日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎【要約と感想】「霊感についての教会の教理」ジェフリ・W・ブロミリー著 舟喜順一訳

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  教会の霊感の教理は、聖書自体の自己証言を出発点としており、それは聖書が神のことばであるという理解と無謬性への信頼において成立している。聖書でいう霊感とは、それは聖霊の働きであり、必然的に神的起源と権威から生まれている。霊感は、人間の精神の恍惚状態の高揚だけを指すのではなく、聖霊の内なる働きのことである。聖霊は、聖書によってイエス・キリストを証言している。聖書を与えてくださったのは聖霊なる主であるから、聖書を通して聖霊の声を聞かなければならない。聖霊によって書かれたものは、聖霊によって読まなければならない。

 

Ⅰ. 初代教会を脅かした異見
  ユダヤ主義的影響により、聖書がただ感情に訴えるような程度の低い文書と同等にされない助けとなったが、イスラエルにおける聖書諸書著者等の人間や状況を通して、神が救いの御業を行われたにも関わらず、ユダヤ選民意識に強調点が置かれ、聖書の神的性質と権威を分離させる傾向を持っていた。聖書の本質であるイエス・キリストへの証言を認めず、聖書を骨抜きにして、単なる宗教書とならしめた。イエス・キリストを拒否することで聖霊の証言を斥け、旧約聖書に現わされていた、生きた証しを聖霊によって受け取る力が失われた。異教的な影響による熱心な信者の恍惚の言動、神託宣言等の霊感現象は、他の宗教にも見られる熱狂的状態の危険である。これは、精神的、或いは肉体的興奮の極限状態であり、霊的と言うよりは極めて人間的現象である。この状態への追及は、神が聖書に示す本来の霊性を人間的なものに引き下げてしまう。


Ⅱ. 教父時代
  聖書的な霊感の教理は、教父時代のほぼ全期間に渡って維持、展開された。ユダヤ主義的、異教的、教理の影響がないわけではない。幸いにして、モンタヌス主義の行き過ぎが異教的恍惚状態の中で聖書が書かれたとする考え方を決定的に抑える役目を果たした。その反動もあり、聖書の口述筆記に接近し、神が聖書を書いたという点を強調するあまり、著者がだれでも良かったという、危険な傾向も窺える。聖書記者をロボット視する見解が生じる道を開いてしまい、読者に光を与える聖霊の御業を消し去るものとなっていった。


Ⅲ. 中世の教会
  明確な霊感の教理があるのに、その権威に口輪がかけられ、霊的生命力が消されるような事態が生じた。聖書の霊感が完全に受け入れられていたにもかかわらず、人間的要素が、他の領域で、それだけ強く立ち上がり、聖書の権威に挑戦し、それを従属させてしまった。欠点のない教理も、教え方や適用の仕方で、真の聖書の洞察を抑圧し、歪め、意図されたことと正反対のことを造り出す。


Ⅳ. 宗教改革
 宗教改革者たちは、より純粋に聖書的理解に戻った。それは、キリストが真の聖書の主題であること。聖書はキリスト論的な型にならっており、ことばが肉となり、神ご自身であられる方がまさしく人であるのと同様に、書かれた言葉も神の言葉であると同じく、完全に人の言葉である。健全な霊感の教理と言う基礎の上で、聖書神学は常に、聖霊による祈りと謙遜と服従との積極的努力として成立する。


Ⅴ. 宗教改革後の時期
◎大きく四つの傾向に分類
①著者が神であるということが、著者が人であるという面を圧倒し、教父時代に戻る傾向があった。
②言語霊感の本質的な正しさから、不必要な極端にまで推し進めてしまう傾向があった。
③無謬の教理を誤った方向で重視する傾向があった。
聖霊の内的証言を、聖書の真正性や権威という基準より低く見る傾向があった。


Ⅵ. 十八世紀合理主義
 聖書本文の細部にまで霊感を当てはめたことにより、現実の文書や歴史に関心が集中されることとなった。その結果、言語学的本文研究が強力に展開され、記録の信憑性、真正性への合理主義的な攻撃が起こった。また人間的な主観からはみ出ずに、その合理的な領域での理解の中で霊感についての解釈をし直すことによって、聖霊の証言を人間的な尺度で情緒化されていったことは、シュライエルマッハーによる徹底的なキリスト教の主観化を生じさせた。

