日本メノナイト 白石キリスト教会

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聖霊論04 パウロの義認をめぐるNPPの議論

聖霊論04 パウロの義認をめぐるNPPの議論  

著者:水草修治(北海道聖書学院教師・日本同盟基督教団苫小牧福音教会牧師)

 

序 ルター派・改革派の義認理解

  ルター派アウグスブルク信仰告白は、第4条「義とせられることについて」で次のように告白する。

 「また、われらの諸教会はかく教える。人は自分の力、功績、或は、業によって神の前に義とせられることはできず、キリストのゆえに、信仰によって、代償なく、神の恩恵により義とせられる。その時、人々は恩恵の中に受け入れられ、その死によってわれらの罪のために贖いとなられたキリストのゆえに、その罪が赦されることを信ずる。この信仰を神はみ前に義と認められるのである(ローマ3章、4章)。」

 改革派のウェストミンスター小教理問答の問答33には次のようにある。

「問33 義認とは、何ですか。
答 義認とは、神の一方的恵みによる決定です。それによって神は、私たちのすべての罪をゆるし、私たちを御前に正しいと受けいれてくださいます。それはただ、私たちに転嫁され信仰によってだけ受けとるキリストの義のゆえです。」

  両信仰告白の表現は違うが、内容は同じである。すなわち、

義認は①人間の功績によらず神の恵みによって、 

②キリストの義を根拠として(キリストの義を転嫁されて)、 

③神の御前に罪をゆるされ正しいと受け入れられる・・・ことを意味する。

 

 *両告白においては、キリストの懲罰代理(代償的贖罪 penal substitution)と義認とが緊密に結びついている。

 

1. E. P.サンダース『パウロ』における、「義認」の理解

 ところが、E.P.サンダースとN.T.ライトは、義認に関する新しい解釈を提案している。

① サンダースの「義認」解釈

 第一に、サンダースはブルトマンが1世紀のユダヤ教が「悔い改めも、贖いも、罪の赦しもない宗教だ」としたのに対して、実際のユダヤ教は契約規範主義(神の契約の選びが先行し、選ばれた者として律法を規範として守るという考え方)であったとする。 そして、福音書に見える形式主義的で偽善的な律法学者・パリサイ派の姿は、福音書記者による戯画化であって、当時のユダヤ教徒の現実とかけ離れているとする。

 第二に、サンダースは、パウロの「義認」は「『正しい者と正しいものとみなす』こと、つまり、罪責のない者を潔白であると考える、あるいはそう宣言すること」という普通のの意味でなく、「変えられ」「移され」て「キリストと一つにされ」「新しく造られたもの」の一部となったという意味だと主張する。その根拠は、パウロはローマ6:7でdikaiow をこの通常の枠を超えて「解放する」という意味で用いていることである。パウロ自身、類似の文脈のローマ6:18では「解放するeleuqerow」ということばを用いている。このローマ6:7のdikaiow の唯一の例外的用法から敷衍して、パウロにおいてはすべて「義とされる」ということばは、「移されてキリストと一つにされた」(ガラテヤ3:8)という意味で用いているとしている。サンダースは、イエスの死を義認の根拠とする刑罰代理の記述が、パウロ書簡の1コリント15:3;ローマ3:21-25;ローマ5:9,18;ガラテヤ3:13;2コリント5:21にある事実を渋々認めざるをえないが、「イエスの死を犠牲ととる解釈はパウロの思考の中心にはない。」と述べて、「彼の思想の核心は別の観念群、つまり、キリストへの参与と、<罪>への隷属から<霊>にある生の状態への変化にある。」と主張する。

 第三に、サンダースは、パウロが「私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」(ガラテヤ2:15)「律法による義についてならば非難されるところの無い者」(ピリピ3:6)だったと言っているように、彼はキリストを信じる以前も自分は罪人であると考えてはいなかったから、パウロにおいて「義とされる」というのは、神の御前で「罪を赦され正しいと受け入れられる」という意味であるはずがなく、彼は「最後の審判で自分を告発するような否定的要素を考えることはできなかった。」とする。

