のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 「キリストの名」

Ιησούς Χριστός

序:

  私たちにとって名前とは、大勢の中にある個を指定する、または判別する役割がある。また、名前はその個の存在や働きを表わす場合にも有効である。特に人間における名前は、その個々人の固有名詞としての名ばかりか、称号であったり階級であったりする場合もある。そのような一般論としての「名前」を念頭に「キリストの名」を考え、聖書と言う眼鏡を通してキリストご自身の輪郭、実体に近づきたいと思う。

 

I. この世におけるキリストの名とは
  この世界において、キリストという名前は多くの人々に知られている。もともとは、ヘブル語で「油注がれた者」を指すמָשִׁיחַメシアのギリシャ語訳Χριστὸςクリストスという一般名詞である。しかし、今や「キリスト」という名は、世界的な規模でナザレのイエスの称号であり、ほぼ固有名詞として用いられる。
  日本においては、1549年にポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教ローマ・カトリック)が伝えられた。その際、ラテン語聖書のDeusデウスを「大日」と訳し、その後「大日」では密教における大日如来と混同されてしまうため、ラテン語の音読みのデウスと変更したが、「イエス」についてはザビエルが属する托鉢修道会イエズス会の名にもなっている「イエズス」が神の御子の名として使われるようになった。そのキリスト教集団は日本人から切支丹と呼ばれ、九州から東北まで広まったが、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出され、その後の徳川幕府においても切支丹禁止令によって、その名は邪宗門の代名詞のように扱われるようになった。
  近代日本において、キリストという名はキリスト教の開祖として知られるのが一般的であり、釈迦やマホメットと並んで世界三大宗教の一つとして教育されている。多くの日本人はキリストと言う名を聞いても、そのような理解の域を出ない。しかし、この世での名前の用い方においても共通している名前の権威にまず注目したい。権威は他を従わせることのできる力であり、その権威によって治められるものがあることを示している。

  たとえば、建設工事等で申請すると許可が出る「道路使用許可」等は、その道路を所轄する警察署長名で許可される。それは、一介の巡査の肩書では用を成さないからである。また競馬で目にする天皇賞も、その名に権威があるからこそ価値がある。ここで共通しているのは、何れの場合もそれぞれ本名を用いずに、その肩書や称号、役職名が先行している点である。それは、個人の名は個人が退任するか、死亡することにより、その権威はその個人から継承した個人に移行するからである。
  キリストの名には前述したように「油注がれた者」という、イスラエルの王を示す意味がある。それは預言書によれば、後に来る世界を治める支配者メシアとしての権威をも表わす。新約聖書においては、悪霊を従わせる力、病を癒す力、罪を赦す力があることがわかる。主イエスの弟子たちはほとんどがガリラヤの漁師であったが、キリストの名によって上記の業を行った。それは弟子たちに、癒しの業や悪霊追い出しのスキルがあったからではなく、あくまでキリストの名にある権威である。マタイの福音書における大宣教命令(マタイ28:18~20)において、主イエスは「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と仰せられた。そしてあらゆる国の人々を弟子として「父、子、聖霊の名によって」バプテスマを授けなさいと命ぜられた。まさにキリストの名における神の権威がそこにある。
  ゆえに、いまやキリストの名にある権威は、イエスというお方にのみ使用される称号であり、他の者に移行することのない神の御名である。


II. ἐγώ εἰμι
 聖書に見る「キリスト」の名は直接的な意味としては、福音書記者が記しているようにイエスの職制、権威、資格である。ルカの福音書4:16~30に記されている主イエスイザヤ書61章を朗読し、そこに預言されている「油注がれた」者がご自分であることを宣言された。
  その「油注がれた」お方のお言葉から、「キリストの名」にある豊かさを見ることができる。その言葉はἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)である。ἐγώ εἰμιはイエスの神性を表わす語としてよく知られているように、かつてシナイ山にてモーセが聞いた神の聖名「わたしはある」(出エジプト3:14)のことであるが、ここでは特にヨハネ福音書におけるいくつかのἐγώ εἰμιに注目する。
①「わたしがいのちのパンです」(6:35)
②「わたし世の光です」(8:12、9:5)
③「わたしは羊の門です」(10:7)
④「わたしは良い牧者です」(10:11)
⑤「わたしは、よみがえりです。いのちです」(11:25)
⑥「わたしは、道でり真理でありいのちです。」(14:6)
⑦「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)
●「わたしがそれ(キリストと呼ばれるメシア)です」(4:25~26、18:5)
  上記8つのキリストの名には、イエス・キリストがどのようなお方かを表す意味が含まれている。このすべてが私たち人間のだれもが必要とするかけがえのないものである。つまり、今やナザレのイエスの称号として固有名詞化したキリストの御名には、私たちの人生においての大切な答えが集結していることがわかる。
  これは、何れも他に例を見ないキリストの卓越性に気付かせられる。