 

感想

「霊感」という言葉は、人々の心に好奇心を生み出す力を持っている。多くの人が、「霊」が持つ神秘的な言葉の響きに既に惑わされているからである。本書には、「霊感についての教会の教理」は、聖書の自己証言が出発点となっているとある。これは、先にも述べた通り、大変重要な出発点であることを認識させられる。それは、即ち、その出発点が即ち答えであり、この問題の土台であるからだ。本来、私たちは、聖書のことは聖書に聞いていかなければならない。つまり、それはブーメランのように、他の異見をなぎ倒しながら、また帰って来るからである。聖書から発出された問題は、様々な事柄によって検証されるが、それらが極めて人間的な価値基準であるため、聖霊が証言したことを明確に裏付けることはできない。そして、それは結論的には、再度聖霊によって動かされた人々によって、聖霊の基準で判断される。
 しかし、このような試みには、多くの妨害も生じる。それは、扱う人間が人間である限り、純粋に神の御心に立つことができないからである。それで古来、キリスト教会には、その真の霊感の理解を歪めるユダヤ主義的な影響や異教的な影響があったとブロミリーは言う。ユダヤ的な影響は生ける神との関係を深めていくことを疎かにさせ、人間の行いや功績、またその状況に重きが置かれていった。そのことにより、旧約聖書が指示していた真のメシア像を歪めてしまった。御子が受肉して来られたときに、彼の訪れを待ち続け、歓迎したユダヤ人は聖書を見る限りにおいて、シメオンとアンナだけであった。そこには、多くのユダヤ人の間違ったメシア理解があり、聖霊によって読むべき神のことばを正しく受け取っていなかった現実がある。しかし、聖霊によって導かれるならば、エチオピアの宦官のようにイザヤ書53章の苦難のしもべの姿に注目させられ、結果的にその苦難のしもべこそナザレのイエスであることを信じることができるのである。
 一方、異教的な影響には、人間がある極限に至った時に伴う恍惚状態を伴う宗教体験がある。この現象はキリスト教においてのみ起こる出来事ではない。たとえば、仏教ではこのような恍惚状態で意味不明の言葉を発した場合は、前世においての言語を語っていると解釈する。また、イスラム教においても、スーフィーという宗派は、極めて内面的なアッラーを意識する中で、自らの中に存在するアッラーとの一体感によって恍惚状態になるという。これは、外面的なアッラーを意識しているスンニ派からは異端視され迫害の対象になっている。
 このように熱狂的な、ある意味熱心な信仰者に見えることが、他宗教にもあることも事実であり、真に霊感された状態であるというふうに判断することはできない。かえって人間的であり、神が聖書を通して語っておられる霊感とは、違うものであると言わざるを得ない。ブロミリーも同様のことを危惧している。
 近代において、その霊感は思わぬ方向に傾き、現代の主流派と言われる人たちの神学と結びついている。かつて教会教父たちによって唱えられていた神による聖書記者の口述筆記が強調されるあまり、聖書言語のアクセント記号にいたるまで霊感されているという解釈の反動で、聖書本文が本来求められていない批評的な読み方により、合理的に、また実存的に解釈されることによってリベラルな神学が生まれてしまった。学術的には益とされる部分があるのかも知れないが、その神学によって、キリスト教がもともと持っていた霊感が拒否され、その立場に立つ教会は生けるキリストのからだとしての機能を失い、成長は滞り、人々に与えるべきいのちを失い、行き詰っている(宇田進)。そして、現在、結果的に次第に聖書に帰る傾向にあるという。
 
 私は思う。霊感について教会はいつも目を覚ましているべきだと。流行に流されず、地味に見えるが、こつこつと聖書からみことばを聞いていくことを第一にすることが大切だと、私は思う。霊感について教会がはっきりとした信仰の姿勢を保ち続けることができるように、聖霊の自由な秩序ある導きを求めたい。そして、ブロミリーも言っていたように、聖霊と言うお方は、聖霊ご自身ではなく、御子イエス・キリストを証言するお方であることと、聖霊によって霊感されたものは、聖霊によって聞き、聖霊によって読まなければならないことを改めて覚えていきたい。

 

文責:川﨑憲久