のりさん牧師のブログ

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「イエス・キリストの系図」マタイの福音書1章1~17節

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序論
 今日の系図は「イエス・キリスト系図」と書いてあります。  

  この系図というもとの言葉は歴史とか経緯と言う意味もありますので、イエス・キリストの歴史と読んでも良いわけです。すると、つまり新約聖書の一番最初にあるマタイの福音書から「イエス・キリストの歴史」が始まっているということ。ここから今に至るまでずっとイエス・キリストの歴史が続いているとも言えるのです。西暦はまさにそのとおりですね。紀元前、紀元後とはイエス・キリストの誕生を中心にして歴史が区切られています。
 アドヴェント第二週を迎えた今朝は、私たちの主イエス様が人間の歴史の中に来られたことがどういう意味かを、この系図を通してみことばに聴いていきたいと思います。

 

1. ユダの系図
 1~6節まで読みましょう。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。」
 まずこの1節には、この系図の言おうとしている目的を見ることができます。その一つはイエス・キリストという言葉の説明であるということです。それは16節と繋がっています。16節を読みます。
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
 ここで「キリストと呼ばれるイエス」とあえてキリストと言う言葉がイエスという人の称号であることを分かりやすいように示しています。それは、そもそもイエス・キリストという呼び方は、このマタイの福音書が書かれた頃には、一般化していなかったと言えるからです。
 私は、子どもの頃、小学校の2~3年生のときだと思います。イエス様の伝記の本を読むのが好きでした。ポプラ社という出版社の本を何度も読んでいたことを思い出しますが、その頃はキリストという名前は苗字かと思っていました。だから、ヨセフの正式名称はヨセフ・キリスト、マリヤは、マリヤ・キリストだと思っていました。どうしてかと言うと、当時の伝記の本にはキリストと書かれていて、当然それが名前だと子どもなら思うでしょう。母に聞いてみたら、当時は母まだクリスチャンではないので「違うんじゃないの」と言われたことを覚えていますが、母もよく知らないということがわかりました。
 ではみなさん。キリストとはどういう意味かわかりますか。・・・そうです。「救い主」という意味です。直訳的には「油注がれた者」です。油注がれた者とは、イスラエルの言葉であるヘブル語で「メシア」と言います。これはもともと、イスラエルの王様の称号であったのです。ですから、固有名詞ではないのです。
ですから、このマタイの福音書を読むユダヤ人にとっては、ダビデ王家であるというインパクトが強いわけです。それは、旧約聖書の歴史をずっと教えられてきたユダヤ人には、自分たち神の選びの民を回復させて、国家として独立させる王様を期待してきたので、注目点はそこにあるからです。
 それは、この系図にはダビデに対する神様の契約の成就が証明されているからです。かつて神様はダビデ王にこう仰いました。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」 Ⅱサムエル7:12~13
 この契約のことばは、ダビデ王家が永遠に確立するという預言です。その預言がダビデ王の子孫であるイエス様によって成し遂げられた。それが、このマタイの福音書に書かれている系図の意味です。
 だから、アブラハム、イサク、ヤコブのあと12人の息子の中からユダ族が選ばれ、その末裔であるダビデ王にスポットが当たる系図になっています。そして、ダビデ以降はエコニヤまで全部ユダ王国の王様ですが、ダビデにだけ「王」がついています。
 ですから、ユダヤ人にとっては由緒正しい王家の出身の輝かしいメシア、キリスト、油注がれた者という、そういう気高い血統として、この系図は始まっているのです。
 だから、初めてイエス様に出会ったユダヤ人たちは、ある意味、わくわくしたと思います。待ちに待ったメシア、キリストがまさにダビデ王の子孫として来られた。これでイスラエル国家は独立して、もう一度国を再建できる。
 イエス様のエルサレム入城の場面を思い出してください。多くのユダヤ人たちが、自分たちの王様としてイエス様をお迎えしました。ホサナ、ホサナと棕櫚の葉を敷いて、ロバの子にまたがって来られるイエス様を、ダビデのように力強く治める王として歓迎したのです。
 ですから私たちも、純粋な気持ちで、このクリスマスにイエス様を私たちの本当の王様としてお迎えするのです。先程皆さんでお読みした今週のみことば。実は続きがあります。イザヤ書9章7節をお読みします。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 」
 この預言をユダヤ人は知っていました。ですから、このマタイの書いた系図にはまずはユダヤ人の期待に応える意味が込められている。そのことを受け取りたいと思います。
イスラエルの真の支配者ヤハウェなる神の権威を持ったお方。それが私たちの本当の王様、支配者であるということ。それはキリストと呼ばれるイエスである。そのことを受け入れますか。これが、この系図にあるまず一つ目の問いです。

