のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「心を硬くするファラオ」出エジプト記8章1~32節

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蛙の災い

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アブの災い

Ex. 8:1 主はモーセに言われた。「ファラオのもとに行って言え。
主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
Ex. 8:2 もしあなたが去らせることを拒むなら、見よ、わたしはあなたの全領土を蛙によって打つ。
Ex. 8:3 ナイル川には蛙が群がり、這い上がって来て、あなたの家に、寝室に入って、寝台に上り、またあなたの家臣の家に、あなたの民の中に、さらに、あなたのかまど、こね鉢に入り込む。
Ex. 8:4 こうして蛙が、あなたと、あなたの民とすべての家臣の上に這い上がる。』」
Ex. 8:5 主はモーセに言われた。「アロンに言え。『杖を持って、あなたの手を川の上、水路の上、池の上に伸ばせ。そして蛙をエジプトの地に這い上がらせよ』と。」
Ex. 8:6 アロンが手をエジプトの水の上に伸ばすと、蛙が這い上がって、エジプトの地をおおった。
Ex. 8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じように行った。彼らは蛙をエジプトの地の上に這い上がらせた。
Ex. 8:8 ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「私と私の民のところから蛙を除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」
Ex. 8:9 モーセはファラオに言った。「蛙があなたとあなたの家から断たれ、ナイル川だけに残るようにするため、私が、あなたと、あなたの家臣と民のために祈るので、いつがよいかを指示してください。」
Ex. 8:10 ファラオが「明日」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。
Ex. 8:11 蛙は、あなたと、あなたの家、家臣、民から離れて、ナイル川だけに残るでしょう。」
Ex. 8:12 こうしてモーセとアロンはファラオのもとから出て行った。モーセは、自分がファラオに約束した蛙のことで主に叫んだ。
Ex. 8:13 主がモーセのことばどおりにされたので、蛙は家と庭と畑から死に絶えた。
Ex. 8:14 人々はそれらを山のように積み上げたので、地は悪臭で満ちた。
Ex. 8:15 ところが、ファラオは一息つけると思うと、心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。
Ex. 8:16 主はモーセに言われた。「アロンに言え。『あなたの杖を伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、ちりはエジプトの全土でブヨとなる』と。」
Ex. 8:17 彼らはそのように行った。アロンは杖を持って手を伸ばし、地のちりを打った。すると、ブヨが人や家畜に付いた。地のちりはみな、エジプト全土でブヨとなった。
Ex. 8:18 呪法師たちも、ブヨを出そうと彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ブヨは人や家畜に付いた。
Ex. 8:19 呪法師たちはファラオに「これは神の指です」と言った。しかし、ファラオの心は頑なになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が言われたとおりであった。
Ex. 8:20 主はモーセに言われた。「明日の朝早く、ファラオの前に出よ。見よ、彼は水辺に出て来る。彼にこう言え。
主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
Ex. 8:21 もしもわたしの民を去らせないなら、わたしは、あなたと、あなたの家臣と民、そしてあなたの家々にアブの群れを送る。エジプトの家々も、彼らのいる地面も、アブの群れで満ちる。
Ex. 8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこにはアブの群れがいないようにする。こうしてあなたは、わたしがその地のただ中にあって主であることを知る。
Ex. 8:23 わたしは、わたしの民をあなたの民と区別して、贖いをする。明日、このしるしが起こる。』」
Ex. 8:24 主はそのようにされた。おびただしいアブの群れが、ファラオの家とその家臣の家に入って来た。エジプトの全土にわたり、地はアブの群れによって荒れ果てた。
Ex. 8:25 ファラオはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国の中でおまえたちの神にいけにえを献げよ。」
Ex. 8:26 モーセは答えた。「それは、ふさわしいことではありません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌み嫌うものを、いけにえとして献げるからです。もし私たちがエジプト人の忌み嫌うものを、彼らの目の前でいけにえとして献げるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。
Ex. 8:27 私たちは、主が私たちに言われたとおり、荒野へ三日の道のりを行って、私たちの神、主にいけにえを献げなければなりません。」
Ex. 8:28 ファラオは言った。「では、おまえたちを去らせよう。おまえたちは荒野で、おまえたちの神、主にいけにえを献げるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」
Ex. 8:29 モーセは言った。「今、私はあなたのもとから出て行き、主に祈ります。明日、アブが、ファラオとその家臣と民から離れます。ただ、ファラオは、民が主にいけにえを献げるために去ることを阻んで、再び欺くことなどありませんように。」
Ex. 8:30 モーセはファラオのもとから出て行って、主に祈った。
Ex. 8:31 主はモーセのことばどおりにされた。アブは一匹残らず、ファラオとその家臣、および民から離れた。
Ex. 8:32 しかし、ファラオはまたも心を硬くし、民を去らせなかった。