 第四に、サンダースは、ガラテヤ書の「論争の主題は、『個人はいかにして神の目の前に義たりうるか』ではなく、むしろ『異邦人は何を根拠にして終わりのときに神の民に加わることができるか』というものであった。」「『信仰によって義とされる』ことは『滅びるはずのグループから救われるはずのグループへと移される』ことを意味する。」「パウロは、異邦人に対する神の要求は、イスラエルの神を受け入れることとイエスを救い主として受け入れることのみであると論じた。彼の立場の積極的な表現は『信仰によって義とされる』、より正確には『キリストへの信仰によって義とされる』であり、消極的な言い方は『律法の行いによるのではない』、あるいは単純に『律法によるのではない』であった。彼はキリストへの信仰という要件を、異邦人にもユダヤ人にも同じように求めた。」つまり、サンダースによれば、ガラテヤ書では義と認めることは、罪の赦しと関係なく、キリストを信じ神の民に加えられる条件についてだという。

 

<コメント>

 第一に、サンダースがブルトマンに反論して、福音書に見える偽善的な律法学者・パリサイ派の姿は、福音書記者による戯画化であって、1世紀のユダヤ教徒の現実とかけ離れているとする件について、どのように考えるべきだろうか。旧約の宗教は神の恵みの契約の選びが先行し、選ばれた者として律法を規範として守るという「恵みの宗教」であるというのは改革派神学の標準的な理解である。だが、福音書は1世紀のユダヤ教の中の一部はこの本来性から逸脱した人々も多く、当時のユダヤ教徒の中には多様性があったことを示している。選びの民として律法に誠実に生きようとした人々としては、シメオン、アンナ、ザカリヤ、洗礼者ヨハネらがいた。パリサイ派であっても、律法の根本精神が神への愛と隣人愛であることを正しく読み取っていて、主イエスから「あなたは神の国から遠くない」と評された人もいた。パリサイ人であったニコデモ、アリマタヤのヨセフは、神の国を求めてそれをイエスのうちに見ていた。主のもとに来た富める青年は、永遠のいのちを得るために何かすでに与えられた律法に勝る行いが必要であると考えていた。また、パリサイ人・律法学者たちのうちイエスに敵対する人々は、その教えは立派で異邦人伝道にも熱心だったが、偽善に陥っていた。さらに、祭司階級を占める合理主義的なサドカイ派、そして世俗的なヘロデ党と呼ばれる人々も存在していた。

 

 第二に、サンダースがローマ6:7のパウロのdikaiowの唯一の例外的用法を土台にして、ほかの全ての箇所のdikaiowまでも、「移される」と解釈すべきだとする論法には無理がある。ローマ書3:19-26、同4:6-8、25、同5:8,9など、5章までは、「義とする」は「法廷的に罪を赦され正しいと受け入れる」という普通の意味で解釈できる。彼は、一つの例外的用法をもって、大多数の普通の用法として読める箇所までも読み替えるという過ちを犯している。

 

 第三に、「自分たちユダヤ人は罪人ではなかった」(ガラテヤ2:15)と言っているから、パウロは義認に関して罪を課題とは考えていないという主張は間違いである。この箇所は、文脈上、「罪人」とはユダヤ人に対して神を知らぬ「異邦人」の同義語として用いられているのであって、彼は自分たちユダヤ人は本質的に罪がないと主張しているわけではない。また、パウロがかつて自分は「律法による義についてならば非難されるところの無い者」(ピリピ3:6)であったというのは、彼が完全に律法を守っていたという意味ではなく、彼がユダヤ教にいたころ、そのサークル内の人々の基準からすれば非難されるところのない者であったという意味に過ぎない。実際、パウロはエペソ書では「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)と述べているし、後年には、自分のキリスト教徒迫害時代を振り返りつつ、「私はその罪人のかしらです。」(1テモテ1:15)とまで告白している。もっとも、サンダースはエペソ書とテモテ前書をパウロの筆と認めないが、彼がパウロ真筆だと認めるローマ書も、パウロは5章8節で「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」と述べている。つまり、パウロは自分が本質的な意味で罪がなかったなどとは言っていない。したがって、罪人であったパウロは「神の御前で罪を赦され正しいと受け入れられる」必要があった。

