のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「感謝に溢れる歩み」 コロサイ人への手紙2章7節

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序論
 新しい年がスタートしました。日本では今年は天皇が交代するという、大変珍しいことが行われる予定です。明治以前はよくあったことでしたが、明治以降としては初めての出来事です。そこに統一地方選挙参議院選挙があり、国政も動きがありそうです。この国はどこを目指して進もうとしているのか、何を求めて、この2019年をスタートしているのかまだわかりません。
 第95回箱根駅伝が行われました。青学V5はなりませんでしたが、私が駅伝で面白いと思うのは、番狂わせです。確かに最後のゴールは感動的ですが、途中の中間地点でもそれぞれゴールがあって、その区間での早さや順位も重要だということです。
 私たちの信仰の歩みもそうです。目指すは神の国。完成された神のご支配です。しかし、途中にも小さなゴールがいくつもあります。それがこの一年一年だったりするわけです。去年のレースはどうだったか。その結果で今年の歩みも変わってきます。
 白石教会の今年の年間聖句はコロサイ2章7節に決まりました。
「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。」
 この聖句を通して、神様は私たちの信仰の歩みをどのようにしなさいと仰っているのでしょうか。まずは今年一年、神様はこのみことばからどういう信仰の歩みをすることを願っておられるのでしょうか。このみことばから私たちのこれからの歩み。つまり皆さんお一人おひとり、そして白石教会として、どのように進んで行くのかを聴いてまいりましょう。

 

1. キリストのうちに根ざし、建てられる。
 今年の聖句には4つの命令が書かれていることがわかります。まず「キリストのうちに根ざす」、次は「建てられる」、次は「教えられたとおり信仰を堅くする」、最後は「あふれるばかりに感謝する」ということです。
 ところがこの4つの命令は、原文を読むと、ある一つのことを4つに具体的にお勧めしているという構造になっていることがわかります。それは、6節のみことばとセットであるということです。
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」
 それは、「キリストにあって歩みなさい」という命令が、この7節の4つのことに結びついているのです。ですから、私たちはイエス様を信じ受け入れたクリスチャンですから、キリストにあって歩む者にされたのです。しかし、なかなか、それがどういう意味かよくわからないで、何となく歩んでいる気になっていることはないでしょうか。だから、私なんかは今一つピントがずれていたり、本当にクリスチャンとしてこんな生き方で良いのかと思ってしまうのです。だから、使徒パウロは、そのことを確認させるためにこの言葉をコロサイ教会の信徒たちに書きました。それが今私たちのところでもよくあることとして、今年は特別に年間聖句として示されたのです。
 ですから、6節の「キリストにあって歩む」とはどういうことかという問いをもって、この7節を読んでいきましょう。
 まず第一のことは「キリストのうちに根ざすこと」です。「キリストのうちに」とありますが、これは6節の「キリストにあって」と原語は同じです。だから6節も「キリストのうちに歩みなさい」と訳すことができるし、7節も「キリストにあって根ざしなさい」と訳すこともできるわけです。ここで言いたいことは、土台がキリストであるということです。根ざすというのは、その土台に根を張ることです。
昨年、地震の前に大変大きな風が吹いて、公園の木があちこちで倒れました。いつもは簡単に倒れない木も倒れたようです。では木が倒れないために大切なことは何でしょうか。それは、確かな場所に植えられることです。地面に根を張ることは大切なことです。しかし、ここで大事なことは、どこに根を下ろし、どこに根を張るかです。やはりその土台となる場所がゆるゆるだと、いくらしっかり根を張ろうとしても、地面ごと弱ければまたすぐに倒れます。
 それと同じように、私たちも私たちの信仰の根っこをどこに張るかが大事です。みなさんは今どこに根を張っているでしょうか。いやいや、キリストに決まっていると言われるかもしれません。しかし、最初はそうだったはずなのに、いつしか気がついたら、別なものに根付いてしまっていることがあるのです。
 パウロは4節で「まことしやかな議論」と言ったり、8節で「あの空しいだましごとの哲学」と言っています。これは、キリストに根を下ろし根を張っていたつもりが、実は人間の知恵や哲学によって信仰が骨抜きにされていた事実を言っているのです。聖書の教え、聖書の思想、そこにある神の御心よりも、人間中心の価値観を優先した解釈が信仰の根幹を揺るがします。
 しかし、キリストにしっかりと根付いているなら、3節にあるようなキリストのうちにある知恵と知恵の宝を受け継ぐことができます。しかも9節にあるように「キリストのうちに」宿っている神の満ち満ちたご性質をも、私たちはいただくことになるのです。
 そのご性質をいただいて、今度は第二のことに繋がっていきます。それが、「建てられる」ということです。「キリストのうちに」という7節の言葉が、枕詞としてここにもかかっています。つまり「キリストのうちに建てられる」ということです。
 ここの建てるということばは、さきほどの「根ざす」とは逆方向に積みあがっていくことを意味しています。キリストという土台に根を張ったなら、今度は上に伸びていくのです。ここでパウロは今度は植物ではなく建物になぞらえて「建てる」と言っています。
 今年、白石教会は新会堂を建てようという道を進んでいます。私は今回、そのための話し合いに何度か関わっていく中で、耐震構造の問題は大きいなと思いました。地震に耐えられる基準があって、それに合うように建てる必要があるということです。もしその耐震構造の問題がなかったら、現在の会堂から増築というかたちで完全に繋げられるのですが、耐震の問題でやはり短くても通路が必要になるのです。でもそれは壊れにくい構造にするためにはやむを得ないことです。
 同じように私たちの信仰も、耐震構造が問われます。信仰の耐震構造とは何でしょうか。それは、ぐらつかない信仰です。パウロはこう言います。
「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく」
私たちクリスチャンを取り巻く環境は昔から様々な教えの風が吹き荒れています。その教えの風という霊的な災害に、どのように私たちは立ち向かうべきでしょうか。

