のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎「幸いなるかな」 詩篇1篇       

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序論
 人は皆、幸せを求めて生きています。人は皆、幸せを感じたくて生きています。それはまだ得ていないからこそ求めていると言えるし、既に得ているがそれを継続させるか、若しくは更に高いレベルの幸せを得ようとする欲求です。
 私も永らく仕事をしてきました。それは金銭を得て、家庭に持ち帰り、妻や子どもたちに美味しいものを食べさせ、新しい服を着せ、清潔な住まいに共に暮らすところに幸せを見出していたからだと言えます。また、そのようにして家族の一人ひとりから、父親として、夫としての称賛の言葉を得るという満足感や達成感にも幸せを求めていたのかも知れません。
 あなたはどうでしょうか。あなたにとっての幸せを感じているでしょうか。その幸せを得ようとして生きているでしょうか。
 聖書は、幸せについて何と言っているでしょう。今日取り上げた詩篇1篇は「幸いなことよ」という言葉で語り始めています。この詩篇の記者である詩人は、恐らく、この詩が聖書の詩篇の最初に採用されるとは思っていなかったでしょう。図らずも、この詩篇1篇に選ばれた詩は、聖書の中のオアシスと言われる詩篇の序章とされました 。いにしえの聖徒から現代の聖徒に至るまで、神への祈りを導き、支え、育んできたのです。その詩篇が、まず「幸いなことよ」で始まることに注目し、この第一篇を通して語られている神の恵みについて教えられたいと思います。
 聖書が言う幸いとは何でしょうか。私たちにとって本当に幸せとは何でしょうか。

 

1. 正しい者の道
 繰り返しになりますが、この詩篇1篇の特徴は、他に149ある詩篇のプロローグだという事が言えます。つまり詩篇と言う歌を通して神様が何を私たちに教えようとしているのか。そして、詩篇という歌をどのように読んでいくのかということが書かれていると言えると思います。
 それはつまり神への向い方。神とのつながり方。神への礼拝。神への祈りとして表される私たち信仰者の態度であり姿勢であるとも言えます。また、そこから始まる信仰者の生き方そのものかもしれません。そこで、この詩篇記者は二通りの道として、一つは正しい者の道。もう一つは悪しき者の道を示しているのです。どっちが幸せだと言っているでしょうか。幸せは1~3節に見ることができます。
「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜も、そのおしえを口ずさむ人。」
 詩人は力強く叫びます。「幸いなことよ」と。何がそんなに幸いなのか。何が叫ぶほどに幸せなことなのか。それはまず何を喜ぶかということです。ここに、嘲る者と主の教えを喜びとする者が対比されているのがわかるでしょう。嘲る者とは何でしょう。ここで詩人が言っている嘲る者というのは、神を信じないばかりか、信じて歩んでいる人のことを馬鹿にする者、神を愛し神に信頼して生きることを蔑んで喜んでいる人のことです。
 私たちはいつも喜んで暮らしたいと思っていると思います。しかし、その喜びには大きく二つの種類があり、どちらかを喜ぶ生き方かで人生がまったく変わるということなのです。
 主の教えを喜ぶ人の歩みはどうでしょう。この喜ぶと訳されている言葉は「愛する」とも訳せる言葉です 。つまり愛するから喜ぶ。愛する人の手紙を何度も繰り返し読むように、主からの手紙である聖書を読み、愛する主の言葉として聴きたい。愛するお方の言葉を、そのお話をいつも聴きたいと願うのです。神の言葉を愛し喜び、それを口ずさみ、何度も何度もその言葉を繰り返す中で、益々愛する人の言葉で心が満たされるように、真実な神の愛の御心を悟らされて、更に喜ぶものとなっていくのです。そういう人の歩みを詩人は「その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」と確信を持って宣言しました。
 それは、主の教えを喜ぶという生き方が神との密接なつながりをもたらすからです。神と繋がった関係はいつも神からの愛と恵みに満たされます。栄えに満ちた神と繋がっているので、その人の歩みには神の栄光が溢れ、それが感謝と賛美として礼拝に現れるのです。
 