 

 第四に、ガラテヤ書の主題の件である。確かにガラテヤ書の主題は、「個人はいかにして神の目の前に義たりうるか」ではなく、むしろ「異邦人は何を根拠にして神の民に加わることができるか」である。しかし、だからといって、義認という用語が罪に関係していないという理由にはならない。ローマ書でも義認が1章から4章で論じられるが、ローマ書の背景にはガラテヤ書のような異邦人が神の民に加えられることに関する論争はなかった。ローマ書は、1章後半で異邦人を、2章でユダヤ人の罪を取り上げ、両者ともに罪人であると断定し、その罪の赦しとしてのキリストの贖罪死とそれを根拠とする義認を3章で論じている。罪の問題は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、神の民に加わるため、あるいは神の民であり続けるために、解決しなければならない課題であった。

 以上のように、義認を、われわれの罪のためのキリストの犠牲死を非核心的なこととして、「キリストへの参与」あるいは「神の民に加えられる」ことこそが核心であるとするサンダースの論は、半分正しく半分間違っている。パウロがいう義認とは、通常の用法どおり、「法廷的に神の御前で罪赦され正しいと受け入れられる」ことを意味している。確かに「わたし(主)はあなたの神となり、あなたはわたしの民(子)となること」、すなわちサンダース風に表現すればキリストへの参与が聖書的救済の究極目的であることは事実なのだが、そのためには、キリストの犠牲の死を根拠とする無罪放免が必要なのである。

 

② N.T.ライトの「義認」解釈

 ライトは、1世紀のユダヤ教文献に多く当たったサンダースを評価するが、サンダースが義認については伝統的な立場をとり続けたことを批判する。サンダースとしては、キリストの犠牲に基づく義認はパウロ書簡の多くの証拠聖句ゆえに、渋々述べたことであるのだが。

 ライトは、「『義認』は契約用語です。16世紀や17世紀の議論で知られるようになった言葉の意味ではありません。1世紀のユダヤ教における意味です。パウロが義認について述べるとき、第二神殿期ユダヤ教の思想世界全体の文脈で使っています。」と主張し、さらに、「アウグスティヌス以降、『義認』に関して論争されてきた問題のある側面は、実はパウロ書簡の文脈とは何の関係もないことは明らかです。1世紀における『義認』とは人が神との関係をどう確立するかということについてではありません。」と断言して、特異な義認論を展開する。

 

 第一に、ライトは、「義認」を彼が想定する1世紀のユダヤ教徒の聖書の物語と重ね合わせて解釈する。ライトによれば、1世紀当時のユダヤ教徒たちは、神殿は再建されずメシヤも到来しておらず、異邦人はまだイスラエル服従していないのだからバビロン捕囚は終わっていないと考えていたとして、その時代の中でユダヤ教徒たちの間では、「義認」は異邦から圧迫を受けるイスラエルを、神がご自身の契約に基づいて終わりの日に回復させてくださる行為を意味するようになったという。ユダヤ教サークルにいたパウロは「義認」ということばを、その意味で用いているはずだから、パウロのいう「義認」は「(終わりの日、)誰が契約の民の一員であるのかに関する問題である」とする。

 

 第二に、ライトはキリストが神の契約の民の代表だとするが、刑罰を神の民の代理(身代わり)として受けた方であるとは言わない。ライトは言う。「この認定の根拠はイエスの死と復活、その代表的意義である。罪が広がったために、人類との契約関係を守るには罪が処理されなければならなかった。神は御子を通して自らこれを遂行された(ローマ3:24-26; 5:8-9)。約束の祝福の実現を阻む律法の呪いを、イエスはご自分の身に背負われた(ガラテヤ3:10-14)。復活は、イエスが、したがって彼に属する者たちが、神の前に義であるという神の宣告である(ローマ4:24-25)。(中略)神はついに歴史の中で行動し、ご自分の契約の民イスラエルが誰であるかを明らかにされた。しかし、それはイエスただ一人であり、『ユダヤ人の王』として民を代表したお方としてであった。」

