日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

「恐れないで迎えなさい」 マタイの福音書1章18~25節

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序論

  この箇所からストーリー性のあるお話に変わっていきます。それがまさにクリスマスに深く関係する箇所ですが、これを記録したマタイと言う人は、あくまでマリアの夫ヨセフの視点でお話を進めます。それは、先週から見ているように、ダビデ王家の家系であるという前提を保っているということでしょう。しかも、ヨセフがどんな人物だったかを記録しているのはマタイだけです。そういう意味で、今日の箇所はヨセフという人を通してクリスマスの意味を知るということになります。
  19節にヨセフは正しい人だったと書いてありますが、それはどういう意味で正しかったのか、みことばに聞いてまいりましょう。

 

1.クリスマスの問題点と信仰
 18節を読みます。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。 」
 「イエス・キリストの誕生」となっています。イエス・キリストという言葉も、系図によって説明してきたので、ここではあえて16節のように「キリストと呼ばれるイエス」とは言いません。イエスイスラエルの王、ダビデの子孫として約束された救い主であるということを宣言してお話は始まります。
 そのイエス・キリストの誕生には最初から問題があったことを知ることができます。先週もすでに触れましたが、結婚前のマリヤが妊娠してしまったということです。でもここは「聖霊によって」と書かれていますから、ヨセフだけでなく、他の男性との間にイエス様が宿ったわけではありません。だから、結果オーライではあります。前回お話したように、イエス様の誕生は、これまでの人間の営みとは違う方法だったということです。
 私たちも、使徒信条で毎週告白しています。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」と。それは、初代教会の時代から、このことが大切な教理であったということです。教会はこの事実を事実としてしっかり信じることを強調してきました。
 それはどうしてでしょうか。それはイエス様が罪のない完全な人間として来られる必要があったからです。かといって、アダムのように土地の塵から造るのでは、あまりにも私たちとかけ離れていますし、それではダビデの子孫として生まれたとは言えません。ですから、既に人間として存在するマリヤのからだを使って聖霊なる神によって身ごもらせることが必要だったのです。イエス様は完全な人間であり、同時に完全な神です。そのことを保つために取られた神の知恵がここにあるのです。
 それだけに私たち人間はそのことが受け入れがたいのです。処女が身ごもるなんてありえない。起るはずがない。そう思うのはわかります。人間にはできないことですから。でも人間の知恵や力が絶対だと思っている限りは、この真理は受け入れられないでしょう。信仰は目に見えないものを、また証明されていないことを受け入れるからこそ信仰なのです。
 ですから、天地創造と同じように、新約聖書の初めから、神様は私たち読者に挑戦しています。ここを信じなければ次に進めないからです。
 しかし最近の信仰書に、マリヤの処女懐妊を信じないものがありますので、あえて注意させていただきます。ある牧師が書いたキリスト教入門書にこう書いてありました。
「イエスが処女から生まれたという話も、おそらくイエスの死後、謎であったイエス幼年時代を想像して、人々が書き加えた伝説でしょう。」
 これは他の昔の偉人たちもそのような逸話があるので、それと同じだという理解です。でもキリスト教会が聖書の記事を信じられなくなったらお仕舞いです。私たちが聖書の真理を自分の常識に引き込んで読んではいけません。私たちが理解できないことはあっても良いのです。それは神様のすべてを完全に私たちは知ることができないからです。でも、聖書を通して知るべきことは知る必要があります。ですから、自分に理解できなくても信じて受け入れる。それが信仰であります。
 ヨセフも実は、マリヤが聖霊によって妊娠したということは信じることができませんでした。19節を読みます。
「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」
 ここに「ヨセフは正しい人」であったのでと言われています。ヨセフという人は、イエス様のお父さんという意味では有名人です。でも聖書を見てもヨセフがどんな人だったかはよくわかりません。マリヤはルカの福音書には多くの情報があるし、他の福音書にも色々な情報が書いてあります。でもヨセフについてはほとんど書いていません。しかし、このマタイの福音書では、彼がどんな人かをきちんと記しています。情報として決して多くはありませんが、きちんと明確に書かれています。
 それが「夫のヨセフは正しい人だった」ということです。ここを別の言い方だと「義人」と読むことができます。ヨセフには罪がなかったという意味でしょうか。そうではありません。パウロは義人は一人もいないと言っています。ではヨセフがどういう意味で正しい人なのか、彼のこのときの二つの姿から知ることができます。
 一つは、「彼女をさらしものにしたくなかったので」ということです。多くの男は、同じ状況に置かれたら裏切られたという気持ちが沸いてきて、恨むと思います。最近ニュースで多いのは、別れ話のもつれで相手を殺してしまうという事件です。愛していたはずなのに、一つ躓くとそれが反作用に変わります。愛とは信じることです。しかし、いっぺん疑いや裏切りを味わうと簡単にその愛は壊れてしまいます。しかしヨセフは妊娠をしてしまったマリヤのことを恨むとか、憎むことはせずに、内密に離縁しようとしたのです。
 ヨセフだって、ものすごく悩んだと思います。恐らくこのときマリヤは15歳くらいだと言われています。ヨセフも若かったとも言われていますが、早く死んだと思われているので、このときは既に30歳くらいだったとも言われています。しかし、どちらにしてもヨセフはマリヤを疑いたくないけど、普通妊娠したといえば、誰か他の人との間に不倫か、または事件があったと推測するのは当然のことです。でも、おそらくマリヤはルカの福音書に書いてあるように、天使のお告げがあったことをヨセフに伝えたと思います。だから、マリヤを信じたい。でもよくわからない。
 当時はまだ結婚前でしたが、既に婚約しているので、もしマリヤに不貞があったという情報が外部に知られたらマリヤは死刑です。それがさらし者にするという意味です。でもそんなひどい目には合わせたくない。かといってヨセフ自身も、自分自身に正直になるなら、まったくすっきりしない。だから、密かに別れようと思いました。これが、彼が正しい人だったことの一つ目の理由です。
 正しい人は、その思考の中心は愛です。自分の思いよりも、まず相手の幸せを考えます。
 白石教会の年間聖句には「神は臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださった」とありますが、ヨセフの信仰はまさに、力と慎みをバランスよく保ちつつ、その中心に愛を忘れないものでした。それが、正しい人の一つ目の理由です。

