在、私たちは多くの契約の中で生活しています。そしてそれは法律というものによって統制されています。その法律は一見面倒臭いとか、細かくて厳しいという面はありますが、でもその法律があるから、そこに契約があるから守られているのも事実です。

   車を運転する人は大抵、保険の契約をします。その契約のせいで毎月ある一定のお金を払わなければなりませんが、それによって、事故を起こした場合でも、その規則によって守られて大金を払わずに済むというのも、契約のおかげであり、それを定めた法律のおかげなのです。このように、人間の社会に多くの法律があり契約があって、私たちは互いにバランスをとりながら、平和を保とうとしているのです。その大原則が、今日のノア契約であることを覚えたいです。ただしアダム契約も生きていることを前提にしなければ、いくら良い法律を作っても脱法しようとする力に負けてしまうでしょう。今は、善悪の知識の木はないですが、アダム契約の基本的なおきては生きています。それは自分の考えや知恵知識ではなく、神のことばを優先するという大原則です。神のことばから離れるならば、どんな立派な知恵も力も何の意味を持ちません。あくまで神のことばを第一にする上におけるいのちの大切さであり、社会制度、そして契約なのです。まさに、この世の社会の決まりはそもそもが神様がノア契約の中で言われたことから始まっているのです。だから、神様を信じている私たちは、神様のことばを第一にして初めて、この社会の決まりとの調和を実践できるのではないでしょうか。
  この神様との契約もまた、続くアブラハム、シナイ、ダビデ、そして新約までそれぞれがその都度なくなるわけでなく、その次の契約ごとに更新されて、最後の新しいイエス様による契約で成就します。そこに完成した神の国があり、今の私たちが聖霊の助けの中でその建設に関わっているのです。それが教会の時代です。
  そして二つ目の恵みは、契約のしるしである虹が、真っ青な晴天の中で見るのではなく「雲の中に」あるということです。13節、14節、16節にも、「雲の中に」と書いてあります。それは、どういうことでしょうか。これは読み込み過ぎかも知れませんが、やはり初めから言われているように、この再出発は天地創造のときとは違って、罪の性質を持った人たちからの再出発でした。ある意味、すっきり晴れてはいない状況かも知れません。その不安な要素を持っているからこそ、そこに現された虹の意味が際立つのではないでしょうか。
  私もこの春、神学校を卒業したばかりの新卒牧師です。暗雲どころか雷雲か台風の雲かも知れません。でも神様はそんな中に虹を与えて、主の約束を信じるように示されているのではないでしょうか。皆さんも、これまでの歩みの中で様々な問題を抱えつつ4月を迎え歩んで来られたのではないでしょうか。それは教会のことだけでなく、それぞれの家庭や夫婦や兄弟や職場や学校の中で、暗雲立ちこめた状況があったのではないでしょうか。しかし、主はそこに虹を現してくださる。そこに神様の約束を示してくださる。それは信じる者には祝福が必ずあるという約束であり、その問題の中にあっても主の契約に生きることこそ希望であり祝福であるということではないでしょうか。なぜなら、神様との契約は、すべてその契約の主体が神様にあるからです。私たちが契約を忘れても神様は忘れません。今週のみことばにもあります。
「主は、ご自分の契約をとこしえに覚えておられる。
お命じになったみことばは千代にも及ぶ。 」 詩篇105篇8節
  主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる。私たちは忘れてしまうかもしれない。しかし主は責任をもって覚えてくださる。今日の三つ目の恵みはまさにそこです。今日の説教題は「契約を思い出す神」としました。今まで見てきた、契約のしるしの虹。「虹は平和のお約束」と覚えてきた虹のことを神様はどのように言っておられるでしょうか。それは16節。
「 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
  神様は忘れるお方でしょうか。神様は虹を示して、「あなた方人間は罪深く神のことばも忘れるだろうから虹をしるしとして与えた」とは言わなかったのです。ご自分が虹を見たときに永遠の契約を「わたしは思い出そう」と言われるのです。なぜでしょうか。神様は忘れっぽいお方なのでしょうか。そうではありません。それは、虹が出たときに、当然私たちはそれを見て、神様との平和の契約を思い出し感謝するでしょう。そのとき、その虹を神様ご自身もいっしょに見ているよ。そして、あなたを祝福してるよ。安心して歩みなさいと仰っているのではないでしょうか。しかし、もし私たちが忘れたとしても、神様は誠実にその約束を果たされるのです。私たちが不真実でも、主はいつまでも変わらず真実なお方だからです。

 


  それは契約の歴史の中で常にそうでした。アブラハムが罪を犯しても、イスラエルの民が堕落しても、ダビデが罪を犯しても神様の契約は変わらず履行されました。そして、最後の契約であるイエス様は、十字架にかかってそれをすべて成就しました。そして契約のしるしとして、今、私たちはパンとぶどう酒によってそれを記念しています。ですから、今の私たちにとっての救いの契約のしるしはパンと杯に表される主の死と復活であり、イエス・キリストご自身であります。
 今、聖霊が与えられ、完全な契約に入れられた私たちは、今日、16節のことばを自分のことばにしたいと思います。これは私たちが言うべきことばを神様が先立って語ってくださった。その言葉だからです。 
「 虹が雲の中にあるとき、わたしはそれを見て、神と、すべての生き物、地上のすべて肉なるものとの間の永遠の契約を思い出そう。」
 今週も私たちにとっての虹である主イエスを新しい契約の主として崇めてまいりましょう。