2.悪しき者の道
 しかし、一方悪しき者はそうではないと4節に書いてあります。つまり、神を愛し信じる人に対して嘲る人。神のおしえを喜ばず、神の教えを蔑み、神の教えから自由になることに喜びを求めている人。その人はどのようなものか。さきほどの主の教えを喜ぶ人が、流れのほとりに植えられた木であることと対比して、それは「まさしく、風が吹き飛ばす籾殻だ」と断言しています。
 それは地に根を下ろす木ではなく、芽も出なければ根も生えず、風が吹けばすぐに散らされてなくなる籾殻だと言います。流れのそばに落ちても種ではないので、何の意味も持ちません。いずれ腐って土に戻るだけの存在です。なぜなら、籾殻にはいのちがないからです。悪者の道はいのちがないから、育ちもしなければ、成長もしません。そしていずれ滅びるのです。6節を読みましょう。 
「まことに、正しい者の道は主が知って おられ、悪しき者の道は滅び去る。」
 これが、この詩篇1篇の結論だと言えるでしょう。悪しき者の道は滅びるとはっきり書いてあります。この真実も聖書は割引しません。神に逆らう者は滅びるのです。悪い者の道は滅びる。大変、重い言葉です。しかし、この言葉は私たちに大変重い言葉であるからこそ、読者である私たちに大切な問いを与えます。それは、あなたにとっての幸せはどっちなのかということです。「幸いなことよ」と本当にあなたは叫ぶことができるか。
 それは、この地上では悪い者の方が儲かって、得をして、栄えているように見えるからです。このことについてルターはこのように言っています。
「ことに、悪しき者が彼らの意のままに繁栄し、彼らの富と名誉と力が遥かに優るからである。これに反し正しい者は悪魔と世から、肉体も魂も名誉も富みも毀損され、迫害され、彼らの中には暴徒や異端者のように、また悪魔の子のように惨殺される者も多い。だれがこのようなことを我慢して待つだろうか」
 このテーマは、実は詩篇の中に多く見られるテーマでもあります。その理不尽な出来事に信仰者はどのように向き合うのか。神がおられながら、どうしてこのようなことが起こるのか。その叫び、嘆きが詩篇のいたる所に見ることができます。まさに、この詩篇1篇が全詩篇の序章として、その役目を果たしていると言えるでしょう。

 

3.時が来ると実を結ぶ
ルターは続けてこう言います。
「だから沈黙してあなたの道を主にゆだね、主を待ち望みなさい。主がこれをしてくださるであろう。」
だから待ち望むことの必要をルターは語ります。しかし、いつまで、どのように待つのか。それがこの詩篇1篇で言う、正しい道を選ぶか、悪しき道を選ぶかという、私たちの幸せを決める大切な選択に導くのです。ルターが言う「待ち望みなさい」という言葉は、ただ黙って何もしないでという意味ではありません。それは、主の教えを口ずさみつつ待つという積極的な忍耐です。しかも、多くの詩篇がそうであるように、私たちの嘆きが喜びに変えられ、呪いさえも賛美に変えられるという恵みにあずかるのです。それは、状況に左右されていた者が、状況が変わっていないにも関わらず、祈りの中で不思議と整えられて、主のいのちに溢れるようにされるということです。
 特に「時が来ると実を結び」という言葉に、主の深い憐れみを覚えます。今、もし、主の者とされていながら全く不甲斐ない歩みをして、成長のない自分にがっかりしていたとしても「時が来ると」いつか、神のときにきちんと実を結ぶ。それは主と繋がっている限り、主が必ず実らせてくださるという約束です。それは流れのほとりに「植えられた」と書いてあるように、植えてくださったのが主だからです。そのとき、私たちは心からこう叫ぶことができるのです。「幸いなことよ!」それは、主が私たちのことをよく知っていてくださるからです(6節)。
 主の教えを愛し喜ぶ者として、これからも昼も夜も詩篇を通して味わってまいりましょう。