 

 第三に、ライトは、現在的義認は予告的なものであり、未来の審判における義認が実物であるとする。「信仰を根拠としてなされる現在的義認は(ローマ3:21-26)、最後の審判で全生涯を対象としてなされる最終判定をあらかじめ正しく告げるものである(ローマ2:1-16)。別の角度から見れば、この将来的判定は復活そのものである(ピリピ3:9-11)。」

 

 第四にライトは、伝統的な義認理解がまるで善き業を軽んじることを教えているかのように、「パウロにおいては『善行』を疑問視するような態度は微塵もない。むしろパウロは回心者たちが契約の民に相応しい歩みをすることを期待している(ローマ6章他)。」と力説する。

 

<コメント>

 第一に、聖書解釈の原理的問題。神は記者の置かれた時代の文化の器に啓示を入れてお与えになるから、我々が聖書に記された啓示を読み取るには、時代文化との類似性を考慮しつつも、むしろ文化との区別性にこそ着目しなければならない。だが、えてして時代文化との類似性を見つけた研究者は、その点からすべてを説明できる言いたがる。ライトも1世紀のユダヤ教との類似性に囚われ、その点からすべてが説明できるかのように主張する。仮に1世紀のユダヤ教の中で「義認」が終わりの日に神がその民をご自分の民として認めるという意味で比喩的に使う場合があったとしても、ユダヤ人たちが、この意味でのみ義認ということばを用いたとは考えられない。なぜなら、彼らが慣れ親しんだ旧約聖書の用法では、義認は「被告に法廷で無罪の裁定をする」ことを意味するからである。旧約聖書において、「義と認める」の14例は明確にその意味で用いられており(出エジプト23:6,7;申命25:1;ヨブ11:2;13:18;27:5;32:2;40:8;詩篇32:1,2;106:31(LXXでは105:31);143:2;イザヤ5:23;50:8;53:11;ダニエル12:3)、「神の民と認定する」の意味で用いられているとも解しえなくもないのは2例にすぎない(イザヤ45:25;ヨエル2:23)。1例は曖昧である(創世15:6)。

つまり、「義認」は、ライトの主張に反して、16,17世紀に問題にされたのと同じ意味で旧約聖書以来、用いられている。

 

 第二に、パウロがキリストをローマ5:8,9で代表としているのは事実であるが、同3:24-26ではキリストは代理として血による宥めのささげ物となられたと書かれている。この文脈の中でキリストの贖罪の代理性を軽視ないし否定するのは無理である。

 

 第三に、ライトは最後の審判における義認が本物であり、キリストを信じた時点における義認は予告的なものとするのは、ローマ5:1-10におけるパウロの趣旨から外れている。パウロは、過去、キリストを信じて義と認められ、今すでに神との平和を得ているゆえに、未来については神の審判において神の怒りから逃れること希望をもって喜んでいる。そもそもパウロはここで、最後の審判における神のさばきについて「義認」という用語は用いていない。第四に、パウロが善き業を重視しているというのは力説するまでもなく当然のことである。ルターが善き業を軽んじたというのは、ライトの偏見にすぎない。

 

<付記>英国国教会聖公会)主教N.T.ライトの背景に見え隠れすること

①国教会の現状。クリスマスとイースターと葬式にしか教会に来ない、個人主義的な信徒たちを抱えているのが、英国国教会の現状である。ライトの著書は、こうした嘆かわしい状況を背景としていることが色濃く感じられる。

② 彼が所属する英国国教会の伝統。宗教改革を知らず、したがって、恩寵100%の救い、信仰義認を知らず、ピューリタン(英国の改革派信仰者)を弾圧した教会である。救済論については半ペラギウス主義、アルミニウス主義である。

③ 英国人として米国的なるものを馬鹿にするところがあり、ドイツ的なものに批判的である。

④こうした背景をもって、ライトはおおよそ次のような主張をもっていると見える。<「代理として死んだイエスを信じたら罪赦されて死んだあと天国に行ける」あるいは「信徒は大艱難の前に携挙される」という信仰は、ギリシャ二元論の影響を受けた彼岸主義的なものであって、教会にも社会にも無責任な個人主義的信徒を作っている。本来、福音とは「キリストは王である」という宣言であり、王なるキリストは契約の民の代表として復活し義と認められる者たちの先駆けとなられた。義認とは再臨の日に神が民を契約共同体に属していることを認定してくださることである。今の世の営みは次の世とつながっているから、キリスト者はその日を目指して、王の臣民として教会と社会で責任的に生きるべきである。>

 

 

 

3.聖書はなんと教えているのか?