 

2. 教えられたとおり
それが第三の「教えられたとおり信仰を堅くする」ことです。
私たちは、もともと教えられたとおりの信仰をしっかりと守り、その信仰を堅くしていくことが必要だということです。しかし、最近はこれまで教えられてきたことを否定したり、古いと蔑む人たちも起きてきています。しかし聖書の真理に古いも新しいもありません。1+1の答えが2であるという答えが変わらないように、聖書の真理も変わらないのです。
みなさんは、どのような信仰を学んで、これまで歩んで来られたでしょうか。たとえば、聖書についての教えですが、私の信仰の原点は、聖書は誤りなき神のことばであり、信仰だけでなく全生活の規範であると教えられてきました。聖書には誤りがあるという人がいます。でも私の立場は、聖書が神のことばである以上、私にとって矛盾に見える箇所については、私の理解が足りないと答えます。つまり聖書に欠陥があるのではなく理解できない私の側に問題があるという理解です。神のことばに欠陥があるはずがない。これが私の理解です。
またイエス様についてはどうでしょうか。私にとってイエス様は完全な神であり完全な人間です。イエス様は私たちの罪を贖うためにこの世に来てくださり、罪を悔い改めてイエス様の十字架の贖いを信じる者を父なる神と和解させ、完璧な人間であるイエス様ご自身に似るように導いてくださる救い主です。
  みなさんはどうでしょうか。聖書の教えをどのように信じるか。それは、今まで教えられてきたことを堅く信じる。それがこのみことばから教えられることです。その確信は神のことばである聖書によって示されています。ここでいう「教えられたとおり信仰を堅くする」とは、神のことばである「キリストにあって」教えられた信仰です。つまり神のことばである聖書のうちに教えられたとおりの信仰でなければなりません。
  しかし、もし聖書の教えだと言いながら、人間の価値観を優先して解釈するなら、間違いが生まれてきます。たとえばイエス様の復活は一般的には信じがたいから、本当はそんなことはなかったが、弟子たちの心に記憶として生きているという解釈が生まれるのです。
  教会の中で「このような解釈でもいいよ。そのような多様性を認めよう」となると、それはキリストのうちに根ざしているのではなく、また建てられているのでもなく、聖書の教えでもありません。つまりそれはキリストのからだなる教会ではなく、キリストの外に教会っぽい仲良し集団を作っているだけです。でもそれは大変恐ろしいことです。ここでパウロは「教えられた信仰を堅くし」と命じているのは、私たち一人ひとりが、また教会としても、その信仰を守るかどうかの瀬戸際に立たされていることだからです。ペテロはその手紙の中でこう言っています。
「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」Ⅰペテロ5:9a
 悪魔は私たちクリスチャンを、また教会を破壊するために躍起です。そのためにはかつてローマ帝国のように、また戦時中の大日本帝国のように教会を外から迫害させてきました。しかし、それと同時に悪魔は教会の内側から破壊することにも力を注いでいます。それが聖書の教えを歪めて真理から遠ざけて、教会を腑抜けにさせることです。だからペテロは「堅く立って、この悪魔に対抗しなさい」と命じているのです。
 悪魔の常套手段は、1+1は2という答えは、1.9でもよしとしようということです。それがいつの間にか、3でも4でもいいことにしようとさせる。パウロも8節で「もろもろの霊によるもの」だと言っています。
 そこで、その誤った教えや解釈から教会を守るために必要とされたのが信仰告白なのです。それが公に体系作られて残っているのが『使徒信条』です。だから、使徒信条は唱えるというよりは、告白するものです。お経のようなお題目でもありません。私たちが神を、御子イエスを、聖霊を、そして教会をどのように信じているのかを言い表す神への告白なのです。
 しかし、それだけでも不十分な時代に入っていることは言うまでもありません。イエス・キリストを信じていると言ってもどのように信じているのか。十字架につけられたと告白するけど、その十字架は何とためかなど、福音の根幹に関わることにも様々な人間的な理解が入り込んできているのです。
 ですから、「キリストのうちに教えられたとおり信仰を堅く」することは、私たちにとって非常に大切であることがわかります。だから現在、多くのキリスト教会がありますが、それぞれ信仰告白をつくり、それによって悪魔の攻撃に対抗し戦っているのです。しかし白石教会にはそれらしいものがありません。ですから、新会堂を建設する、建て上げる、このときに、内なる教会をも整えるべく信仰を堅く(強く)する手立てとして考えていきたいと思います。

