のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「主の戦いに参加する」出エジプト記17章1節~16節

f:id:kinokunizaka66:20190123045350j:plain



 信仰者は全てを神に委ね、任せて、何もしないのか。それとも、信仰者として神の業に参加するのか。今日の聖書箇所は、まさにそのことを教えています。

 

1.試みる民に答える主

 前半はレフィディムでのこと。イスラエルの民が水がないと騒いだのです。

Ex. 17:1 イスラエルの全会衆は、主の命によりシンの荒野を旅立ち、旅を続けてレフィディムに宿営した。しかし、そこには民の飲み水がなかった。
Ex. 17:2 民はモーセと争い、「われわれに飲む水を与えよ」と言った。モーセは彼らに「あなたがたはなぜ私と争うのか。なぜ主を試みるのか」と言った。
Ex. 17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
Ex. 17:4 そこで、モーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。今にも、彼らは私を石で打ち殺そうとしています。」
Ex. 17:5 主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。
Ex. 17:6 さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」モーセイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりに行った。
Ex. 17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、主を試みたからである。

 聖書には「民はモーセと争い」と書いてあります。そしてモーセは、そのことを「なぜ主を試みるのか」と言って、イスラエルの民の訴えの根本を見抜いています。

 イスラエルの民が水がなくて喉が渇いたのはそのとおりでしょう。しかし、もし神に信頼し、指導者モーセに協力するなら、まずは祈り心をもって相談しに来るでしょう。しかし彼らの口調は「われわれに飲む水を与えよ」という命令でした。しかも、モーセを石打にして殺すところまできています。

 自分の思い通りにならないと、その原因を人のせいにして責任を問うのは、主を信じる民としていかがなものでしょう。

 しかし主は、彼らの訴えを聞き、メリバの岩を打つ方法で水を出させて彼らの喉を潤されたのです。結局、この騒動の根本は「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」という主への試みであったが、主はその試みに対して、誠実に答えてくださったのです。

 私たちも、自分の主への信仰が足りないのに、その不信仰な願いが聞かれることがあります。それは、私たちの願いが正しかったから聞かれたのではなく、私たちが幼子のようにあまりにも固い食物では生きていけないので、神様が憐れんで聞いてくださっただけなのです。それは、これから主を信じて歩んでいくために、主にこそ信頼し、祈るべきことを教育するためのプロセスだったのです。

 

2.主が戦われる

 それで主は、次にアマレクとの戦いを通して、信仰者が信仰の歩みを続ける中で大切なことを学ばせます。

Ex. 17:8  さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

Ex. 17:8  さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

Ex. 17:9  モーセヨシュアに言った。「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。私は明日、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

Ex. 17:10  ヨシュアモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

Ex. 17:11  モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。

Ex. 17:12  モーセの手が重くなると、彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いた。モーセはその上に腰掛け、アロンとフルは、一人はこちらから、一人はあちらから、モーセの手を支えた。それで彼の両手は日が沈むまで、しっかり上げられていた。Ex. 17:13  ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で討ち破った。

Ex. 17:14  主はモーセに言われた。「このことを記録として文書に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去る。」

Ex. 17:15  モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、

Ex. 17:16  そして言った。  「主の御座の上にある手。  主は代々にわたりアマレクと戦われる。」

 モーセヨシュアに「男たちを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい」と命じました。ヨシュアモーセが言ったとおりに出て行ってアマレクと戦います。しかし、この戦いは、実際に敵と戦うのはヨシュアと彼が率いる精鋭部隊ですが、その戦いを支えているのは指導者モーセの祈りであり、その祈り手であるモーセを支えるのは、モーセの仲間であるアロンとフルでした。

 そこで、その戦いでアマレクを打ち破ったのは、ヨシュアたちで、最終的には主が戦われていたことがわかります。

 この戦いを通して、主はイスラエルの戦いは全て信仰の戦いであり、そこには必ずいっしょに戦う仲間がいて、それを祈る仲間がいて、更にはその祈り手さえも支えている仲間がいることを教えてくださいました。しかも、実はその戦いには主が戦っておられていたことを教えています。

 私たちも信仰者であるならば、信仰の歩みには自分自身がまず参加しなければなりません。主に委ねているのだから何もしないというのは、信仰者の本当に姿ではありません。私たちには戦う力がないことは認めるべきです。しかし、だからこそ主に頼るのです。主に祈るのです。主の戦いに参戦するのです。そのときに、戦っているのはあなただけでない。一緒に戦う仲間がいる。そして、その戦いを応援し、支えている仲間がいるのです。

 それが教会です。不平不満が出てくるかもしれません。でも、それは本当に神様への信仰に基づいているでしょうか。神を愛する延長上での不満でしょうか。自分を教会の外において、外から他人事のように騒いではいないでしょうか。そうやって、教会の中に本当に神はおられるのかと言って、主を試みてはいないでしょうか。

 でも、安心して立ち上がるべきです。なぜなら、私たちの信仰の歩み、信仰の戦いすべてにおいて、必ず主がまず戦っていてくださるからです。

 モーセはアマレクとの戦いで勝利しましたが、その勝利を自分たちの手柄にはせずに、祭壇を築いてその栄光を主に帰しました。

Ex. 17:15  モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、

Ex. 17:16  そして言った。  「主の御座の上にある手。  主は代々にわたりアマレクと戦われる。」

 今日も、あなたとともに戦う仲間がいます。そのあなたを祈って支えている仲間がいます。何よりも、あなたのことを心配して、あなたの信仰の歩みを全面的に支え、戦っておられる主がともにいるのです。

 今日という一日の戦いも、あなたは一人ではありません。ただあなたを愛し支えておられる主と教会が見方であることを覚えましょう。また、あなた自身がアロンやフルのように、あなたの信仰の友を支える祈り手となって、この祈りのチームを益々堅固にしていこうではありませんか。

 

1Sam. 17:47

「ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」