 

2.罪の歴史
 しかし、一見華々しく見える王家の系図ですが、これを書いたマタイは実に正直です。というのも、たいてい王様の系図には、恥ずかしい部分、残念な部分と言うのは省きます。それは、その王様の権威を貶めることになるからです。かえって、ありもしないことを盛り込んで、さも立派な家系だといわんばかりに、権威付けをするものです。
 たとえば、源平合戦の源氏と平氏は有名ですが、その両方とも元々は天皇から始まっています。それは事実だと思います。しかし、多くの系図を見ると途中は結構省かれています。源氏で有名なのは源頼朝義経ですが、この兄弟は全部で九人います。その末っ子が九郎義経なんです。では長男は誰でしょう。頼朝と言いたいですが、そうではなく義平という人です。でも有名ではないし、あまり系図にも出てきません。それはどうしてかと言うと、義平さんは遊女の子だったからです。
 このように系図に載せる場合は、勇ましく権威を落とさないように記すのが世の常ですが、マタイはせっかくユダヤ人が喜ぶような、ユダヤ人が期待するような系図を書き出しながら、段々とその気持ちにブレーキをかけるような内容を、しかもあえて分かりやすく強調しているのです。
 それは、女性の存在です。それは系図に女性がいることがそうだという意味ではありません。イスラエル系図に女性の名前が出ていることは、そんなに珍しいことではありません。そうではなく、その女性「によって」という歴史に意味があるということです。
 今日の系図に何人の女性が出ているでしょうか。最後のマリヤを含めたら5人の女の人が登場しています。その女性の名前を書かなくても系図としては成立するのに、わざわざ書いているのがわかるでしょうか。
 まず一人目。それは3節です。
「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」
 「ユダにパレスとザラが生まれ」で良いのに、あえて「タマルによって」と書くことで、旧約聖書を知っている人ならどういうことなのかわかるわけです。簡単に説明しますが、このタマルというのはユダにとって息子の妻です。詳しくはここでは述べませんが、舅と嫁の関係でパレスとザラが生まれたという残念な歴史が明らかにされています。次に5節。
「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、」
 ここには二人の女性の名前が書いてあります。それはラハブとルツです。この二人に共通することは何でしょうか。それは二人とも外国人だったということです。しかも、ラハブはあのカナン人です。創世記9章でノアが呪ったカナンの子孫で、仕事は遊女でした。ヨシュア記でエリコの城壁を陥落させたときに、イスラエルのスパイを助けたことで救われてイスラエル人の中に入れられた女性でした。ルツもモアブの女でしたが、姑のナオミの息子の嫁になって、夫が死んでもナオミについていくことを選んでイスラエル人の中に入れられた女性でした。
 イスラエル人にとって外国人と結婚することは基本的にタブーでした。それは外国人には必ず土着の偶像の神々がいて、そこでの悪習慣がイスラエルに入ってくることを警戒していたからです。また、そういう背景にある文化で汚れることを恐れたからです。
 では4人目はだれでしょうか。それは6節です。
「エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」
 ここでは名前は出てきませんが、旧約聖書を知っている人なら誰でも知っている女性です。だれですか。そうバテシェバですね。ここでも、あえて名前を伏せて、逆に「ウリヤの妻によって」と他の男性の妻と関係をもったことが強調されているのです。しかも、ユダヤ人たちが期待しているダビデ王の子孫という肩書きの中で、ダビデ本人の失態を強調しているのです。
 ダビデ王は今から3千年前に実在した統一イスラエル王国の王様です。若い頃は先頭に立って戦いに出ていましたが、国が安定したときには全部部下に任せて、自分は王宮の屋上でボーっとしていました。するとその屋上から美しい女性が水浴びをしているのが目に入って、ダビデは釘付けになりその女性を呼びつけて男女の関係をもってしまいました。しかも、その女性が妊娠するとそれをもみ消すために、その女性の夫を戦地から呼び戻して、その妊娠の偽装を計ろうとしたのです。ところが、夫ウリヤは王に忠実だったので、皆が戦っているときに自分だけ家に帰って妻と寝ることはできないと言って、妻とは会わずに戦地に戻ってしまいました。それでダビデは最後の手段。その夫ウリヤを最前線に配置し、戦死させたのです。そして未亡人になってしまったその妻バテシェバを自分の妻としたのです。つまり、ダビデ王には姦淫と殺人の罪があって、そこからソロモン王が生まれました。そのあと王国は南北に分かれてしまい、最後にはバビロニア帝国が攻めてきて王国は滅び、バビロン捕囚という屈辱をイスラエルは味わうのです。
 こういう苦々しい思いを、この系図を読んだユダヤ人たちは思ったでしょう。決して華々しくない。むしろ罪に汚れたところにキリストと呼ばれるイエスが誕生したということが鮮明にされているのです。
 この4人の女性たち登場の背景には、それぞれにイスラエルダビデ王家として恥ずかしい歴史があり、残念な過去が浮き彫りにされる事実があるのです。
 しかし、この罪の中に、この残念な人間の歴史の中にキリストは来られたのです。
すると、こんな罪人の中から生まれたイエスもやはり罪人じゃないのか。また失敗するんじゃないのか。そもそも王様として大丈夫なのかと心配になるでしょう。決してきれいとは言えない血統です。
 ところが5人目の女性の存在で、そういう不安は払拭されます。16節を読みます。
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
 5人目の女性はマリヤでした。このマリヤの存在の何が不安を取り除くのでしょうか。もちろん、彼女は外国人ではありません。聖書を調べるならマリヤもダビデ王家の血筋です。しかし、それだけなら、罪の解決にはなりません。大切なことは何でしょうか。その答えは18節に書いてあります。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」
 ここに「聖霊によって」と書かれています。これまでの、この系図を見ると全て「タマルによって」「ラハブによって」「ルツによって」「ウリヤの妻によって」と、別な言い方をすると全部「罪を持った人によって」次の子孫が生まれたと書いてありますが、最後のマリヤでは「マリヤによって」ではなく「マリヤから生まれた」としか書かれていません。それはキリストと呼ばれるイエスは罪人によってではなく、聖霊によって処女マリヤから生まれるところに、マタイのポイントがあるからなのです。
 
