のりさん牧師のブログ

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「宝の箱をあけて」マタイの福音書2章1~12節

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序論

  今日、開いた聖書箇所には、二種類の人たちが登場します。一つはユダヤの王様のヘロデです。もう一つは東の国から旅を続けて来た博士たちです。
 今日の箇所ではどちらの人も、同じことを言っています。
博士たちは2節で「拝みにまいりました」と言っています。またヘロデ王も8節で「私も行って拝むから」と言っています。どちらも「礼拝する」ということです。
 今日は、この二種類の人たちに注目して、この人たちの違いは何か、そして私たちはどうなのかということを一緒に考えていきたいと思います。

 

1.偽りの礼拝者 
 1~3節を読みましょう。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」
 ヘロデ大王は当時ユダヤの王様です。王様といってもその当時はローマ帝国に支配された中でのイスラエルですから、それは傀儡政権でした。ローマ皇帝もローマの言う事を聞く人を、その属州の統治者に任命して、ローマへの反乱を防ぐ意味がありました。ですからヘロデはローマの言いなりで、なおかつ、イスラエルではかなり強い権力で自分の地位を守っていました。もともとはエドム人エサウの子孫)なのでアブラハム、イサクの子孫ですがユダヤ人ではありません。でもユダヤの民衆の心を掌握するためにユダヤ教に改宗したのです。そのために立派な神殿を建造していました。つまりヘロデにとって信仰は政治利用の道具でしかなかったのです。
 そこに、突然外国の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生れになった方はどこにおいでになりますか」と言われたら、その心境は穏やかではありません。ヘロデ王は「恐れ惑った」と書いてあります。突然のお客さんに動揺したのではなく、ユダヤの王である自分が知らないところで別なユダヤの王が生まれたという情報で危機感を持ったということです。
 せっかくここまで上り詰めてきたのに、他に王がいるなんて顎が落ちる情報です。それはエルサレム中の人たちも同じだったといいます。だれも救い主なんて頭になかったということです。
 そこでヘロデは、聖書学者たちを呼んで救い主がどこで生まれるのかを調べさせました。学者たちは小預言書のミカ書からベツレヘムという町で生まれるという言葉を見つけて報告。それで博士たちが星を頼りに来たことを思い出し、その星の出現時間から救い主誕生の時期を割り出して、現在既にどのくらい時間が経っているのかを調べたのです。
 結局、このような調査は二歳以下の子どもを殺すという方針の材料になります。ヘロデにとって、救い主は自分を失脚させる疎ましい存在、敵でしかなかったということです。
 神様がせっかく遣わした救い主が、ヘロデにとっては拝むどころか抹殺する相手だったのです。8節の「私も行って拝むから」という言葉は、博士たちを騙してイエス様を殺すための方便、自分を良く見せるための道具、アクセサリーに過ぎなかったのです。
 私たちの信仰もアクセサリーなのか、自分の生き方そのものなのかはっきりさせることが重要です。
 
2.真の信仰者は宝の箱をあける
 しかし、そのようなヘロデに対して、メシアの訪れを心から待っていたのが東方の博士たちでした。この東方の博士たちがメシア登場の中心に描かれていることは、この福音書を読むユダヤ人たちにとっては事件です。なぜならば、彼らは異邦人で占星術師というイスラエルでは忌み嫌われるべき人たちだからです。そういう意味で、ここに示されている博士たちの姿には、同じ異邦人である私たちへの慰めがあるのです。ここから真の信仰者について三つのことを見ていきましょう。
 まず一つ目は、東の方(メソポタミア地方だとしたら1600kmくらい)でメシアの星を見て、わざわざ時間とお金と命を懸けてやって来たということです。しかもその目的が「拝むため」です。これは礼拝するという意味です。
 これは主を礼拝することに対する計算がないということです。まず礼拝することを第一にして出発する。

   その思いこそアブラハムの信仰です。アブラハムは、どこに行くのかわからないのに神様のみことばに従って家族を連れて旅に出ました。それはただの楽観的とは違います。その中心は、その家族とともに自分を生かしてくださっている主を礼拝するためであります。だから、アブラハムは要所要所で必ず祭壇を築いて家族で礼拝しています。