 

 人間における問題の本質はサタンの束縛であると捉えるならば、サタンからの解放とキリストの支配のもとへの移行こそ贖いであるということになる。これが古代ギリシャ教父たちの唱えたところであり、現代ではアウレンやN.T.ライトが再評価していることである。他方、人間における問題の本質が、神の前における人間自身の罪であると捉えるならば、神による義認が要請される。17世紀のプロテスタントの信条はおもにこの立場である。では、聖書はどのように教えているのだろうか。

 

(1)パウロ書簡

 まず、ローマ書1章から8章を取り上げる。そのアウトラインは下記のように理解する。

 

<ローマ1:18-3:20>異邦人とユダヤ人はともに神の前に一人残らず罪人であり、律法の行いによっては誰一人、神の前に義と認められない)。

神は、キリストの血による宥めのささげ物という刑罰代理の贖いを根拠として、罪人を義と認めてくださった(3:21‐31)。アブラハムダビデは、その実例である(4章)。

<ローマ5:1-11>キリスト者は、過去にキリストにあって義とされ、それゆえ現在は神との平和をもち、未来は審判で神の怒りから救われるということである。

<ローマ5:12-21>アダムとキリストは人類のふたりの代表(representative)である。<ローマ6:1-7:6>キリスト者は、代表であるキリストに属する者として、「罪」に対しては死んで「罪」の奴隷状態から解放され、神に対しては義の奴隷として、新しい御霊によって生きるものである。なおここでいう「罪」は神と対置されていることによって、擬人的に表現されている。

<ローマ7:7-25、8:15>時々、キリスト者は、律法にこだわって生きようとするとき、かえって「罪」の力に捕らえられて、再び律法と罪の奴隷に戻ってしまったかのような恐怖に陥ることがある。

<ローマ7:24-8:16>しかし、その時には再びキリストにあって義と認められたという原点に立ち返り、神の子としてくださる御霊によって導かれて、神の子ども、すなわち、キリストとの共同相続人として生きるのである。

 

 つまり、パウロは、ローマ書1章から5章11節までにおいては、キリストを私たちの罪に対する神の刑罰を代理(substitute)となって担うお方として描いている。人は、神の前に己の罪を自覚させられ、キリストを信じ、キリストの義を受け取って、神の前に義と認められる。

そして、5章後半からは、キリストは契約共同体である神の民の代表であり王であり、かつて「罪」の奴隷であった者が、今や代表であるキリストに属する者として、「罪」という主人に対して死んで解放され、神に対して義の奴隷として生きるということが教えられている。なお、6章では神に対して「罪」が擬人化されて表現されており、7章後半で義人的に表現される「罪」はキリスト者のからだのうちに住んでいて、彼の意志に反して働く力のように描かれているのは、サタンや悪霊たちを想定しているのであろう。

つまり、パウロはローマ書1章から5章11節で、罪を身代わりに担ってくださった代理者としてのキリストを表現して義認を語り、5章12節から8章16節で、(時には律法によってかえって「罪」に捕らわれて苦悶することがあっても)キリストの御霊によって神の子、すなわちキリストとの世界の共同相続人とされて、神の前に責任的に生きることを教えているのである。

キリストのイメージをいうならば、ローマ書1章18節から5章11節ではキリストは自身を罪を償うなだめの供え物として神にささげた大祭司である。このキリストこそ私たちが義と認められる根拠である。このキリストはアンセルムスと17世紀のプロテスタントの信条が強調したキリスト像である。そして5章12節から8章16節後半では、キリストは十字架の死と復活によって「罪」を攻撃し征服する王である。こちらは古代ギリシャ教父たちが強調したキリスト像である。つまり、ローマ書1章から8章は、前半で大祭司キリストを、後半で、王なるキリストを背景として、救いにについて教えている。「あれか、これか」ではなく、「あれも、これも」なのである。