(新改訳2017)

 

 私たちの心は硬くなったり柔らかくなったりする入れ物です。何を入れるかで硬くなったり柔らかくなったりします。

 エジプトのファラオは、主のことばに対する反抗心が強く、主のことばによって心が硬くなったのです。神のことばなのに、どうしてファラオの心は硬くなったのでしょうか。神のことばは私たち人間にとってなくてはならないものです。

 主イエスは言われました。「人はパンだけで生きるのでなく、神の口から出る一つひとつのことばによる」と。それは、人間が人間として神に造られたように生きるためには、神のことばによらなければならないという意味です。

 私たち人間は目に見えるものが全てだと思いやすいです。それは創造主である神から離れてしまった結果起った悲劇でした。かつてアダムとエバは、神からのたった一つの約束を守れずに、たった一つの神のことばを軽んじて、自分の考えを優先し、神のことばによって生かされてきた神との絆を自ら断ち切ってしまったのです。

 それは見目麗しい善悪を知る知識の木の実と蛇の誘惑のことばに惑わされてしまったからです。それ以来、私たち人間は、神のことばよりも自分の考えを優先し、本来、神のことばによって生かされ癒されるはずが、神のことばによって心が硬くなる状態に陥ることがあることを、今日のファラオの姿から学ぶことができます。

 モーセを通して、イスラエル人たちの解放をファラオに伝えてきた主なる神は、ファラオが素直に神のことばに聞くことを願っていました。しかし、ファラオの頑なさ、その強情さに対して、主がその心を頑なにしたという表現を使って聖書は述べています。これは、主はいつまでもファラオが心を開くことを願っていますが、ファラオがあまりにも頑なな心を変えようとしないので、そのファラオの心のままにされたということです。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され・・・」ローマ1:24

 神が人の心を変えることはできるでしょう。しかし、人間は神のロボットとして造られたのではなく、自分の意思で神を求めるように願われて造られたのです。ですから、その人の意思で神を求めない、神のことばを受け入れないという決断をするなら、神はその状態をそのままにされるということなのです。神が積極的に働かれないとき、人間の思いのままにされるとき、人間はファラオのように自分から破滅の道を選ぶことを、この出エジプト記8章でのファラオの姿勢は表しています。

 蛙も蚋も虻も、神の言葉一つで増え広がり、また止みました。そのような災いを与える主の御心は何でしょうか。それは、10節のモーセのことばがそれを示しています。

Ex. 8:10 ファラオが「明日」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。それは、あなたが、私たちの神、主のような方はほかにいないことを知るためです。

 今日、私たちの心はどうでしょうか。神のことばを受け入れて柔らかくなっているでしょうか。それとも神のことばを入れたはずなのに硬くなっているでしょうか。もう一度、私たちの心を点検してみましょう。もし柔らかくて、神のことばに従順でいられるなら、神に感謝し益々柔らかくされて、神様を賛美しましょう。

 しかし、神のことばを受け入れたのに、まったく響かずに硬くなっているなら、神の前に強情になっている自分がいないか、放置している罪はないか考えましょう。そして、自分の心にあるすべての罪や思い煩いを神に委ねましょう。全部告白し、吐き出して、叫んで、訴えて、心を硬くしている全ての思いを手放しましょう。

 そのために、イエス・キリストが私たちが受けるべき大きな災いである神の裁きと悪魔の呪いをその身に負ってくださって、信じる私たちが、重荷から解放されて、心が柔らかくされて、自由になれるように十字架にかかって死んでくださったのです。そこに神の愛が示されました。その神の愛をあなたの心に受け入れるなら、もう一度、その心は柔らかくされて御霊による自由と、キリストの似姿へ変えられる約束と希望に満たされます。その心に満たされた希望は神への感謝を生み出し、その感謝は泉のように溢れるのです。

 それは永遠のいのちへの希望へと繋がっていきます。この希望によって、今のこの時代、この世界にあっても神の民、キリストの弟子として、その歩みは確かにされます。そのとき「御国が来ますように」という祈りがこの世界に実現していくのです。そして、終わりの日にキリストが再臨されて、神の国は完成されます。

 モーセ出エジプトはその大きな神の国計画実現の過程として、大変重要な意味をもっていました。それは、その約束の地への歩みこそ、今の私たちの信仰の歩み、天の御国への歩みと重なるからです。カナンの地へ向かう努力は決して無駄にはなりません。むしろ祝福への希望であるのです。

 今日も、ほかにいない私たちの神、主のことばの前に心を柔らかくして歩ませていただきたいと思います。まず私たちが主こそ神であることをはっきりと認め、この世も主を信じるようになるために。

「わたしは彼らに一つの心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」エゼキエル書11章19節