のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎「全地に散らされる恵み」創世記11章1~9節

f:id:kinokunizaka66:20181111183852j:image

 

序論
 先週は、人々が世界に広がったのは、ノアの祝福が広がるためだったということをお話しました。今日のお話は、それがどういうきっかけで広がることになったのかということについてです。
  ですから10章のノアの祝福の広がりと思わせて、実はこんなことが理由でしたということを知らせる大切な役割を果している箇所です。つまり、神様は祝福を広げるために「うめよ。ふえよ」と命じたけど、実際は順風満帆にはいかなかったことを知らせています。
  それで今日のメッセージでは、二つに区切ってみことばに聞いていきたいと思います。一つ目は1~4節「人間が集まる理由」というお話をします。二つ目は5~9節「そこで神は人間を散らされる。」ということをお話します。

 

1.人間が集まる理由(1~4節)
 1~2節を読みます。
「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」
 セム、ハム、ヤペテの三兄弟は、それぞれ子孫を増やしていったことは先週見ました。しかし、まだ一緒に同じ地域に暮らしていたようです。
 彼らが使っていた言語は一つでした。1節の「全地は一つのことば、一つの話しことばであった」とは、彼らの言語が共通した一つの言葉であったということです。それがヘブル語なのか英語なのかはわかりません。彼らは会話に不自由することなく暮らしやすいように平地を探してそこに定住しました。これは現在のイラクのあたりのことです。
  先週、ハムの孫のニムロデがシヌアルという地に住んでいたので、今日のバベルの塔を建てたときの権力者ではないかという話があります。でも、もしそうなら今日の場面でそのニムロデという名前が出てきても良いはずです。しかも4節を見ると決して一人の権力者のために建てているのではないことがわかります。3~4節を読みます。
「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。『さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。』」
 まず「互いに言った」とあります。直訳では「友達に向かって言った」と訳せます。その表現を「互いに」という意味で使うのがヘブル語のニュアンスなのです。彼らは一人の権力者ではなく集団でレンガを開発し、粘土ではなくアスファルトを利用してレンガを積み上げる技術力を得たのです。それで神様に感謝するのではなく「われわれは・・・名をあげよう」と言っています。一人の権力者ではなく、群れとして同じ方向に向かおうとした。これがセム、ハム、ヤペテの子孫たちが一つになって、群れとなって行き着いたときの言葉でした。
 この言葉に彼らの罪の性質がにじみ出ていることがわかるでしょうか。聖書は決して人間が集まることを禁じてはいません。人が群れになることを禁じてはいません。しかし、人間が集まるときにどんなことが起きてしまうか。
 彼らは町と塔を建てると言いました。その目的が「名をあげる」ためだったということが人間の罪の性質を表しています。その象徴が「頂が天に届く塔」でした。彼らは「名をあげよう」と自分たちの力を誇ることに価値を置き、すっかり神様へのまっすぐな信仰を見失っていたようです。
  この「頂が天に届く塔」とは、いったい何を意味しているのでしょう。それは、自分たちの力で天に昇る。つまり自分たちで救いを手に入れられるという思い上がり、高慢がここにあったということです。自分たちの力で天国に手が届くと思ったのです。
  このことは現代でも同じです。この自分勝手な思い上がりの延長上に、様々な偶像があると思います。多くの宗教の創始者は、ここに救いの道があると指し示します。その道を歩めば救いがあると言います。しかし、聖書は何と言っているでしょうか。イエス様は何と仰ったでしょうか。
「わたしが道であり、真理であり、いのちです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6
 神様に近づく道は、あそこだここだとは言わず、イエス様は、ご自分がその道だと主は言われました。このように明確に救いを示すのはイエス様だけです。このイエス以外に救いの道はありません。
 しかし、究極的に人間は本当の意味で神を求めていません。その原因は高慢です。その高慢は、神のことばよりも自分の業で勝ち取ることに魅力を持っています。また、その業を称賛されて益々思い上がります。だから、逆に聖書のように人間にとって都合の悪いことばかり書いてあると、耳が痛いので避けようとします。罪を指摘されるからです。
  しかし、このことは、既にイエス様を信じている私たちも注意が必要です。なぜなら、救いは神のことばであるイエス様の恵みなのに、何か自分ががんばってることに価値を置いてしまいやすいからです。毎週礼拝に出ていること、献金すること、奉仕すること、人に仕えること。様々な信仰の歩みが、ときどき自分の業になることはないでしょうか。私がこんなに頑張っていることで信仰深いと錯覚するなら、それは天に届く塔を建てているということです。また、私なんか礼拝もあまり行けない。献金でいない。奉仕もできない。だからクリスチャンとして価値がないと思っているなら、それもまた自分の力で天国に行く価値を求めているということです。どちらも共通することは、高慢です。
  大切なことは神のことばに聴くことです。ノアは神様からお言葉をいただいて箱舟を造りました。彼らも主に伺うべきでした。しかし、彼らの建てる目的が主のためではなく、自分の名をあげるためだった。教会も人間中心になって神のことばに聴かなくなったら終わりです。