ローマ書だけではない。エペソ書では、「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。」(エペソ1:7)と、キリストの刑罰代理を教え、かつ、「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」(エペソ2:1-6)と、サタンの圧政から解放されて王なるキリストとともに生きる神の民がキリスト者であることが教えられている。また、コロサイ書も「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1:13,14)と一息で、キリストによる刑罰代理による贖い、罪の赦しとともに、サタンの支配から王なるキリストの支配に移されたことの両方を教えている。

 

(2)聖書全巻を挙げて

パウロ書簡だけではなく、ヘブル書も、キリストは「多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげ」、神にささげたその血をもって私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせるのだと教えている(ヘブル9:14)。キリストはご自分をいけにえとして神にささげて贖罪を完成した大祭司であると教えているのである。同時にまた、ヘブル書はキリストはその死をもって悪魔を滅ぼして、我々を解放したとも教えている。「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(ヘブル2:14,15)

ペテロもまた、「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。」(1ペテロ2:24,25)と、キリストが代理者として私たちの罪を背負われたお方であるとともに、私たちの牧者・監督者として私たちがしたがって行くべきお方として表現している。

黙示録に現れる神とともに御座に着くキリストは子羊である。「小羊は屠られた姿で立っている」(黙示5:6)とあるように、私たちの代理として罪を償ってくださったお方であるが、御座に着くことによって世界の王であることを表している。

聖書は我々の罪を背負われた代理者としてのキリスト、すなわち義認の根拠としてのキリストと、我々がしたがって行くべき代表者(サタンに勝利した王・世界の相続者)としてのキリストの両面を、創世記第3章から語り始めている。始祖アダムが堕落したときに啓示された原福音には、二つの表現がある。第一は、蛇に対する呪いのことばの中で語られた、「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(創世記3:15)であった。第二は、神がアダムと妻の罪の恥を覆うために、動物を犠牲として血を流し、手ずから作ってくださった皮衣である。この出来事以前、肉食はなかったから(創世記1:29)、アダムたちは動物の血を流すを経験したことがない。神によって動物の血が流されて自分たちの罪深い裸の恥を覆うための衣が与えられたことは、彼らにとってどれほどの衝撃であったかは想像に難くない。いちじくの葉の腰覆いが自力救済主義の象徴であれば、神が用意してくださった皮衣は恩寵救済主義の象徴である。あの皮衣の出来事は「血が流されることがなければ、罪のゆるしはないのです。」(へブル9:22)という教えを髣髴とさせる。神が「原福音」において啓示されたキリスト像は、人類の代表としてサタンに勝利する王であり、人間の罪の償いのための代理の犠牲となる大祭司の両面をもっておられた。キリストは祭司王なのである。

 

結論

 N.T.ライトが、王(契約の代表)であるキリストの臣民として、今の世と教会に責任的に生きるキリスト者を育てたいと願っていることには同情するが、彼の義認理解には賛同できない。彼は1世紀のユダヤ教との類似性に囚われすぎて、「義認」を「終わりの日の契約の民としての認定」と読み間違えている。

 サンダースはローマ書1章から5章11節までのキリストの刑罰代理による贖罪に基づく義認をパウロの非核心的部分であるとし、5章12節以降のキリストへの参与をパウロの救済論の核心であるとした。だが、それは彼の勝手な評価にすぎない。むしろ、我々はキリストの刑罰代理贖罪を根拠とする義認は、キリストへの参与の前提であると理解すべきである。

 彼らの義認理解は間違っているが、聖書的救いには、悪魔の支配からキリストの支配に移され、「キリストに参与すること」「王(契約の代表者)キリストの臣民」となるという側面があることは事実である。救いにおける、この側面は、義認論ではなく、むしろ「子とすること」と「聖化」に属することである。