結論
 今から約2700年前、イザヤという預言者を通して神様は、こう語りました。イザヤ書9:6~7
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
 この預言のことばは、本当の王様、真のメシア、キリストであるイエス様の存在についてこう語っています。
『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。
 ただの王様ではない。単なる支配者ではない。不思議な助言者(カウンセラー)、しかも力ある神(エロヒーム)、永遠の父、平和をもたらす王様。それは明らかに人間ではなく、神であるお方。だから、それは聖霊によって生まれなければなりませんでした。それは罪の性質を持っていない、造り立てのアダムのようでなければならなかったからです。ここに、メシアの大きな二つの役割が見えてきます。
 一つは、メシアは預言どおりダビデ王家の末裔として、真のイスラエル王国、神の王国を建て上げるために来た王様だということです。二つ目には、そのメシアは神の民をその罪から救う救い主だということです。キリストという言葉はその両方の意味を持っているのです。そこに神の国と神の義が立てられるからです。
 マタイ1:21には、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と書いてあるとおりです。真の王であるキリストは神であると同時に、完全な人間。罪のない姿で完全に律法を守り、悪魔の誘惑に勝利し、罪のない姿で十字架で身代わりになるところにメシアとしての使命があるからです。死刑囚の身代わりを死刑囚はできません。罪のない者が身代わりになるところに贖いの意味があるのです。

 もし、今、イエスを追い出してしまっている兄弟姉妹がいるなら、今日、もう一度主をお迎えしましょう。そして、主によって始まったキリストの王国の国民とされた喜びをもって歩みましょう。また、まだイエス様を信じていない方がいるなら、あなたの身代わりとして死ぬために来られた王であるイエス様をお迎えしようではありませんか。イエス様はあなたを神の王国に招き入れるために罪の真っ只中に来てくださった真のイスラエルの王キリストだからです。それはあなたの歴史が主イエス・キリストの歴史に繋がって、この罪に満ちた世にあって神の国の祝福で満たされるためだからです。

祈り 愛する主よ。あなたは神でありながら私たち人間の歴史の中に確かに来てくださったことを感謝します。真のイスラエルの王として、またあなたの民となった私たちを罪から救うために来てくださり感謝します。どうぞ、今日、あなたを真の王として私たちの心の王座にお迎えします。主よどうぞお入りください。主の御名によって。(川﨑憲久)