 

2. 「そこで神は人間を散らされる。」5~9節
5~7節を読みます。
「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
 ここで神様はどうされたでしょうか。それは「降りて来られた」と書いてあります。人間が「天に届く塔を建てる」と息巻いて、上に上にと高く上ろうとすることを皮肉るように、神様は降りて来られる。その理由は「人間の建てた町と塔をご覧になるため」でした。ここを直訳すると「ヤハウェ【主】はアダムの子達が建てた町と塔を見るため」となります。ノアの子達ではなく、アダムの子達。まさに罪の性質をだれから受け継いだのか。そのことにも聖書はしっかりと触れています。ここに、神に近づくことが人間には到底無理であるという現実が鮮明にされています。人間がいくら努力しても神様には近づけない。それが現実です。どんなに良いことを積んで立派な人になろうとしても、その立派さは自分の満足になってしまうという現実です。
 しかし、神様は近づいてくださるのです。降りて来てくださるのです。ただ、このとき神様は彼らの思いあがり、高慢がはびこらないように、人間たちに混乱を与えて散らされることをお決めになりました。
 それが言語を混乱させるということです。ここから、その言語が通じる者たち同士で移動するようになり、世界に広がり、民族や国が形成されていきました。 
当初、ノアの祝福が世界に広がる喜びであったはずだったのに、蓋を開けてみると、人間の罪のゆえに神様が介入されて、ようやく広がったのでした。8~9節を読みます。
「こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」
 彼らは「その町を建てるのをやめた」と書いてあります。神様の介入によって、ようやく彼らは世界に広がっていった。先週、祝福が広がるためだったと学んだはずなのに、そう上手くはいかなかった。それがここから読み取れます。
 こうして、人間は世界に広がりました。そもそもは祝福を受けた人たちが神に感謝をもって広がることを目的としていました。しかし、現実はどうでしょうか。祝福は広がっているでしょうか。
 先日、11月3日に「ハンガーゼロ・日本国際飢餓対策機構の世界食料デーのための札幌大会が、北星学園女子中学校でありました。札幌市内の各教会の牧師や教会員、関係者が集まり、私も行って来ました。そこで聴いたお話で私の心に残ったことが二つあります。一つは日本で食べられるはずのものを捨ててゴミになった量です。食品ロスと言いますが、年間どのくらいだと思いますか。何と650万トンです。これは日本人が一人当たりご飯茶碗一杯分を一年間捨てているのと同じだということです。
 それでは、世界で貧しくて食べるものがないために死んでいる子どもは、どのくらいだと思いますか。これはクイズにしましょう。①4時間に一人②4分に1人③4秒に1人。正解は③4秒に1人です。
 世界に祝福が広がるように神様は人間を置いてくださいましたが、そうなっていない現実を見るとき、私たちは愕然とします。そして、恐らく多くの人は神様がいるなら何故こんなことが起るのかと神様のせいにするのではないでしょうか。
 しかし、聖書は何と言っているか。それはもう一度、5節を読みましょう。
「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。」
 聖書は、それは「人間が建てた町と塔」と言っています。つまり、今の現実は神ではない。人間が起こしたことだと証言しているのです。その中で、不平等、貧富の差、過剰な経済競争、そして戦争が起っているのです。しかも、それは実は言葉が通じないから、言語が違うからという理由ではありません。確かに民族間、宗教間での紛争が起っていますが、それは実は表面的にそう見えるだけで、根本は違います。
 それは4節にあるように「名をあげよう」という、利己的な罪が集まってせめぎ合って生まれている現実なのです。その「名をあげよう」も突き詰めれば、不安から起るものです。自分が一番に、自分がスタンダードになれば安心できるからです。その発端はアダムから来ていることは、この創世記から始まる聖書で繰り返されている事実です。それは神の言葉よりも自分のことばを優先するところから始まっています。ですから、実は同じ言語を使っていても、私たち人間は必ずしも仲良しになれるわけではありません。
 社会の最小単位である夫婦を見れば一目瞭然です。同じ日本語を話していても、話がかみ合わないことを経験しないでしょうか。夫婦でも。その会話が成り立たない悲しみを味わったことはないでしょうか。