 

3. 感謝にあふれる
最後に4つ目のことを見ていきましょう。
 4つ目のことばは、「あふれるばかり感謝する」ということです。この言葉は直訳的には「感謝にあふれ続けること」という意味ですから、キリストにあって歩むとは「感謝に溢れ続けること」だということができます。
 よく心が満たされるという言い方も聴きますが、私たちの心と言うものは目には見えませんが、入れ物になっているようです。その心と言う器が感謝で溢れるって、どういうことでしょうか。
詩篇では「感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ」とあります。感謝が先立ちます。それは感謝から賛美が生まれるからでしょう。
 感謝が溢れると、そこに喜びが湧き賛美が起るのです。ですから、私たちの心に入れるものがいつも感謝であるなら、その一つひとつの小さな感謝がたくさんになって溢れるときがくるということです。
しかし、逆に感謝ではなく不満だったらどうなるでしょう。
 去年、平岸でガスの爆発事故がありました。あの事故は120本のスプレー缶のガスを放出させて、それにガス給湯器の点火が要因で起ったということです。不満も同じように、たまったら溢れるのではなく爆発します。爆発した不満は、周囲の人を巻き込んで大変な状況になります。
 ですから、私たちの心に入れるものはいつも不満ではなく、感謝でありたいです。小さな感謝で良いのです。その小さな感謝がいつか、この一年の終わり、いや一日というゴール、一週間というゴールでも良いです。その小さなゴールのときに溢れて、それが喜び、賛美になります。感謝が溢れると周囲の人にも影響を与えます。それは幸せという影響です。その感謝の喜びが、やはり今日、聴いているこの三つのことにかかっているということがわかります。

 

結論
 しかし、そのことが本当に感謝になっていくか。これが今日の結論になるでしょう。それは頑張ってそれを完全にできたとしても、結果的にそれが感謝になるでしょうか。頑張れば頑張るほど、きっと「自分をほめてあげたい」と言いたくなるのではないでしょうか。
 しかし、この「根ざす、建てる、堅くする」は受動態としても訳せるのです。
 既に「建てられ」と二つ目の言葉だけ受身で訳されていますが、これは全て「根ざされ、建てられ、堅くされ」ることでもあるということです。それは誰によってされるでしょう。それは「キリストにうちに」つまり「キリストにあって、または「キリストによって」されることなのです。
  このコロサイの2章は、キリストのうちにあるクリスチャンの素晴らしさを表している箇所です。だから、私たちは自分の力で頑張って信仰を建て上げるのではなく、このキリストのうちに根ざすことで、キリストから吸い上げられた栄養によって自発的な信仰が与えられ、その与えられた意思と決断によって建て上げられ、堅くされる。そこに、ただただ神がこんな私を憐れんで、支えて導いて、主のものとしてくださった。ここに心からの感謝が湧いてきます。これがキリストにあって歩み続けることなのです。信仰生活は私たちの意志が大切です。しかし、その意思すら神様から与えられている恵みに気がつくとき、そこに感謝が生まれるのです。その感謝はあなたの一番近くにいる人に溢れます。溢れた感謝は神様への感謝だけに留まらずに、他の人にも伝染します。そうすると、その人のうちにも喜びが溢れてきて、また他の人への感謝になって溢れます。それがこの札幌、また日本に広がり、世界に広がるならそこに目に見える神の国が興るわけです。その延長上に真の完成された神の国が来ることを信じたいと思います。
  2019年もこの繰り返しの中で、小さなゴールの積み重ねで、最後には、私をほめてあげたいというゴールでなく、ただただ主を褒めたたえる神の国を目指すゴールを味わうものでありたいと思います。