のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「主の力強い御手によって」出エジプト記13章

 f:id:kinokunizaka66:20190118074010j:image

出エジプト記
13章
1,主はモーセに告げられた。
2,「イスラエルの子らの間で最初に胎を開く長子はみな、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それは、わたしのものである。」
3,モーセは民に言った。「奴隷の家、エジプトから出て来た、この日を覚えていなさい。力強い御手で、主があなたがたをそこから導き出されたからである。種入りのパンを食べてはならない。
4,アビブの月のこの日、あなたがたは出発する。
5,主は、カナン人ヒッタイト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の地、主があなたに与えると父祖たちに誓った地、乳と蜜の流れる地にあなたを連れて行かれる。そのときあなたは、この月に、この儀式を執り行いなさい。
6,七日間、あなたは種なしパンを食べる。七日目は主への祭りである。
7,七日間、種なしパンを食べなさい。あなたのところに、種入りのパンがあってはならない。あなたの土地のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。
8,その日、あなたは自分の息子に告げなさい。『このことは、私がエジプトから出て来たときに、主が私にしてくださったことによるのだ。』
9,これをあなたの手の上のしるしとし、あなたの額の上の記念として、主のおしえがあなたの口にあるようにしなさい。力強い御手で、主があなたをエジプトから導き出されたからである。
10,あなたは、この掟を毎年その定められた時に守らなければならない。
11,主が、あなたとあなたの父祖たちに誓われたとおりに、あなたをカナン人の地に導き、そこをあなたに与えられるとき、
12,最初に胎を開くものはみな、主のものとして献げなければならない。家畜から生まれ、あなたのものとなるすべての初子のうち、雄は主のものである。
13,ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、首を折らなければならない。また、あなたの子どもたちのうち、男子の初子はみな、贖わなければならない。
14,後になって、あなたの息子があなたに『これは、どういうことですか』と尋ねるときは、こう言いなさい。『主が力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エジプトから導き出された。
15,ファラオが頑なになって、私たちを解放しなかったとき、主はエジプトの地の長子をみな、人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけにえとして主に献げ、私の子どもたちの長子をみな贖うのだ。』
16,このことは手の上のしるしとなり、あなたの額の上の記章となる。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから導き出されたからである。」
17,さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」
18,それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。
19,モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。
20,彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営した。
21,主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
22,昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。

 

 

  私たちの信仰の歩みは、私たちの神である主の助けがなければ始まらないし、続けられません。

信仰とは私たちが自分の力で生きることをやめて、造り主である神に全てを委ね、100%神の力に依存して生きることをだからです。

 

エジプトを出て約束の地に向かうイスラエルの民もそうでした。大切なことは、自分たちを連れ出し、乳と蜜の流れる地に入れるためにその歩みを導いてくださる主の「力強い御手」(3節、9節、16節)によって与えられる贖いのわざを、イスラエルの民がいつも覚えていることでした。

 

そのために主は命じます。しかも、その恵みへの感謝が次の代にまで引き継がれるように「息子に説明して」8節、また「後になってあなたの子があなたに尋ねて、『これは、どういうことですか』というときには、彼に言いなさい」14節、と言われました。

 

それくらい、神の恵みへの記憶、感謝、記念が大切かがわかります。それは、どうしてでしょうか。

それは、私たちは神からの恵みに対して、すぐに当たり前になりやすい者だからです。

 

私たちは神の恵みが、毎日続くと感謝をしなくなる弱さがあります。毎日、日が昇り太陽の温もりの中で生かされていても、それは当たり前だと思っていないでしょうか。毎日、心臓が動いていることも、その血液の循環が守られていることで、全身に酸素が行き渡り生かされていることも、いつものこととして毎日過ごしていないでしょうか。

 

人は一時的な奇跡に対しては驚き、一時的な感謝があっても、それが日常化すると当たり前になり、感謝がなくなるのです。それは、イスラエル人もそうでした。

 

だから、主は言われるのです。

「これをあなたの手の上のしるしとし、またあなたの額の上の記念としなさい」(9節、16節)とです。

これは、手の上にあれば必ず気づくし、額の上にあれば、必ず気になるからです。そうすることで、神のことば、神の教え、神の律法をいつも口ずさみ、神の恵みを覚えるばかりか、まだ神の恵みを知らない者にも証しとなるのです。

 

  神の教えをいつも口ずさむものは、どうなるでしょうか。詩篇にこうあります。

 

詩篇 1篇1~3節

「幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。
主のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える。」


  今日、私たちも主の力強い御手の下にへりくだって、主のことばを、その教えを口ずさむ者とされましょう。主のおしえを口ずさむことは、主の恵みを感謝し、賛美し、証しすることです。その道を益々、主ご自身が昼は雲の柱、夜は日の柱を示して先立って導いてくださるのです。

  力強い主の御手が今日もあなたを支え導いてくださいます。それは、決して偶然でも当たり前でもありません。

毎日が主の奇跡の連続の中で、私たちは生かされているのです。

  主が与えてくださった、この信仰の歩みをするために、主のおしえ、主のことばを手の上に、また額の上に置くようにして口ずさみ、今日も感謝して進もうではありませんか。

 

「21,主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
22,昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」