 

2.みことばのとおりに
 では二つ目は何でしょう。20~25節までをお読みします。
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
 ここで言いたいことは、20節の「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい」という主の使いのことばを、ヨセフは24節で「主の御使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」たということです。
 つまり、みことばのとおりにしたという信仰であります。これがヨセフの正しい人と言われている理由です。
 当時はまだ聖書が完成していませんでした。だから、神様は天使を通してみことばを伝えました。しかも、主の使いによって語られるということは、愛するマリヤも主の使いからのお告げがありましたから、ヨセフを納得させるには十分すぎる意味を持っていました。
 そして、神が聖霊によって宿らせた子どもこそ、メシアであるという内容でした。しかも、これまで多くのユダヤ人が信じてきたメシアとはその働きの使命が違っていました。多くのユダヤ人たちが求めていたメシアはダビデ王のように、力強い軍事力でローマ帝国を追い出し、イスラエル王国を再建することです。しかし、天使の語ったことはどうだったでしょうか。21節。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
 それは単にイスラエル王国の再建ではなく、その中心は神ご自身の民を、彼ら自身の罪から救うことでした。このことはヨセフも知らなかったと思います。自分の予想をはるかに超えた神の救いのプランが夢の中で語られたのです。
 この出来事はヨセフにとって大きな経験だったと思います。それは夢ですから、もしかしたら自分の思い過ごしとか、ただの夢程度にしか捉えられなかったら意味がありません。でも、自分が考えていなかったことが語られたことは、自分の中にあることが夢になったのではなく、全く外からの情報だという思いになったと考えられます。
 この出来事からヨセフの思いは、不安や恐れから解放されて、愛するマリヤが言っていたことの裏づけにもなりました。何よりも神様を信じる信仰者として、何を信ずべきか、困ったときに、その行く手が見えなくなっていったときに、何を信じて歩むべきか、その判断にとって大変重要な経験となったでしょう。
 ヨセフは、人生の大きな試練を、最も幸せを味わうはずの結婚で経験しました。しかし、そのときに自分の考えではなく、語られた神の計画とそのことばを優先して、それを受け入れていったのです。そのときに、彼はある意味、霊的な意味でダビデの子孫としての役割を果たすことに用いられたのではないでしょうか。
 神のみことばに聞き、みことばどおりに生きようとすることこそ、正しい人ヨセフ、更にはダビデ王家の末裔として相応しい信仰者の姿だったのです。
この福音書記者であるマタイは、神のことばに従うことの価値を、みことばの確かさによって証明します。22~23節の言葉は、御子イエス・キリストが処女から生まれたことが聖書の通りだったことを証ししています。しかも書き方が「成就するためだった」と、あくまで出来事の主権が主にあるように書いています。ここが、マタイの福音書においては、イエスが王として、神の権威を持って治めるお方であるという決まり文句になっています。神のことばを実現するために来られた王であるキリストということです。22~23節。
「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
 この言葉は、先程みなさんで読んだイザヤ書のみことばがイエス様の誕生によって成就したことを表しています。
 このインマヌエルという言葉は、救い主イエス様の存在が私たちにとってどういうことかを示しています。それはイエス様を救い主として信じるなら、神と私たちとを隔てていた罪が取り除かれて、神がともにいる歩みが始まるということです。その状態を神の国または神の支配とも言います。それが死んだ後もずっと続くので、そういう意味では天国に入るとも言えます。
 しかし、それは、あの世としての天国というよりは、最後の審判後にもたらされる完成したキリストの王国、天のエルサレムと言うこともできます。その王国に私もあなたも招かれています。