 

結論
 大切なことは、何でしょうか。それは神のことばによって一つとなることなのです。そのために、神様は私たちに聖書を与えてくださいました。昔は、単に自然を通して被造物を通して語られました。その後、罪が入って来たので、神様は預言者を送ってみことばを語られました。そして、最後に神のことばとしてイエス・キリストをお送りになって、そのお方を通して語られました。そして今は、そのキリストが建てられた教会を通して語られています。その教会は聖霊によって聖書から語っています。そして、今日も、聖書のことばから神の御心を聴いています。
 ここに、神様があえて人間を世界に散らされた意味が見えてきます。散らされたからこそ、一つとされる喜びがあります。散り散りにされたからこそ、そこから主を求める心が起こされます。頼るべきお方が唯一の主であることに気づかされるのです。
 私たちはみんな生まれた場所や育った家庭環境が違うもの同士です。本来なら一緒にいられません。しかし、このように一つ心になっているのはどうしてでしょうか。それは、神のことばによって一つとされているからです。だから夫婦もそうです。日本語で話しているのに話が通じなくても、神のことばに信頼するなら、そこに平和が訪れます。
 教会が生まれたペンテコステのときもそうです。弟子たちが集まっていると聖霊が下って、弟子たちは様々な言語で神のことばを語ったのです。大事なのは同じ言語よりも、神のことばに聴くかどうかです。
 私が学んだ北海道聖書学院では多くのキリスト教団体の人たちが集まります。日本同盟基督教団、福音バプテスト宣教団、インマヌエル綜合伝道団、福音自由教会日本福音キリスト教会連合など。どうして同じ神学校で学べるのでしょうか。キリスト教会という看板を掲げているからでしょうか。気が合うからでしょうか。そうではありません。神のことばである聖書に同じ価値をもって、そこから神の言葉を聞いて従おうとするからです。教会といえども、神のことばに聴かずに人間の思いを優先するなら上手くいきません。大事なことは神のことばで心が一つとなることなのです。
 今、私たちは会堂をどうするかという話し合いをしています。その目的がもし自分たちの「名をあげるため」つまり人間的な都合を優先させていたら神様によって散らされます。それは目に見えない内なる教会としてもそうです。教会を人間的な楽しみの場、単なる仲良しクラブにしようとするなら散らされるでしょう。しかし、神の言葉である聖書に聞いていくなら、むしろもっと仲間が集められるでしょう。
 そうです。主は、主のことばを聞かない者は散らされ、主のことばに聴き従う者たちを集められるのです。そして、今度こそ、主のことばの恵みを携えた者が、家庭に、職場に、学校に、世界に、それぞれの宣教の場へと遣わされるのです。その宣教の現場にだれが行くのでしょうか。

  それは、あなたです。神の御心は、神のことばを携えたノアの子孫が増え広がることだからです。

 

祈り
 恵み深い天の父なる神様。あなたはかつて私たち人間が同じ場所にいると良くないと思われて世界に散り散りにされました。しかし、今、あなたは私たちを集めて一つとしてくださっている恵みを感謝します。それはただ御子イエス様が罪を贖ってくださり、そのいのちに与るものとして集めてくださったからです。どうか新しいいのちに生かされている私たちが、いのちのことばである聖書にいつも聴いていくことができるように導いてください。聖書のことばを人間の都合に合わせて読むことがないようにも導いてください。
アーメン。