のりさん牧師のブログ

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◎特集「旧約聖書に見るイエスと神の御国について」

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序)主イエスは、主の祈りの中で「御国が来ますように」と祈られた。この祈りは、果たして新約においてのみ有効なのだろうか。いや、そうではない。天地創造から黙示録まで貫かれた神の偉大な計画の完成を願うという、人類の救済とそこから召された者の使命として最も崇高な祈りである。主イエスによる旧約聖書における御国建設の業を今一度考えてみたい。

 

I. 天地創造
A. 初めに(神の普遍的統治)
1. 天地創造におけるイエスの関与
 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)この大いなる御業の初めから御子はおられた。それは「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)というみことばによって裏付けられる。御子はまだ名を現してはおられなかったが、人間を創造されるとき、聖なる独り言を仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(創世記1:26)

 

2. 天地創造における神の住まい
  このときまで、神はどこにおられたのか。私たちが知る限り「地は茫漠として何もなかった」(創世記1:2)という神の住まいは「やみが大水の上にある」という神の国であった。神の霊が水の上を動いていたという御霊の様子を示す表現は、いささか私たちにはわかりにくい。しかしわかることは、神は、茫漠で終わらない新しいご自分の王国の建設を始められたということである。

 

B. エデンの園
1. 園を歩く神としてのイエス
  神は天地を創造され、地にエデンの園を置いた。神は、そこに人間をお造りになり、人間との交わりを始められた。しかし、人間は神に背き、神から身を隠した。そのときの神のエデンの園における様子が描かれている。「そよ風の吹くころ…園を歩き回られる神である主」(創世記3:8)とは、まさに主イエス受肉前とはいえ、そのようなお姿で神としておられたとしても不思議ではない。2世紀に活躍した教父エイレナイオスも、エデンの園を定期的に歩き回りアダムと交わりを持っておられたのは「ロゴス」。つまり、第二位格の御子だと言っている。

 

2. エデンの園における御国の型
 人間は罪を犯し、神が与えてくださったエデンの園を追放されてしまった。そして、その神は、入り口にケルビムを配置し(創世記3:24)、人間が簡単に戻れないように閉ざした。それはまさに、エデンの園が神とともに住む神の御国であったことの証拠である。これによって、エデンの園の場所は私たちの目には見えなくなった。そして、その後幕屋の至聖所として、そこに近づくことの難しさをイスラエル民族を通して学ばせられる。ところが神は、「女の子孫」によって人類の救済プランを明かされた(創世記3:15)。

 

II. 出エジプト~カナン
A. わたしはある
1. モーセに現れるヤハウェとしてのイエス
 ヤハウェなる神は、燃える柴の中からモーセに語られた。そして、その名を「わたしはある」と仰せられた。その声は最初御使いであったが、いつの間にか神になっていた。この神こそ、新約においてἐγώ εἰμι と語られたキリストである。主イエスは度々、ἐγώ εἰμι を用いられ、ご自身が燃える柴の中からモーセに語ったYHWHであることを現された。

 

2. 幕屋礼拝に見る御国の型
 主は荒野で40年間イスラエルの民を訓練された。その訓練の最も重要なテーマは「礼拝」であった。かつてエジプトにいたイスラエル人たちは、必ずしも純粋に主なる神を礼拝していたわけではなかった。だから約束の地に入るまでに、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がどれほど聖なるお方であり、どのように礼拝すべきお方かを学ぶ必要があった。それで、主はモーセに幕屋を造るように命じ、荒野を進み行きつつ、主を礼拝するためには罪の贖いを続けなければならないこと。そして、ひいては約束の地で主を礼拝して、主こそ神であることを世界中に証しするためであった。それは即ち、神殿礼拝のための訓練であり、来るべき御国における礼拝の予表であった。

 

B. ヨシュアによるカナン攻略
1. ヨシュアの役割にみるイエスの姿
 旧約におけるイエスは、人物を通してであったり、出来事を通して、その姿を現す。パウロによれば、律法は信仰による義に至るまでの養育係であった。律法はあくまで私たちを御国に至るまでの養育係であり、御国に至る手段はあくまで主イエス・キリストを信じる信仰によってである。それは、まさしくカナンの地に至るまではモーセイスラエル人たちの養育係であり、カナンへ入ったのはヨシュアによるものであったことと類比できる。御子はヤハウェなる神としてヨシュアを導きつつ、やがて自ら信仰の創始者であり完成者として成される「信仰による義」としての救いの業を重ねていたのである。

 