 

結論
 今日は、クリスマスのお話の裏側にあった問題から、私たちの信仰のあり方をヨセフを通して見てきました。
 あなたの信仰の歩みはいかがでしょうか。イエス様を信じました。神様に従ってきましたと言っても、不幸なことが続いたり、こんなことがどうして起るのかと嘆くことも多々あるのではないでしょうか。しかし、それで落ち込む必要はありません。それは神様があなたを捨ててしまったとか、呪われているのではありません。その嘆きを通してあなたを神の王国の国民として育て成長させ、益々神を愛する者へと造り変えるためなのです。
 人生には必ず苦難があります。それは信仰をもっていても必ず起ります。しかし、そのとき、あなたは何を優先するでしょうか。自分の考えでしょうか。それともどうしていいかわからなくて足踏みするだけでしょうか。
 この正しい人ヨセフは、自分の考えをまず横に置いて、神のことばを恐れずに受け入れました。ヨセフは主の使いが言ったように、マリヤを迎えました。この迎えるとは受け入れるということです。理解できなくても、みことばは真実であることを信じて受け入れる。これが信仰を持っている私達に神が求めておられることです。 
 ヨセフはそこから、救い主の父としてその働きの多くは知らされていませんが、ただ一つ「正しい人だった」というマタイのことばが何よりの光栄な証言として記録されたのです。それは人にではなく神に覚えられているということです。何という恵みでしょう。私たちにとっては、名声はどうでもよい。何よりも嬉しいのは神に、天の父に、そして私たちの主イエスに覚えていただいていることではないでしょうか。あの十字架上の強盗の一人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには私を思い出してください」と言いました。なぜでしょう。それは、彼にとって、それだけで十分幸せですという主への愛であり告白だったからです。しかし、主は言われます。「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」
 今日の箇所で、マタイはかなり気をつけてヨセフを紹介していました。それは、マリヤのことは「その母マリヤ」とイエス・キリストの母であると言いながら、ヨセフに対しては「夫のヨセフ」と言っています。つまりイエス・キリストの父とは書かなかったことがわかります。なぜなら、イエス・キリストの父は神様だからです。しかし、神様の評価は「ヨセフは正しい人であった」それで十分です。 
  大事なことは神を愛し人を愛すること。神を愛するとは神のことばを優先するということです。その神を愛する歩みこそ、本当の意味で人をも愛する歩みとされるのです。私もこのように生きたいと思わされました。控えめにただ神に用いられることに感謝し生きる歩みです。
最後に、そのような生き方を歌っている詩篇がありますので、ご一緒にお読みして終わりたいと思います。
詩篇84:10
「まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。」
 主よ、あなたの御国のはしくれで十分幸せです。

 

祈り
恵み深い天のお父様。あなたはヨセフを通して主イエス様をこの世に送ってくださり、その罪から救うお方として与えてくださりありがとうございます。その影でヨセフは用いられ、マリヤの夫としてその生涯を全うしました。そのヨセフをあなたは「正しい人、義人」と呼んでくださり、その歩みを祝福されたことを覚えて感謝します。私たちも人の声や人の目ではなく、あなたを愛し、あなたのみことばに聞いて歩みたいです。どうか、聖書を通して日々御心を示してください。主の御名によって。