のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「血の花婿モーセ」出エジプト記4章18節~31節

f:id:kinokunizaka66:20190105101222j:plain

「民は信じた。彼らは、主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝した。」31節

 主の山でイスラエル民族救出の召しを受けたモーセは、しゅうとイテロのもとに帰り、エジプトに戻ることを告げました。そのとき、イテロにとっては急なことであったにも関わらず、イテロは「安心して行きなさい」と励まします。この言葉は、いつも心が通じ合っていた間柄であったことを物語っています。

 日ごろからともに語り、ともに生活をしている者同士は、いざというときに多くを語らずとも、また多くを聴かなくても、物事は解決に向かいます。それは、これまで築き上げてきた信頼という関係性が構築されているからです。

 そして、主ご自身もみことばによってモーセに語り、このミッションが主からのものであることを再確認させます。しかも、これまでモーセのいのちを狙っていた者が死んだという朗報つきで励ますのです。主は私たちにも同様に、新しく始めるとき、新しく歩もうとするとき、殊更丁寧に、優しく、私たちの心が折れないように労わりつつ導いてくださる方です。特に、信仰の歩みを始めたばかりのときは、非常に小さな願い事をも叶えてくださり、ご自身が間違いなく保護者であることを私たちに分からせてくださるのです。この時のモーセに対してもそうでした。

 エジプトへ向かう途中、主は何とモーセのいのちをとろうとすることが起きます。どのように殺そうとされたのかは分かりませんが、その危機を妻のツィポラの機転で免れます。ツィポラは息子の包皮を切り取って、それをモーセの両足につけるという驚くようなことを行いました。そのことによってモーセは主によって殺されることから免れたのです。ツィポラはそのとき「まことに、あなたたは私には血の花婿です」と言い放ちました。しかも聖書は「割礼のゆえに『血の花婿』と言った」と記録します。

 割礼はアブラハム以降、その子孫たちが行っている宗教行為です。

「次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。」創世記17章10節

 このモーセがなぜ主によって殺されそうになったのかという疑問に対する答えが見えてきます。それは、モーセは自分の息子に割礼を受けさせないでイスラエル人として行動しようとしたからではないでしょうか。これからエジプトに帰り同胞イスラエル人たちを救う一人のイスラエルモーセとして、その家族もまた聖別すべきところを、まだ行っていなかった。それがモーセの父親としての責任において、そのいのちが問われたと考えられます。

 そして、その責任はその息子に対するだけでなく、これから救おうとする全イスラエル民族に対する責任でもあるということではないでしょうか。なぜなら、イスラエル民族は主にとって「わたしの子、わたしの長子である」(23節)からです。主にとっての子どもであるイスラエルを救う羊飼いとして、モーセはいのちがけでそのことに立っていく必要があったからです。しかも、息子の包皮を両足につけられて命が贖われたことは、イスラエル民族をも霊的な割礼を受けさせて聖別することがもっとも大きなミッションだったということではないでしょうか。

 単にエジプトから逃げられれば良いのではありません。イスラエル人たちが真に主を信じ、主を礼拝し証しする民として生まれ変わることが、この出エジプトの大きな意義であったからです。

 モーセは、そのためにモーセの口となってくれる兄アロンに会い、モーセに与えた主のことばをアロンが取り次いだのです。そのことばと業を見たイスラエルの長老たちは、まさにその二人の姿を通して「信じた」のです。その初めの信仰の一歩として、今日、冒頭で記したように「主がイスラエルの子らを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞」いたことが、彼らの信じた内容でした。

 それはまず神の私たちに対する憐れみを聞くことが信仰の第一歩だということです。私たちもまず主の憐れみに触れて行きたいです。主がでれほど私たちを憐れんでくださって、その血の花婿となってくださったか。

 モーセが血の花婿と言われましたが、この出来事は私たち教会の花婿であるキリストを指差していると思われます。主イエス・キリストは、私たちを贖うために血を流し、その血によって私たちを聖なるものとして救い導いておられます。それはモーセの息子の血にまみれた包皮によってモーセのいのちが救われたようにです。しかも、今度はそのモーセイスラエルの民の贖いのためにその命をかけることに繋がっていきます。

 私たちも、主イエスによって贖われたのです。そうであるなら、なおさら私たちも、救いを必要としている人々のために、今日も、主の血潮のゆえに、命をかけて福音を宣べ伝えていきたいと思います。

「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」ペテロの手紙第一2章10節