2. カナンに見る御国の型
 カナンの地は別名「乳と蜜の流れる地」であった。それは神が与えられた約束の地としての期待と希望に溢れた、安息の楽園のようなイメージであった。しかし、実際には偶像を崇拝しているカナン人が住み、砂漠や荒野に囲まれた地であった。夢に見た楽園には程遠かった。しかし、このカナンの地への旅こそ、将来、訪れる新しい天と新しい地を先取りした、祝福の旅であり、祝福の土地だったのである。荒野で幕屋によって唯一真の神である主を礼拝することを学んだイスラエルの民は、いよいよ、更に具体的なヤハウェ礼拝へと向かっていくことになる。

 

III. 王国時代とバビロン捕囚
A. イスラエル王国(神の特別統治)
1. ダビデ王家の確立とイエス詩篇2:4~6参照)
 神がアブラハムに約束されたことは、ダビデの家系に繋がっていく。ダビデ王こそ、主に油注がれた者であった。その王座は堅く立ち、その治世は永遠に続くという主の約束がソロモンよりも力のある王である主イエスの王国を指し示すものであった。だからこそ、マタイはその福音書の1章に、ダビデ王家の系図アブラハムから記し、イエスこそ来るべきキリストであったことを証明している。主がダビデとの間で結ばれた契約は、主の一方的な恵みの契約である。これは、将来におけるイエスの十字架の犠牲にフォーカスさせる。

 

2. 神殿礼拝にみる御国の姿
 ダビデが準備した神殿は、すべて心から主を喜んで進んでささげる者たちのささげものによって造られた(Ⅰ歴代29:9)。ダビデの後を継いだソロモンがその神殿を奉献した。栄光の雲が神殿に満ち、主の臨在が現された(Ⅱ歴代5:14)。この神殿こそ、イエスご自身の型であり、御国における礼拝のひな型である。しかし、ソロモンが建てた神殿はバビロンによって破壊され、捕囚後における神殿建設において、イスラエルは神を礼拝する喜びを改めて教育させられた。

 

B. 預言者とバビロン(終末的側面)
1. 預言者が指し示すイエスの姿
 イザヤ書記者は、イザヤ書の中で4つの「しもべ」の預言をしている。その姿は主イエスを指し示している。特に苦難のしもべとしての描写は預言とは思えないほど、具体的で詳しい。だれがこのしもべをメシアだと認識していただろう。預言は、未来のある一定の出来事の予告だけでなく、何重もの歴史的事実が重なっている場合があるため、イザヤが預言していた時代に近いところで第一の成就があったのかも知れないが、旧約聖書において詳細な主イエスの情報を知り得る貴重な預言である。そういう意味では、45章のクロス王についての記述は実にユニークである。それは、あきらかにペルシャのクロス王を指していると同時に、それだけでなく主イエスを指し示す意味も含んでいるからである。それは、ユダ王国のバビロン捕囚と解放、帰還について書かれていると同時に、終末的な神の御国に至る預言でもあるということである。

 

2. 来るべき御国の姿
 ただし、イザヤ書における御国の描写は、どことなくエデンの園の再来のような地上における被造物の回復に留まっているように見受けられる。猛獣が子どもと戯れるなどは、まさにその善い例である(イザヤ11:6~8)。35章の様子は、荒野に水が湧きだし、荒れ地に川が流れるなど、自然界のバランスが回復していく様をよく現している。しかし、エゼキエル書の描写は、地名は既存のものであるが、その様子は常識を超えた広がりを感じさせる(エゼキエル47章)。
 イスラエル民族にとって、これらの預言はこの地上における歴史の延長上にある世界への希望だったのかもしれない。期待されるメシアもイスラエル王国も、現在のイスラエル共和国の上に成り立つというイメージである。しかし、聖書はイエスをキリストとして、既に神の国の到来を宣言し、同時にやがて訪れる完成された神の王国を待ち望むことを語る。 
それは、Laddが言うように、「神は王であるが、同時に王となる必要もある」ということと繋がる。

 

結論)主イエスは、新約聖書だけの主ではなく、天地創造の初めから父とともにおられ、また神としてその業に関与された。アダムとエバの罪をご覧になり、人類救済のプランを計画したとき、父なる神とともにおられたひとり子の神である。神は、人間と交わることを望まれ、共に住む王国の建設を目指された。そこに、犠牲の子羊としてのイエス・キリストを予定され、旧約聖書の中でイスラエル民族を通して、その輪郭を現してきたのである。だから私たちは、その主イエスの輪郭とやがて来る神の御国の輪郭を、旧約聖書の中から味わうことができる。 
  それによって、ワルトケが言うように「神はイエス・キリストの王権を通して、自ら選んだ契約の民のうえにご自分の支配を確立しようとされた。」ということを理解することができる。それは現在、クリスチャンという個人の中に、また教会の中に建てられた御国であり、同時にキリストの再臨によってやがて完成される御国である。


文責:川﨑 憲久