  東方の博士は異邦人なのに、しかも複数で命がけで礼拝しに来ました。異邦人の占星術の博士の方が、ユダヤの王ヘロデよりもずっとアブラハムの子孫だったということです。ヘロデは自分のことが一番。自分の地位や名誉が大切です。8節の「私も行って拝むから」という言葉の裏には自分を守るためにイエス様を殺そうという計算があります。しかし博士たちは命がけで礼拝しに来たのです。ですから大切なことは、主を礼拝することを第一とする。これが真の信仰者として学ぶ第一のことです。
 第二のことは、10節です。
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
 博士たちの長い旅を支えるものは、この喜びでした。主を礼拝することを喜ぶ。つまり、主にお会いすることを楽しみにしていた。それはどうしてでしょうか。どうして、大変な長い旅を続けて、尚も喜んでいるのでしょうか。財産もつぎ込んで危険を冒して旅に出るほどに彼らを押し出した喜びとは何だったのでしょうか。
 それは、救い主に対する愛ではないでしょうか。ただ物珍しいものを見るためだけなら、こうはなりません。しかも、彼らの目線はずっとこの星に集中していることがわかります。2節には「その星を見たので」と言っています。これを書いたマタイも9節で「見よ、東方で見た星が」と指差しています。その星は何を物語っているのでしょう。彼らが占星術師だったからでしょうか。星を研究していたから気になっていただけでしょうか。
 そうではありません。11節にはこう書いてあります。
「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ」
 その目は実は星ではなくずっと幼子イエス様を見ていたのです。この主イエスを目の当たりにしたとき、彼らはひれ伏して拝みました。ひれ伏すと拝むという同義語を重ねて使って、彼らの礼拝がどれほど真剣で心からの礼拝であったのかがわかります。博士たちの目線はイエス様からぶれない。イエス様から目を離さない。これが、真の信仰者として第二の姿です。
 そして、最後に第3の姿。それが11節後半です。
「そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
これは、自分の大切なものをささげるということです。では博士たちと同じように黄金、乳香、没薬をささげるのか。またはこれらは当時の高価なも品物ですから、自分の持っている高価なもの、アクセサリーやお金をささげることかと思います。もちろん、それがその人にとっての最善であるならそうすべきです。しかし、ここで今日、問われていることは、何をささげるかというよりも、「宝の箱をあけて」ということです。何をあけるかでささげるものが決まってきます。
つまりあなたの宝がある場所を開けること。それがここで私たちが求められていることなのです。
エス様はこう言われました。
「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるからです。」マタイ6:21
つまり私たちの心こそ、宝の箱だということです。それは、私たちは大切なもので心を満たす生き物だからです。好きな人ができると朝から晩までその人のことで頭も心もいっぱいで何もできなくなります。それを恋わずらいと言いますが、好きなもので煩うくらい、私たちの心と言う宝の箱はすぐに満杯になります。そうすると本来すべきことができなくなり、見るべきものが見えなくなるのです。つまり自分の宝物が自分の首を絞めることにもなっているということです。
博士たちは宝の箱をあけて黄金、乳香、没薬をささげました。だから当然帰りは荷物が軽くなります。それは何を意味するでしょう。実は、その持っていた宝物が重荷であったということです。私たちは大切なものがたくさんあります。どれも大事でしょう。お金も家族も、仕事も社会的地位も、それぞれ大事なものです。 しかし、そのことに執着している限り、つまり自分の宝の箱をあけない限り人生の重荷は重いままです。仕舞いには負いきれず、倒れるでしょう。それは、単に好きなものだけではありません。あなたの心の奥の開けてはいけない部屋のことでもあるのです。それがあなたを苦しめている過去の色々な出来事。人に言えないことも、イエス様に打ち明けるなら、解放されるのです。
主イエス様は、あなたのすべての重荷を引き受けるために来てくださいました。私たちの握り締めているすべての重荷を負うために神の御子が人として来られた。それがクリスマスです。
  ヘロデは自分の宝の箱を開けることができませんでした。彼の宝の箱には彼自身が大切にしまってありました。彼は自分の王座をイエス様に譲ることができなかったのです。それを守るためにこのあと2歳以下の男の子が虐殺されます。そして、彼自身、最後まで人を信用できず、息子も妻も殺して、誰をも愛せず、愛されず死んでいきます。
 私の実家はもともと浄土真宗でした。でもクリスマスに何かお祝いをしていたかというと、あまり覚えていません。ただ覚えているのは、クリスマスになると必ず私と姉と弟宛にハガキが届いていたことです。サンタクロースの絵が描かれた可愛い感じのクリスマスカードでした。最初は全く気にしないでいましたが、物心がつくようになった小学校の高学年頃に、それがどこかの福祉団体からだということがわかりました。なぜ、福祉団体から私たち兄弟にクリスマスカードが送られてきたのでしょうか。それは、うちが母子家庭だったからです。私の父と母は、私が5歳のときに離婚しました。私の姉が小学校1年生のときです。だから、姉だけは学校で苗字が途中から変わったという苦痛を味わいました。
 父の苗字は古澤です。だから私も、5歳までは古澤憲久でした。だから小学校に入ってから保護者名に母の名前を書くのが子供心に寂しさを覚えていました。
 つまり、そういう可哀相な子どもだからクリスマスカードが来ていたと思うと、益々寂しい気持ちになったことを思い出します。ぼくは可哀相な子どもなのかと。
 でも、中学3年生のときに教会に行くようになって、クリスマスの本当の意味を知っていくうちに、イエス様が私の寂しい心を喜びで満たすために来られたことがわかって、それからは、クリスマスは嬉しい日に変わりました。そのクリスマスカードを送ってくださっていた人たちにも感謝の気持ちが湧いてきました。決して、母子家庭の私を上から目線の可哀相だからではなく、励まそうとしてくれていたんだと、心の底からそう思えるようになりました。
 本当のクリスマスの意味がわかると、心の歪みや捻くれた思いが正されていったのです。それは、私の心の王座に私ではなく、イエス様が座ってくださったからです。イエス様が私の宝になったからです。

 

結論
 イエス様は今日、あなたの宝の箱をあけるように待っておられます。それは、イエス様があなたの宝が欲しいからそう言っているのではありません。イエス様は神様ですから、私たちのささげものがなくても当然生きていけます。むしろ、あなたの宝の箱である心が軽くなって自由になるように、イエス様の愛でいっぱいになることを願っているのです。
 博士たちは、このあと荷物が軽くされて帰りました。そのとき、何と神様の言葉が与えられて、彼らが自分の国へ無事に安全に帰られるように導いてくださったのです。12節。
「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」
 主を礼拝することを第一として主にのみ目を注ぎ、自分の心を明け渡すとき、必ず新しく生きるためのみことばが与えられます。それは一回きりでなく日々与えられ、私たちを天の御国まで導いてくださるのです。
 私たちも、今日、主の前に礼拝をささげるために集まりました。自分の宝の箱を全開にして主の前に出ていこうではありませんか。