のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●「宮の中で」: 詩篇 48篇9~10節

"9.神よ私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。
10.神よあなたの御名と同じくあなたの誉れは地の果てにまで及んでいます。あなたの右の手は義に満ちています。"

  私がまだ高校生の頃、まだ洗礼を受けていないとき、バイブルキャンプに誘われて行ったことがありました。

  そのキャンプのある朝、私は朝靄の中、キャンプ場の広場のベンチに座っていました。すると、クリスチャンの方が隣に来て、こう言いました。

「ぼくは、こういう場所にいると神様を感じるんだ。」

  高校生の私は心の中でこう思いました。「こんなこと本気で口に出して言うんだ」と。でも、その方は心からそう感じて私に話してくれたのです。

  しかし、私もイエス様を信じて洗礼を受けてから、その方の言ったことが、本当にそのとおりだとわかったのです。自然の中で、あの朝靄の中で神様を感じる。神様の創造の素晴らしさ、その恵みの大きさに圧倒されるのです。

  でも、クリスチャンが神様を感じるのは、そのような自然界の中にいるときばかりではありません。

  今日の聖書のことばは、詩篇48篇ですが、その9節にはこう書いてありました。

"48.神よ私たちはあなたの宮の中であなたの恵みを思いました。"

  詩人は神の宮、つまり神殿の中にいるときに神様の恵みを思ったと言っています。それは、神殿における礼拝を献げている中で、そう感じたということです。

  それは、私たちも同じです。現在、神殿という建物は存在しませんが、今は教会があちこちにあり、教会で献げられる礼拝こそ、その神の「宮の中で」と同じことが味わえる場所であり、空間です。

  もちろん自然の中においても礼拝できるし、教会の中でも神様を礼拝できます。神様は、信じるあなたといつも一緒にいてくださいますから、場所がどこであれ、あなたが神様を覚え、礼拝するなら、つまり祈るなら、神様はあなたの思いの中にもご臨在され、あなたが神の恵みに感謝が溢れて、神様に感謝をささげずにはいられなくなるように働いてくださるのです。

  それは、あなたが神を覚え、祈る所が常に神の宮に変わるからなのです。神様を礼拝する場所は、昔はエルサレムだと言われていました。しかし、イエス・キリストが来られた今、神様を礼拝する場所は限定されません。

  イエス様は、こう言われました。

"イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」"
ヨハネ福音書 4章21~24節

  御霊と真理によって礼拝するなら、神の宮はそこにあるのだとイエス様は言われたのです。そして、今がそのときであると。また、こうも言われました。

"パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。"
『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」"
ルカの福音書 17章20〜21節

  神の国、神の支配は、限定されるものではありません。地の果てにまで、どこにでも、そのご支配はあり、全地において、その名を聖とされるお方なのです。また、同時に信じるあなたの只中にあって、あなたの思いをご支配して、あなたがどんなに悲しいときでも、どんなに苦しいときにも、神様はあなたの外からも内側からも励まし、慰め、逆境に打ち勝つ力さえも与えてくださるのです。

  今日も、そのお方の確かな義の右の手により頼み、どこにおいても神の素晴らしさ、その救いの奇しさを崇めたいと思います。その恵みは、あなたを覆い、全地の王である神の偉大さに、益々圧倒されるでしょう。

"主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山私たちの神の都で。
高嶺の麗しさは全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。
神はその都の宮殿でご自分を砦として示された。"
詩篇 48篇1~3節


"この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。"
詩篇 48篇14節