  「真理」を例に挙げると、他の宗教者であるならそのほとんどが、それぞれの開祖が探究し発見した「真理」を指し示すものではないだろうか。しかし、キリストは「ご自身」と「真理」をイコールとされたのである。それは「道・いのち」においても「羊の門」においても「いのちのパン」「世の光」「まことのぶどうの木」「よみがえり」そして「メシア」においても同様である。それは、それぞれがキリストご自身であるということである。だから、キリストがこの地上に来られたということは、「真理」が受肉したということであり、また「道」が、「いのち」が人の姿をとって来られたということである。
  これはかつてシナイ山において「わたしはある」と言われたお方の具体的なお姿であり、私たち人間との関わりの中で、私たちにとってなくてはならないお方であることを表わしている。主はその存在を福音書においてもはっきりと示し、私たちがそのキリストを通して父なる神を体験的に知るように顕わされたのである。
  主イエスヨハネ17章のいわゆる「大祭司の祈り」の中でこう祈っている。
「わたしは、あなたが世から取り出してわたしにくださった人々に、あなたの御名を明らかにしました。・・・わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。・・・そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
 主イエスは、父の御名を私たちに明らかにし、父が御子に与えられた御名の中に私たちを保ち、知らせ、またこれからも知らせ続けるのは、父の御子に対する愛が私たちの中にあり、御子ご自身が私たちの中にいるためだと言われている。

 

Ⅲ.わたしもその中にいる
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイ18:20
 それが、キリストの名によって集まるところにキリストご自身が臨在されるということである。これもまた、他に例を見ない事実である。私たちの名前を考えた場合、名前が語られたからと言って、そこに私たちの存在があるとは言えない。その名前における権威は人間でもあり得る使われ方であるが、名前とともに実体の臨在を一致させることはできない。しかし、キリストはその名によって集まるところにともにいると約束された。それは信じる者すべてに与えられた主の御霊において日々体験し、その臨在を覚えることができるということである。
 そのインマヌエルの主は、こうも言われた。
「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:14)
 私たちは、キリストの名によって祈る。それは、第一にキリストがそこに臨在されることを求めるからである。私たちともともにいてくださる主を私たちは慕い求める。この混沌とした世界にあって、キリストの臨在の中集まる我らに主の知恵、主の愛、主のきよさを私たちは必要としている。
  第二には、私たちの祈りを天の父に届けるためである。それは、御子が、神と私たちを執成す唯一の大祭司であり、仲介者だからである。私たちはキリストの血による贖いのゆえに救われた。その血潮は今もなお、私たちのこの地上を歩む上で汚れてしまう足を洗いきよめ続ける。

 

結論:

「キリストの名」・・・それは、神の御子、メシア、王、預言者、大祭司、犠牲の小羊、しもべ、完全な人間としての使命を帯びている。そして天においても地においても、あらゆる被造物を従わせることができる権威が、この「キリストの名」にある。そして、「わたしはある」という名をモーセに示されたお方は様々なἐγώ εἰμιのお姿で私たちの「道・真理・いのち、門、いのちのパン、よみがえり、メシア」として、信じる者とともにある。それは「キリストの名」が、私たち人間にとってなくてはならない、かけがえのない存在であることを表わしている。それが、キリストの名によって祈ることの必要をも教えてくれる。それは、その名を呼び求め、その名で集まり、その名で語りあうそのとき、キリストの権威・キリストの卓越した神性に触れることができるからである。それは、私たちの想像力や思い込みでキリストをイメージしているのではなく、まさしく今も生きて働かれているキリストご自身の臨在がそこにあり、まさに「わたしを見たものは父を見たのです。(ヨハネ14:9)」 とあるように、キリストの名によって集められた私たちは、キリストの臨在を通して、天まします我らの父を知ることができるのである。それは、キリストに連なる我々キリスト者は「父、子、聖霊の御名によって」、キリストとバプテストされたという聖霊の恵みの中に取り込まれているからである。